「宗谷〔二〕」詩碑

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1.テキスト

はだれに
    暗く
緑する
 宗谷岬の
  たゝずみと

北はま蒼に
 うち睡る
サガレン島の
東尾や

   宮澤賢治詠
 
   東大寺長老
     清水公照書

2.出典

宗谷〔二〕(下書稿手入れ)」より(「文語詩未定稿」)

3.建立/除幕日

1986年(昭和61年)10月 建立/12月12日 除幕

4.所在地

北海道稚内市宗谷岬4-1 宗谷岬平和公園

5.碑について

 1923年8月、賢治はこの年の5月に就航したばかりの「稚泊連絡船」に乗って宗谷海峡を渡り、樺太(サハリン)を旅しました。前年に亡くなった妹トシの魂の行方を訪ね、「オホーツク挽歌 詩群」を歌い上げた、傷心の北紀行です。
 この際の宗谷海峡の船上における心象スケッチは、「『春と修羅』補遺」のなかに「宗谷挽歌」として残っていますが、ここで詩碑になっている「宗谷〔二〕」という文語詩も、この旅の体験をもとにして後年に書かれたものです。

 往路の[稚内港→大泊港]も、復路の[大泊港→稚内港]も、どちらも夜に出航して早朝に目的地にに着くという日程ですが、作品の舞台はどちらかの船の上で、ちょうど夜明けを迎えようとしているところです。
 碑になっている部分は、詩の第二連です。ここで船の前方と後方には、北海道の宗谷岬と樺太の亜庭半島が見えています。
 時はまさに日の出の直前であり、まだ光の当たらぬ陸地が、緑と蒼の色彩の対比をなしています。宗谷岬が緑に見え、樺太が蒼く睡っているように見えるということは、船は北海道の方に近いのでしょう。夜明け前に北海道近くにいるということは、これは復路の[大泊港→稚内港]の船上である可能性が高いように思われます。

 現在この碑が建っているのは、北海道の最北端宗谷岬にある小さな丘で、あたりは「平和公園」として整備されていました。

 碑の背面には、次のような文章が刻まれています。

               平和祈念碑

昭和十六年八月宗谷海峡警備のため宗谷要塞重砲兵連隊が創設され クサンルに司令部 大岬に連隊本部及第一中隊 西能登呂に第二中隊 野寒布に第三中隊 声問に第四中隊が配置された 我らは部隊要員として召集され 昭和二十年敗戦の日まである者は妻子と別れ ある者は青春を空しくし 寝食を忘れて任務に就き北辺の護りに励んだ 更に西能登呂要員は敗戦後もシベリアに抑留の身となり四年有余の辛苦の日夜を送った この間再び故国の土を踏むことなく白玉楼中の人となった七名の僚友の霊に対し深く哀悼し 魂鎮まらんことを念ずる
戦後四十年余の歳月は我らに望外の平和と繁栄をもたらしたが それは無辜の同胞らの償いのない犠牲の上に築かれたものであることを肝銘し不戦平和の祈りと 願いをこめて この碑を建立する
    昭和六十年十月吉日
    宗谷要塞重砲兵連隊宗谷会一同

 このような趣旨の碑の碑文として、どういう経緯で賢治のこの詩が選ばれたのかは知りませんが、作品の底流にはやはり潜在的に流れている「挽歌」の雰囲気があり、たしかにこれは鎮魂の碑として、ふさわしいような気もします。こうやって眺めると、もはや異国となってしまったサガレン島に「うち睡る」、戦死者のことさえ思わせます。

 今は「日本最北端の地」として観光スポットになっている宗谷岬ですが、第二次大戦末期には、南の沖縄と同じような最前線の戦局の地であったことを、あらためて思いおこさせてくれました。


 日本の8月にはお盆があり、また終戦記念日と二つの原爆の日があって、現代の日本人にとっては「死者を思う月」ですが、賢治が8月に妹を探す旅に出たのも、「お盆に死者の霊が帰ってくる」という民俗的な思いが、どこか心の底にあったのではないだろうか…、2002年の8月にこの碑の裏表を見て、ふとそんなことを考えました。


「日本最北端の地」碑 (2002.8.14)