賢治における四次元と異空間の由来

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小野隆祥氏
(『宮沢賢治の思索と信仰』より)

 小野隆祥氏(1910-1986)は、『宮沢賢治の思索と信仰』(1979, 泰流社)や、『宮澤賢治 冬の青春──歌稿と「冬のスケッチ」探究』(1982, 洋々社)など、早くから賢治に関する独創的な研究書を執筆されました。前者のカバー袖に記された略歴によると、次のような興味深い経歴を持っておられる方です。

1910年、下北半島に生れ、1932年京都大学卒業。文部省、鳥取高農を経て1945年盛岡農専教授。1950年、岩手大学を去り、政治運動・平和運動・障害者運動に入る。古本屋・花屋・市議などを経験。そのかたわら千葉工大・生活学園短大で心理学を講じた。1972年より修紅短大教授。

 大学では哲学を専攻され、『宮沢賢治の思索と信仰』においては、哲学、仏教、心理学等に関する深い造詣をもとに、賢治の作品や思想について、鋭い考察を展開しておられるのが印象的です。

 本日は、小野隆祥氏が論文「「青森挽歌」とヘッケル博士」および「宮沢賢治作品の心理学的研究」で指摘しておられるところの、木村泰賢著『原始仏教思想論』から賢治への影響について、考えてみようと思います。

 木村泰賢という岩手県出身の仏教学者については、以前に「「真空」と「妙有」」という記事でも触れました。賢治よりも15歳年長で、東京帝大を首席で卒業したという木村の著作のうち、賢治が『仏教聖典の見方』を所蔵していたことはわかっているのですが、仏教に深い関心を寄せる賢治が、この同郷の碩学の著書をこれ以外にも読んでいた可能性は、十分考えられるところです。
20240428a.jpg これについて小野隆祥氏は、「「青森挽歌」とヘッケル博士」(『啄木と賢治』5・6, 1976)および「宮沢賢治作品の心理学的研究」(『啄木と賢治』10, 1977)において、賢治は木村泰賢の『原始仏教思想論』(1922年4月刊)を読んでいて、そこで得た知見を「青森挽歌」や『春と修羅』の「」に反映させたのだと論じておられます。

 一般に、ある人からある人へ影響関係を論ずる際に、両者の間の何らかの接触の証拠がないままに、内容の類似だけを根拠として「影響があった」と判断することには、なるべく慎重であるべきでしょう。現時点で、賢治が木村の『原始仏教思想論』を読んでいた証拠はありませんので、たとえその内容に「青森挽歌」と似たところがあったとしても、「だから賢治は木村の著書の影響を受けていた」と、軽々しく断ずることはできません。
 しかしそれでも、あらためて両者を比較してみると、そしてまた賢治が多くの作品で「四次元」や「異空間」という概念に込めた意味合いを考えてみると、やはり賢治は木村泰賢の『原始仏教思想論』を読んでいて、その多大な影響のもとに自らの世界観を形づくっていったのではないかと、私にも強く感じられるのです。

 具体的に「青森挽歌」で問題になるのは、次の箇所です。

ほんたうにあいつはここの感官をうしなつたのち
あらたにどんなからだを得
どんな感官をかんじただらう
なんべんこれをかんがへたことか
むかしからの多数の実験から
倶舎がさつきのやうに云ふのだ
二度とこれをくり返してはいけない

 「青森挽歌」の本文206行目から212行目の部分ですが、小野隆祥氏によれば、上記の「倶舎がさつきのやうに云ふ」ところの内容が、木村泰賢が『原始仏教思想論』で説き明かしている、原始仏教における死と輪廻の現象論に該当するというのです。

 「青森挽歌」において賢治は、トシの死の悲嘆と、喪失の受け容れ難さのあまり、死んだトシがいったいどこへ行ってしまったのかと執拗に考えつづけ、トシとの「通信」の可能性さえ信じようとします。
 しかし賢治は、そのような懊悩を縷々続けた末に、結局のところトシは「どこへ行つたかわからない」のだという当たり前の結論に立ち返り、そして「けつしてひとりをいのつてはいけない」と自らを戒める、というのがこの作品の骨格になっています。

 このような大枠の中で、木村泰賢の『原始仏教思想論』の次の箇所が、死者の輪廻について賢治に貴重な教示を与えたのだというのが、小野隆祥氏の考えです。少し長い引用になりますが、後の議論にも関わってくるのでご容赦下さい。

とにかく、生あるものは必ず滅するが法として定まれる運命である。乍併、仏陀に従へば、この死と共に、吾等の生命は絶滅し去るものではない。いかにも意識的の活動はその五根の破壊に伴つて休止するけれども、生きんとする根本意志即ち無明は生時の経験即ちカルマをその性格として刻みつけて継続する。而もこの性格中には、開発すれば、五蘊となるべき可能性を具備するは勿論、性格に応じて自らを特定の有情に実現し創造するの力を具するものである。但し生命のこの当体を以て、空間的存在の如くに考へて、何処にか、何等かの形を以て彷徨ひゐるかの如くに解してはならぬ。何んとなれば空間的存在とは物質を予想することであるけれども、生命のこの当体は物質的存在ではないから、空間的に之を取扱うことが出来ぬからである。この事は仏陀は無色界の衆生には処所なしとて、純粋なる精神生活のみの有情に対する場所を認めないに例して明であらう。即ち現実界の一種たる無色界の有情すら、空間的存在として考へてはならぬとすれば、況して身を離れ、一切の意識的活動を根本意志に摂取したる生命のこの位をいかに物の如くに考へて然るべきであらうか。これ即ち仏教に於ける輪廻の主体が通常の半物質的霊魂観と大に異る所で仏陀の真諦的見地からすれば、この当体の生命は今風に言へば、所謂、第四階(The fourth dimension)の範囲に属すというべきであらう。而もこの点は亦、仏教輪廻観の極めて解し難い所以であつて、亦、後に到ると所謂、中有身(autara bhava)の考を提出し、之を空間的に翻訳して、通常人の了解に資する説の起つた所以であるけれども実は中有身説の如きは、要するに真諦説の通俗化の結果であつて、生命の当体は飽くまで空間的存在を以て計ることが出来ぬと承知せねばならぬ。

(『原始仏教思想論』pp.180-182)

 上記において木村泰賢は、全ての生きものは「死」によっていったん意識活動を休止するけれども、後に残された「生きんとする根本意志即ち無明」=「生命のこの当体」は、「カルマ」の力によって、また次の「生」へと入っていくのだと説明しています。これがすなわち「輪廻転生」です。
 そして、「生命のこの当体」は、空間的・物質的存在ではないので、「この世界のどこかに、何らかの形で存在している」というようなものではない、と強調しています。

 さらにその次の箇所で、木村は重要な表現をします。この「当体」は通常の空間に存在するのではないということを言い換えて、「この当体の生命は今風に言へば、所謂、第四階(The fourth dimension)の範囲に属す」と述べるのです。

 ここで木村は“dimension”の訳語に「階」をあてているので、「第四階」となっていますが、より一般的な訳語「次元」を用いると、これは「第四次元」になります。
 すなわち、木村泰賢は、「死んだ者は第四次元に属する」と述べているわけです。

 ここで賢治による「四次元」という言葉の用法を確認しておくと、「すべてこれらの命題は/心象や時間それ自身の性質として/第四次延長のなかで主張されます」(「」)や、「巨きな人生劇場は時間の軸を移動して不滅の四次の芸術をなす」(「農民芸術概論綱要」)においては、第四次元目の軸は「時間軸」を指しており、木村泰賢の言うところの「死者のいる方向性」とは異なっています。死んだ人は、「過去」に向かったり「未来」に向かったり、時間軸の上を移動し去るのではないからです。
 しかし、「青森挽歌」の80行目から85行目の次の箇所は、木村泰賢が用いた四次元的比喩に、ぴったりと一致しています。

とし子はみんなが死ぬとなづける
そのやりかたを通つて行き
それからさきどこへ行つたかわからない
それはおれたちの空間の方向ではかられない
感ぜられない方向を感じやうとするときは
たれだつてみんなぐるぐるする

 死んだトシの行方は、三次元の「おれたちの空間の方向でははかられない」方向だと、賢治は言っているわけで、これはまさに木村泰賢による四次元的比喩に沿っています。

 しかしここでちょっと疑問に思うのは、もともと木村泰賢は、死者の当体については、「空間的存在の如くに考へて、何処にか、何等かの形を以て彷徨ひゐるかの如くに解してはならぬ」「当体は飽くまで空間的存在を以て計ることが出来ぬ」と釘を刺していたはずです。それなのに、これを「第四階の範囲に属す」と言ってしまうと、たとえこの三次元空間とは異なるにしても、やはり死者は第四次元軸の目盛りによって測定可能な、ある種の大きさや形を持った存在だということになってしまいます。

 私としてはこの比喩は、木村が何とか輪廻についてわかりやすく説明しようとするあまり、つい犯してしまった「勇み足」だったと思います。
 大正時代には、アインシュタインのブームにより、「四次元」という不思議な概念が世間で話題になったこともあって、思わず木村も「この当体の生命は今風に言へば……」などと、流行の表現を用いてしまったのではないでしょうか。しかしこれでは、木村が上記引用の終わりの方で「中有身説」のことを、「之を空間的に翻訳して、通常人の了解に資する説」として斥け、「要するに真諦説の通俗化」と断罪しているところのブーメランが、旋回してきて自分にぶつかりかねない感じです。たとえ四次元であっても、この比喩もまた「空間的に翻訳」し、「通俗化」していることでは同類です。

 すなわち、死者が向かう「方向」というものを想定し、それを「第四次元」と考えるというのは、本来の仏教理論からは逸脱した、明らかに不適切な比喩的解釈だろうと私は思うのですが、賢治はまさにその逸脱した部分をも踏襲して、死者の行方を「おれたちの空間の方向ではかられない」「感ぜられない方向」と述べているわけです。
 このように賢治の考えは、木村泰賢による独自の逸脱とまでも足並みを揃えてしまっているのであり、これこそが、賢治が木村の著書を読んでいて、その直接的影響を受けていたことを示唆しているのではないかと、思うのです。

 ここであらためて、「青森挽歌」における「倶舎がさつきのやうに云ふ」という表現について考えておきます。
 ここに出てくる「倶舎」とは、本来は4世紀頃にインドの世親ヴァスバンドゥが著した『阿毘達磨倶舎論』という30巻の論書を指しています。
 ブッダの死後数百年が経って部派仏教と呼ばれる時代になり、細分化した各部派の学僧は、ブッダの教えを厖大な「阿含経典アーガマ」として集積していました。これらの煩瑣な経典を、仏教史上でも指折りの思想家・学者であった世親が整理し体系化したのが『阿毘達磨倶舎論』で、これはその後の上座部および大乗仏教の土台となりました。「倶舎(コーシャ)」とは、籠・蔵のことで、様々な知識が収められていることを表しています。

 一方、木村泰賢の『原始仏教思想論』は、実は世親の『阿毘達磨倶舎論』について述べているわけではなく、古い阿含経典に関する当時の新たな研究成果やショーペンハウエルの哲学なども取り入れて、木村が独自に初期仏教の思想を概説したものです。(木村は、同じ1922年11月に著書『阿毘達磨論:成立の経過に関する研究』を刊行していて、こちらの方ならば阿毘達磨倶舎論そのものについて論じています。)

 したがって、木村の『原始仏教思想論』の内容を「倶舎」と呼ぶというのは、本来はちょっと違うのです。

 しかしながら、木村の『原始仏教思想論』は、古来の阿含経典アーガマを大正期日本の研究成果にもとづいて整理・体系化したところの、新たな時代の「倶舎論」とも言えるものであり、木村自身も本書の「序」の中で、「新しき形式に於ける一種の阿毘達磨論書を構成せんとした」と自負を示しています。
 ですから、賢治が『原始仏教思想論』の内容について、「倶舎が云ふ」と表現するのも、あながち間違いとは言えないと思われるのです。

 さて、そこで次の問題は、賢治が「倶舎がさつきのやうに云ふ」と述べているところの、「さつきのやうに」というのは、「青森挽歌」の中のどの部分を指しているのか、ということです。
 これについて小野隆祥氏は「宮沢賢治作品の心理学的研究」において、次のように述べています。

 「ありがたい証明の」任に当ろうと名乗り出たのは倶舎論である。倶舎の名は、そう名乗り出てから百行目になってやっと出てくる。しかし「倶舎がさっきのやうに云ふのだ」と賢治が明言しているから、その「さっき」が百行前の「名乗り」であり、名乗り出た「わたくし」が倶舎にほかならないことは、構文から見ても、思想展開からいっても全く明白である。

 つまり、小野氏は「倶舎がさつきのやうに云ふ」の「さつき」とは、109行目~111行目の次の箇所だと解釈しているのです。

   《ヘツケル博士!
    わたくしがそのありがたい証明の
    任にあたつてもよろしうございます》

 「倶舎論」という書物が、「わたくし」という一人称で上記のように言葉をしゃべるというのは、相当な擬人的表現ということになります。また、紀元4世紀インドの「倶舎」(その著者は後代に菩薩と崇められる世親)が、19世紀~20世紀ドイツのヘッケル博士に対して、上のようにへりくだって敬語で呼びかけているのも、変な感じです。ヘッケルよりも後代の人が博士の理論を証明するというならともかく、ヘッケルよりはるか昔の存在が、千数百年も未来の理論を証明するという設定は、どう考えても不自然です。

 そして小野氏は「「青森挽歌」とヘッケル博士」において、倶舎がヘッケル博士に申し出ている「証明」の内容とは、ヘッケルらの主張するエネルギー論に関連して、「賢治は輪廻が生身のそれであるならば、エネルギーの相続変換であるほかないと考えたと想われる」と述べ、部派仏教時代に「経量部」という一派が説いた因縁論が、現世の業の相続変換を認めているということで、これがヘッケルの理論と一致しているのだとしています。
 しかし正直に言って、このあたりの小野隆祥氏の主張には論理の飛躍が多く、ちょっと無理があると思われます。

 私自身は、「倶舎がさつきのやうに云ふのだ」の「さつきのやうに云ふ」という部分が指しているのは、既に挙げた「青森挽歌」80行目から85行目の、次の箇所だと考えます。

とし子はみんなが死ぬとなづける
そのやりかたを通つて行き
それからさきどこへ行つたかわからない
それはおれたちの空間の方向ではかられない
感ぜられない方向を感じやうとするときは
たれだつてみんなぐるぐるする

 前述のように、死んだトシが向かった方向は「おれたちの空間の方向ではかられない」ものであり、これは、木村泰賢の『原始仏教思想論』が、死者の当体は「空間的に之を取扱うことが出来ぬ」もので、「所謂、第四階(The fourth dimension)の範囲に属す」と述べていることに、まさしく当てはまります。
 結局のところ「倶舎」は、「とし子はみんなが死ぬとなづける/そのやりかたを通つて行き/それからさきどこへ行つたかわからない」という当たり前のことを、あらためて賢治に教えてくれているのであり、それを賢治は211行目であらためて思い出して、「倶舎がさつきのやうに云ふのだ」と自分に言い聞かせているのです。そして、「あいつはここの感官をうしなつたのち/あらたにどんなからだを得/どんな感官をかんじただらう」などという執拗な疑念にいつまでも囚われている自分に対して、「二度とこれをくり返してはいけない」と、戒めているのです。

 木村泰賢の『原始仏教思想論』は、1922年4月に刊行されていますので、賢治はそれ以後、1923年夏に樺太旅行をするまでの間に、この書を読んだのだろうと考えることができます。その中でも、上に引用したような「死者の行方」に関する部分は、1922年11月にトシが亡くなってからの時期に、より切実な思いをもって読み進めたのではないでしょうか。

 以上、小野隆祥氏が指摘するところの、木村泰賢著『原始仏教思想論』から賢治への影響について、考えてみました。
 死者が、この三次元空間とは異なった「異空間」へ行ってしまうのだという木村の考えは、「青森挽歌」の後も、いくつかの賢治の作品に影響を与えていると思われます。

 「宗谷挽歌」には、次のような箇所があります。

とし子、ほんたうに私の考へてゐる通り
おまへがいま自分のことを苦にしないで行けるやうな
そんなしあはせがなくて
従って私たちの行かうとするみちが
ほんたうのものでないならば
あらんかぎり大きな勇気を出し
私の見えないちがった空間で
おまへを包むさまざまな障害を
衝きやぶって来て私に知らせてくれ。

 ここでも賢治は、死んだトシが「私の見えないちがった空間」にいると考えています。そしてこれは既に指摘したように、木村泰賢が死者について「第四階の範囲に属す」と表現したところのやや不適切な比喩を、忠実に受け継いでいます。死者は「空間的存在」ではないはずなのに、賢治は「ちがった空間」の存在と理解しているのです。

 同様に、「噴火湾(ノクターン)」には次のように記されています。

わたくしの感じないちがつた空間に
いままでここにあつた現象がうつる
それはあんまりさびしいことだ
  (そのさびしいものを死といふのだ)

 賢治は「死」というものを、「わたくしの感じないちがつた空間に/いままでここにあつた現象がうつる」と捉えて自らに言い聞かせますが、この「ちがつた空間」という捉え方が、本来の仏教思想よりもその木村泰賢的修飾に沿っているのは、前述のとおりです。

 そして、「十界」と呼ばれる仏教的な「異界」を、「異空間(異次元の物理空間)」として理解する賢治の考えは、「異空間の実在」について考察した「思索メモ1」や、「世界・生物・我─分子─原子─電子─真空─異単元─異構成物─異世界」という、この世界から異界への道筋を想定した「思索メモ2」にも、続いていくのだと思われます。

 「青森挽歌」の中の「倶舎がさつきのやうに云ふのだ」という一節は、私にとっては長年の「謎」で、いろいろ考えてはみるものの、答えが出ずじまいになっていました。その間、一般向けの阿毘達磨思想の解説書である『存在の分析〈アビダルマ〉 仏教の思想Ⅱ』(角川ソフィア文庫)という本を読んでみたり、ひいては『国訳大蔵経 論部第11巻』に収められている「国訳阿毘達磨倶舎論」に挑戦してみたりもしたのですが、いずれにおいても「青森挽歌」の内容と関連があるような記述を見つけることは、できなかったのです。
 これに対して、小野隆祥氏が指摘した木村泰賢の『原始仏教思想論』は、前述のように「倶舎」と呼ぶこともできる文献でありつつ、その内容はまさに「青森挽歌」における賢治の思考に沿ったものだと思われます。

 私は2016年に「「青森挽歌」における二重の葛藤」という一文を書き、賢治がこの長詩において「かんがへださなければならないことは/どうしてもかんがへださなければならない」と自らに課した考察の足がかりとなる論拠として、ヘッケルの『生命之不可思議』や、日寛の「臨終用心抄」を想定してみたのですが、ここにおいて、やっとその最後のピースが見つかったという感を抱いています。