青森挽歌

   

   こんなやみよののはらのなかをゆくときは

   客車のまどはみんな水族館の窓になる

      (乾いたでんしんばしらの列が

       せわしくうつってゐるらしい

       きしゃは銀河系の玲瓏(れいらう)レンズ

       巨(おほ)きなよるのりんごのなかをかけてゐる)

   りんごのなかをはしってゐる

   けれどもここはいったいどこの停車場(ば)

   枕木を灼(や)いてこさえた柵が立ち

      (八月の よるのしづまの 寒天(アガア)凝膠(ゼル)

   支手のあるいちれつの柱は

   なつかしい陰影(かげ)だけでできてゐる

   黄いろなラムプがふたつ点(つ)

   せい高くあをじろい駅長の

   真鍮棒(しんちゅうぼう)もみえなければ

   じつは駅長のかげもないのだ

      (大学の昆虫学の助手は

       こんな車室いっぱいの液体のなかで

       油のない赤髪(け)をもぢゃもぢゃして

       かばんにもたれて睡ってゐる)

   わたくしの汽車は北へ走ってゐるはづなのに

   ここではみなみへかけてゐる

   焼杭の柵はあちこち倒れ

   はるかに黄いろの地平線

   それはビーアの澱(おり)をよどませ

   あやしいよるの 陽炎と

   さびしい心意(しんい)の明滅にまぎれ

   水いろ川(がは)の水いろ駅

     (おそろしいあの水いろの空間だ)

   汽車の逆行は希求(ききう)の同時な相反性

   こんなさびしい幻想から

   わたくしははやく浮びあがらなければならない

   そこらは青い孔雀のはねでいっぱい

   真鍮の睡さうな脂肪酸にみちてゐる

   わたくしの車室の電燈は

   いよいよつめたく液化され

     (考へださなければならないことを

      わたくしはいたみやつかれから

      なるべくおもひ出さうとしない)

   今日のひるすぎなら

   いたいたしい雲のしたで

   まったくおれたちはあの重い赤いポムプを

   ばかのやうに引っぱったりついたりした

   おれはその黄いろな服を着た隊長だ

   だから睡いのはしかたない

     (おゝ(オー)おまへ(ドウ) せわしい(アイリーガー)みちづれよ(ゲゼルレ)

      どうかここ(アイレドツホ)から(ニヒト)急いで(フォン)去らな(デヤ)いでくれ(ステルレ)

   《尋常一年生 ドイツの尋常一年生》

      そんないやなひやかしの声を

      いきなりだすものはいったいたれだ

      けれども尋常一年生だ

      十二時過ぎのいまごろに

      そんなにぱっちり眼をあくのは

      ドイツの尋常一年生だ)

   あいつはこんなさびしい停車場を

   たったひとりで通っていったらうか

   どこへ行くともわからないその方向を

   どの種類の世界へはいるともしれないそのみちを

   たったひとりでさびしくあるいて行ったらうか

     (草や沼やです

      一本の木もです)

    《ギルちゃんまっさをになってすわってゐたよ》

    《こおんなにして眼は大きくあいてたけど

     ぼくたちのことはまるでみえないやうだったよ》

    《ナーガラがね 眼をぢっとこんなに赤くして

     だんだん環をちいさくしたよ こんなに》

    《し、そんなこと云ふもんでない

     環をお切り そら 手を出して》

    《鳥がね、たくさんたねまきのときのやうに

     ばあっと空を通ったの

     でもギルちゃんだまってゐたよ》

    《お日さまあんまり変に飴いろだったわねえ》

    《ギルちゃんちっともぼくたちのことみないんだもの

     ぼくほんたうにつらかった》

    《さっきおもだかのとこであんまりはしゃいでたねえ》

    《どうしてギルちゃんぼくたちのこと見なかったらう

     忘れたらうかあんなにいっしょにあそんだのに》

   かんがへださなければならないことは

   どうしてもかんがへださなければならない

   とし子はみんなが死ぬとなづける

   そのやりかたを通って行き

   それからさきどこへ行ったかわからない

   それはおれたちの空間の方向ではかられない

   感ぜられない方向を感じやうとするときは

   たれだってみんなぐるぐるする

   けれどもそんなちがった空間を

   方向といふ感じで感じやうとするのがまちがひだ

   ただそれを知覚する装置がおれたちにないため

   方向といふ考でまにあはせやうとするだけだ

    《耳ごうど鳴ってさっぱり聞けなぐなったんちゃぃ》

   さう甘へるやうに言ってから

   たしかにあいつはじぶんのまはりの

   眼にははっきりみえてゐる

   なつかしいひとたちの声をきかなかった

   にはかに呼吸がとまり脈がうたなくなり

   それからわたくしがはしって行ったとき

   あのきれいな眼が

   なにかを索めるやうに空しくうごいてゐた

   それはもうわたくしたちの空間を二度と見なかった

   それからあとであいつはなにを感じたらう

   それはまだおれたちの世界の幻視をみ

   おれたちのせかいの幻聴をきいたらう

   わたくしがその耳もとで

   遠いところから声をとってきて

   万象同帰(ばんしやうどうき)のそのいみじい生物の名を

   ちからいっぱいちからいっぱい叫んだとき

   あいつは二へんうなづくやうに息をした

   白い尖(とが)った顎や頬がゆすれて

   ちいさいときよくおどけたときにしたやうな

   あんな偶然な顔つきにみえた

   けれどもたしかにうなづいた

      《ヘツケル博士

       わたくしがそのありがたい証明の

       任にあたってもよろしうございます》

    (仮睡硅酸(かすゐけいさん)の雲のなかから

   凍らすやうなあんな卑怯な叫び声は……

    (宗谷海峡を越える晩は

     わたくしは夜どほし甲板に立ち

     あたまは具へなく陰湿の霧をかぶり

     からだはけがれたねがひにみたし

     そしてわたくしはほんたうに挑戦しやう。)

   たしかにあのときはうなづいたのだ

   そしてあんなにつぎのあさまで

   胸がほとってゐたくらゐだから

   わたくしたちが死んだといって泣いたあと

   とし子はまだまだこの世かいのからだを感じ

   ねつやいたみをはなれたほのかなねむりのなかで

   ここでみるやうなゆめをみてゐたかもしれない

   そしてわたくしはそれらのしづかな夢幻が

   もう痛みやねつをはなれたかすかなねむりが

   つぎのせかいへつゞくため

   明るいいゝ匂のするものなことを

   どんなにねがふかわからない

   ほんたうにその夢の中のひとくさりは

   かん護とかなしみとにつかれて睡ってゐた

   おしげ子たちのあけがたのなかに

   ぼんやりとしてはいってきた

   《黄いろな花こ おらもとるべがな》

   それはたしかにあのあけがたの

   とし子の夢の中のことばなのだ。

   たしかにとし子はあのあけがたは

   まだこの世かいのゆめのなかに漂ひゐて

   落葉風につみかさねられた

   野はらをひとりあるきながら

   ほかのひとのことのやうにつぶやいてゐたのだ

   そしてそのままさびしい林のなかの

   いっぴきの鳥になっただらうか

   l'estudiantina を風にききながら

   水のながれる暗いはやしのなかを

   かなしくうたって飛んで行ったらうか

   やがてはそこに小さなプロペラのやうな

   音をたてゝあつまったあたらしいともだちと

   無心のとりのうたをうたひながら

   たよりなくさまよって行ったらうか

      わたくしはどうしてもさう思はない

   なぜ通信が許されないのか

   許されてゐる、そして私のうけとった通信は

   母が夏のかん病のよるにゆめみたとおなじだ

   どうしてわたくしはさうなのをさうと思はないのだらう

   それらひとのせかいのゆめはうすれ

   あかつきの薔薇いろをそらにかんじ

   あたらしくさわやかな感官をかんじ

   日光のなかのけむりのやうな羅(うすも)のを感じ

   かがやいてほのかにわらひながら

   はなやかな雲やつめたいにほひのあひだを

   交錯するひかりの棒を過ぎり

   われらが上方とよぶその不可思議な方角へ

   それがそのやうであることにおどろきながら

   まさしくのぼって行ったのだ

   わたくしはその跡をさへ知ることができる

   そこに碧い寂かな湖水の面をのぞみ

   あまりにもそのたひらかさとかがやきと

   まったく未知だった全反射の方法と

   さめざめとひかりゆすれる樹の列と

   ただしくうつすことをあやしみ

   やがてはそれがおのづから研かれた

   天の瑠璃の地面と知ってこゝろわななき

   紐になってながれるそらの楽音

   また瓔珞やあやしいうすものをつけ

   しづかに移らずしかもしづかにゆききする

   巨きなすあしの生物たち

   夏の野原の白い花の匂

   すべて遠いほのかな記憶のなかの花のかほり

   それらのなかにしづかに立ったらうか

   それともおれたちの声を聴かないのち

   暗紅色の深くもわるいがらん洞と

   意識ある蛋白質の砕けるときにあげる声

   亜硫酸や笑気(せうき)のにほひ

   これらをそこに見るならば

   あるひはおれたちの声を聴かないのち

   どこからかあやしい脅しの声をきき

   凍りさうな叫びのきれぎれや

   意識ある蛋白質の裂かれるときにあげる声

   往来するあやしい車のひびきをきき

   またおれたちのせかいを見ないのち

   暗紅色の深くも悪いがらん洞と

   むぢゃむぢゃの四足の巨きな影

   馳せまはり拾ひ頬ばり裂きあるひは棄て

   あるひはあやしく再生する

   亜硫酸や笑気(せうき)のにほひ

   これらをぼんやり見るならば

   あいつはその中にまっ青になって立ち

   立ってゐるともよろめいてゐるともわからず

   頬に手をあててゆめそのもののやうに立ち

   わたくしがいまごろこんなものを感ずることが

   いったいほんたうのことだらうか

   わたくしといふものがこんなものをみることが

   いったいありうることだらうか

   そしてほんたうにみてゐるのだ)と

   斯ういってひとりなげくかもしれない……

   わたくしのこんなさびしい考は

   みんなよるのためにできるのだ

   夜があけて海岸へかかるなら

   そして波がきらきら光るなら

   なにもかもみんないいかもしれない

   けれどもとし子の死んだことならば

   いまわたくしがそれを夢でないと考へて

   あたらしくぎくっとしなければならないほどの

   あんまりひどいげんじつなのだ

   感ずることのあまり新鮮にすぎるとき

   それをがいねんかすることは

   きちがひにならないための

   生物体の一つの自衛作用だけれども

   いつでもいつでも衛ってばかりゐてはいけない

   ほんたうにあいつはここの感官をうしなったのち

   あらたにどんなからだを得

   どんな感官をかんじただらう

   なんべんこれをかんがへたことか

   むかしからの多数の実験から

   倶舎がさっきのやうに云ふのだ

   二度とこれをくり返してはいけない

 

 

 

   おもては軟玉(なんぎよく)と銀のモナド

   半月の噴いた瓦斯でいっぱいだ

   巻積雲のはらわたまで

   月のあかりはしみわたり

   それはあやしい蛍光板(けいくわうばん)になって

   いよいよあやしい苹果の匂を発散し

   なめらかにつめたい窓硝子さへ越えてくる

   青森だからといふのではなく

   大てい月がこんなやうな暁ちかく

   巻積雲にはいるとき

   あるひは青ぞらで溶け残るとき

   かならず起る現象です

        《おいおい、あの顔いろは少し青かったよ》

   だまってゐろ

   おれのいもうとの死顔が

   まっ青だらうが黒からうが

   きさまにどう斯う云はれるか

   あいつはどこへ堕ちやうと

   もう無上道に属してゐる

   力にみちてそこを進むものは

   どの空間にでも勇んでとびこんで行くのだ

   ぢきもう東の鋼もひかる

   ほんたうにけふの、きのふのひるまなら

   おれたちはあの重い赤いポムプを…

        《もひとつきかせてあげやう

         ね じっさいね

         あのときの眼は白かったよ

         すぐ瞑りかねてゐたよ》

   まだいってゐるのか

   もうぢきよるはあけるのだ

   すべてあるがごとくにあり

   かゞやくごとくにかがやくもの

   おまへの武器やあらゆるものは

   おまへにくらくおそろしく

   まことはたのしくあかるいのだ

        《みんなむかしからのきゃうだいなのだから

         けっしてひとりを祈ってはいけない》

   ああ わたくしはけっしてさうしませんでした

 

   あいつがなくなってからあとのよるひる

   わたくしはただの一どたりと

   あいつだけがいいとこに行けばいいと

   さう祈りはしなかったとおもひます

   

 


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