先日、杉浦静さんの著書『宮沢賢治 生成・転化する心象スケッチ』が刊行されました。
宮沢賢治 生成・転化する心象スケッチ 杉浦静 (著) 文化資源社 (2023/11/10) Amazonで詳しく見る |
収録された論考はいずれも精緻で含蓄があり、1993年刊の『宮沢賢治 明滅する春と修羅』以降30年間の、杉浦さんの研究の集大成となっています。とりわけその中の、「「永訣の朝」の生成──おまへとみんなとに聖い資糧をもたらすやうに」に、私はあらためて感銘を受けました。
この論考によれば、出版社に持ち込まれた当初の「永訣の朝」の末尾は、次のよう結ばれていました。
おまへがたべるこのふたわんのゆきに
わたくしはいまこころからいのる
どうかこれが天上のアイスクリームになるやうに
わたくしのすべてのさいはひをかけてねがふ
それが出版時には、皆様もご存じのように、下記のようになります。
おまへがたべるこのふたわんのゆきに
わたくしはいまこころからいのる
どうかこれが天上のアイスクリームになって
おまへとみんなとに聖い資糧をもたらすやうに
わたくしのすべてのさいはひをかけてねがふ
つまり、賢治は推敲前には、「トシが食べる二椀の雪が天上のアイスクリームになるように」、すなわち〈トシ一人〉の幸せを祈っていたのに対して、推敲後には「おまへとみんなとに聖い資糧をもたらすように」、すなわち〈トシとみんな〉の幸せを祈るという形へと、修正が行われたわけです。
そして賢治が上記のような推敲を行ったのは、『新校本全集』第2巻校異篇によれば「他の手入れとは別のブルーブラックインク」によってだということですが(校異篇p.100)、本論考において杉浦静さんは、賢治の原稿を直接点検することにより、以下の二点を明らかにされました。
- この「別のブルーブラックインク」とは、入沢康夫さんが明らかにした『春と修羅』編成経過の「第三段階」(校異篇p.16)において、「小岩井農場」「青森挽歌」の差し替え稿で用いられた「他紙葉より細字のペン」(校異篇p.166)と同一のものと推定される
- 上記推敲で「一行入れ」と指示する文字が、印刷所で「第二段階」の最後に記入された朱数字の上に重ねて書かれていることから、この推敲が行われた時期も、やはり「第三段階」に属すると推測される
すなわち、「永訣の朝」における上記の推敲は、「小岩井農場」および「青森挽歌」の書き直し・差し替えと一緒に、同時期に行われたと推測されるわけです。
そこで、「小岩井農場」と「青森挽歌」における差し替え内容を見てみると、「小岩井農場」の末尾近くでは、「じぶんとそれからたつたもひとつのたましひと/完全そして永久にどこまでもいつしよに行かうとする」ことが否定され、「じぶんとひとと万象といつしよに/至上福しにいたらうとする」ことが志向されるようになっています。
また「青森挽歌」の末尾近くでは、「みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない」という戒めが出現します。
つまり、「小岩井農場」「永訣の朝」「青森挽歌」という、詩集『春と修羅』の思想的核心とも言うべき重要な作品において、それまでの「個別的な幸福や救済を求める」というスタンスが、「普遍的な幸福や救済を求める」という内容へと、この「第三段階」において連動して修正が行われたわけです。そしてこういった大がかりな修正は、ちょうどこの時期に、賢治の思想に大きな変化があったことを反映していると考えるのが、何より自然でしょう。
このような、目に見えない思想レベルにおける賢治の変化を、原稿調査という地道な作業によって浮かび上がらせておられるところが、この杉浦静さんの研究の意義深いところだと思います。
これに続いて杉浦さんは、「なぜこの時期に賢治がこのような推敲を行ったのか」という問いを立てられます。そしてその要因として、当時の賢治が関東大震災の被災者の苛酷な状況や様々な献身的救援活動を知ったことによって、「宗教的、社会的使命感が激しく揺さぶられたであろう」という栗原敦さんの説(『宮沢賢治 透明な軌道の上から』所収「「風景とオルゴール」の章二連作」より)を引用しておられます。2011年の東日本大震災が、日本中の人々の心に与えた衝撃のことを思うと、これは現代の私たちにも共感できるところです。
さらに杉浦さんは、斎藤宗次郎の『二荊自叙伝』1924年2月7日の「二青年の対話」と題された項に、斎藤が賢治から『春と修羅』の校正刷りを見せてもらい、「我等には行くべき道があるとて/悲憤より脱し/屈託より踊り出で/素朴正信の態度を持して/老青年の奮起を促した」と記していることを挙げ、斎藤宗次郎と賢治が共有したこのような〈場〉の力も、この推敲の契機になったのではないかと述べておられます。
さて、賢治の思想的な変化の背景としては、このような様々な外的要因も働いていたと考えられる一方、これはもう自明のこととして杉浦さんもあえて挙げておられないのかと思いますが、賢治の内部においては、「トシを喪った」という体験そのものが、否応なく彼に変化を強いたのだろうと思われます。
トシの死後、賢治はトシの喪失による悲嘆に暮れ、次生における彼女の幸せを祈り、また樺太旅行においてはトシとの通信も追い求めたようですが、いくらトシのことを強く祈っても、その悲しみは癒えず、彼女の行き先はわからないままでした。
このような苦悩の中で賢治は、自分がトシ一人への思いに執着していることにこそ問題があるのだと考え、「ひとりをいのる」ことをやめて「みんな」を祈るよう方向転換することにより、結果的には自らも救われることになったのだろうと、私は思っています。そして、「いとしくおもふものが/そのまゝどこへ行ってしまったかわからないことが/なんといふいゝことだらう」(「薤露青」)という境地に至ったのだと思うのです。(「論文版「宮沢賢治のグリーフ・ワーク」」等参照)
いずれにせよ、杉浦さんの研究によれば、「永訣の朝」が現在のような形になったのは、『春と修羅』編成の第三段階と推測され、この段階初期までに『春と修羅』の「序」が書かれたと推定されていることからすると、今回見た思想的方向転換が行われたのは、おそらく「序」の日付の1924年1月20日よりも後ということになります。これは、4月20日の出版が、もう目の前に迫っている時期です。
当時の賢治は、まさに疾走しているような様子だったのではないでしょうか。
※
ところで最近、島薗進氏の『なぜ「救い」を求めるのか』という本を読んだのですが、この本の冒頭では、「個別的な救済」を求める話として賢治の「よだかの星」が、「普遍的な救済」を求める話として「グスコーブドリの伝記」が挙げられるなど、島薗氏の賢治に対する強い思いが感じられます。
この本全体の構成としては、その終わり近くまでは、世界史において連綿と続いてきた「救済宗教」が、世俗化の波が押し寄せる現代において「救済なしの宗教性」とも言える「スピリチュアリティ」に取って替わられようとしている流れが描かれるのですが、終盤になって、著者の言うところの「限界意識のスピリチュアリズム」という言葉が登場します。これは、グリーフケアや依存症の自助グループなどのように、誰もが置かれうる心理的限界状況において、やはり一種の「救い」として、人間を支える精神性というようなものを指す概念です。このような心理的営為の重要性がクローズアップされている現代というのは、やはり別の新たな形の「救済宗教」が求められているとも言えるのではないかということが示唆されて、幕が閉じられます。
そして島薗氏は「あとがき」で、次のように述べられます。
「限界意識のスピリチュアリティ」を重んじた先達として、私が思い浮かべるのは折口信夫と宮沢賢治です。二十歳代の前半、新宗教の教祖研究に進む前に取り組んだのが折口信夫、四十歳代の後半、研究生活の停滞やオウム真理教事件による困難と父の死の前後に深く引き込まれたのが宮沢賢治でした。私の人生で「救い」を求める姿勢が強まったこの時期に、支えになったのがこの二人でした。本書の第1章で宮沢賢治の物語を引用したことには、そうした背景があります。
一九九六年、アメリカのシカゴ大学に三ヶ月滞在していたとき、日本から「父の具合が悪い」と連絡がありました。そのときすでに余命一年。しかし講義をしなければならないためすぐに帰国することはできません。そんな不安定な気持ちを抱えていたときに、私が読んだのが宮沢賢治の数々の作品だったのです。ちょうど宮沢賢治の生誕百周年でもあり、アメリカでの講義で参照したいという思いもあってもち込んだ文庫版の宮沢賢治全集に、宗教研究者としての行き詰まりを打開する何かを求めたところもありました。
東日本大震災の後に、日本中で賢治の作品が読まれるようになったことにも、通ずるようなお話です。
私自身は上にも述べたように、トシの死後の賢治の心の遍歴が、今で言うところの「グリーフ・ワーク」に通ずるのではないかと思っているのですが、島薗氏の考えでは賢治のどのような部分が「限界意識のスピリチュアリティ」に通ずるのか、また詳しく知りたいところです。
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