石本裕之さんの著書『宮沢賢治 イーハトーブ札幌駅』は、導入部の<賢治カクテル>につづいて、1990年に発表された「賢治と「札幌市」」という文章が巻頭を飾っています。
これは、『春と修羅』の「オホーツク挽歌」とともに、石本さんおっしゃるところの<北の詩群>を構成するもう一つの作品として、「春と修羅 第三集」の「札幌市」を取り上げ、その作品誕生の背景を探っていくという論考です。
まず、作品の舞台である「開拓紀念の楡の広場」というのがどこなのか、ということが問題にされます。候補地となるような札幌市内のいくつかの広場や公園が検討されますが、結局、「中島公園」や「偕楽園」とともに、先日の「札幌セミナー」の時に案内していただいた「開拓紀念碑」のある大通西6丁目が、有力な候補地として指摘されています。
すでに15年も前から、石本さんはこのスポットに着目しておられたわけですね。
次に、「いつ」という問題です。この「札幌市」という作品は1927年3月28日の日付を持っていますが、この頃の賢治はずっと花巻にいて農作業に明け暮れていましたから、これはその日付当日にあった出来事の描写とは考えられません。
そこで、ここに描かれた体験が、はたして「いつ」のことだったのかという問いが生まれてくるわけです。
これに関して石本さんは、三つの可能性を挙げられます。すなわち、(1)「オホーツク挽歌」往路途中の1923年8月1日水曜日の午後、(2)翌年の修学旅行引率中の1924年5月20日火曜日午後、(3)その翌日1924年5月21日水曜日の午前、です。そして、それぞれのスケジュールからして「広場」を訪れる時間的余裕があったのか、当日の気象条件からして「遠くなだれる灰光」と描写された空模様がありえたか、ということが考察されます。
結果的には、スケジュール的にも天候的にも、(1)が最も有力視されますが、じつはこれに対しては、本書の「あとがき」において、石本さんは「ことわり書き」を付けておられます。
すなわち、石本さんがこの文章を書かれた1990年よりも後、やはり今回の札幌セミナーで講師をされた ますむらひろし さんが、「時刻表に耳を当てて『青森挽歌』の響きを聞く」という論考を発表し(1995)、これを一つの契機として、当時まで考えられていた「オホーツク挽歌」の旅の時刻表に、大きな変更が加えられることとなりました。
そして、現在では「【新】校本全集」の年譜でも、8月1日の札幌は、深夜の駅に10分間停車するだけのスケジュールとなってしまい、広場における昼間を体験することは、不可能になってしまったのです。
石本さんは、その問題に触れた「ことわり書き」につづけて、次のように書いておられます。
すると、賢治が「開拓紀念の楡の広場」を訪れたのはどの日か。新たな謎に、今これを読んでくださっている皆さんも、ぜひ想像をふくらませてみてください。「きれいにすきとほった風」が吹いてきますように。
そこで、私も及ばずながら「想像をふくらませて」みたいところですが、すると上記で残った(2)(3)に加えて、「オホーツク挽歌」行の復路の、1923年8月9日・10日という日も、可能性としては否定できませんね。
(この項つづく)
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