盛岡松園寺の碑群

 5月4日夕方に、新幹線で木古内から盛岡に移動して駅前のホテルに宿泊し、5月5日朝は盛岡駅前から岩手県交通バス桜台団地線に乗って、北東郊外へと向かいました。賢治が1924年4月に外山方面へ歩いたのと同じようなルートですが、外山までは行かずにそのずっと手前、盛岡駅から25分ほどの「名乗沢」というバス停で降ります。
 このバス停のすぐ横に、「松園寺 盛岡大佛 入口」などと書かれた看板が立っていて、国道から脇に入る道が示されていますので、ここから上って行きます。

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 林の中の坂道を上っていくのですが、まだお寺の敷地に入らないうちから、両側に少しずつ石碑が現れてきます。

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 出典はわかりませんが、「野にあまる千種の花や天の川」「鈴強く振って男の願いごと」とあります。
 また下には、「投出して花投げられるか」「庭掃けば素直な心我に来 花の香に一瞬胸の扉をひらく」など……。

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 10分ほど登ったところで、左手に「萬霊塔 入口」という石柱が現れます。

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 この入口からさらに坂道を登っていくと、両側に並ぶ碑の数は、みるみる増えていきます。

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 何となく賽の河原を越えて「死者の世界」に入っていくような雰囲気になってきて、両側に延々と立ち並ぶのは、墓石か卒塔婆のような感じもしてきます。
 この一枚一枚は、厚さ5cmほどの花崗岩の石板に、黒い塗料で文字を書いたもので、多くの碑は直接地面に挿して立ててあるだけなので、中には倒れたり割れたりしているものもあります。

 啄木など有名な人の短歌や俳句もあれば、「サラリーマン川柳」のようなユーモラスなもの(「皮肉屋が肉まで切って恨まれる」とか)もあったり、「努力」などと単なる標語を記しただけのものや、下のように〝岩手らしい〟ものもあったりします。

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 この中に一つ、賢治の詩の碑がありました。

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 「森の上のこの神楽殿いそがしくのぼり立てば/かくこうはめぐりてどよみ松の風頬を吹くなり」(文語詩未定稿「」より)です。

 さて、この坂道を登り切ったところには、ちょっと怖い感じの文字の「三界萬霊塔」なるものがありました。

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 これは、もともと墓地だった場所を、一種の「区画整理」した跡なのでしょうか。たくさんの「元墓碑」だった石が集められ、さしずめ「墓場の墓場」という感じです。
 夜に一人で来たら怖いでしょうね……。

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 目を転じると、向こうには岩手山も少し頭を見せています。

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 さて、ここからあらためて山を下って、松園寺の方へ向かいます。

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 上写真が、松園寺の山門です。
 山門の脇にも、賢治の詩碑が一つありました。

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 「うらゝかに野を過ぎり行くかの雲影ママともなりて/きみがべにありなんものを」。これもやはり文語詩未定稿「」の一節です。

 お寺の門を入ると、やはりここにも文語詩「」の、さらに大きな詩碑があります。こちらの碑は、石板に塗料で字を書いたものではなくて、石材をきちんと彫った、一般的な「石碑」です。

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 「野をはるママに 北をのぞめば/紫波の城の 二本の杉/かがやきて 黄ばめるものは/そが上に 麦熟すらし」

 境内には、まだ文字の書かれていない石板が重ねて置かれていたり、字の書かれた石板がそのまま放置されていたり、石碑が誕生する現場のようなところもありました。

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 下写真が、「大吉山 松園寺」の本堂です。

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 境内には、「雨ニモマケズ」の碑もありました。

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 そして、何よりこの松園寺の最大の注目ポイントは、「盛岡大仏」と呼ばれる大きな阿弥陀如来座像です。

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 この大仏は、台座を含めた高さが約17mで、奈良の大仏に匹敵する大きさだということです。

 そしてあともう一つ、賢治の歌碑もありました。

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 「せわしくも 花散りはてし盛岡を めぐる山々雪は降りつゝ」(歌稿〔A〕485)

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 境内に建てられた「住職挨拶」と説明の碑には、松園寺について次のように書かれています。

曹洞宗 大吉山 松園寺

 県内最大の石庭墓地である松園寺は
昭和六十二年七月に落慶しました。
 境内には堂々たる風格の盛岡大仏や
石造りの五重塔、そして五百基に及ぶ
石碑などが建立しており、
参拝者の心の安らぎの場となっております。
 また、当寺は墓地の前まで
お車で赴くことができます。
 大仏さまの御加護を受ける墓地は
県内外においても数少なく、
現在も好評分譲中でございます。
 どうぞ、心ゆくまでご参拝ください。

 上記によれば、このお寺にある石碑の数は、「五百基に及ぶ」ということですね。

 ……以上、ご覧いただいたように、非常に変わった雰囲気の充満するこの松園寺というお寺なのですが、上にもあったようにその創建は、昭和62年と比較的新しいようです。

 いったいどういう経緯で、このようなお寺が出来上がったのか、ということに興味を引かれますが、これについては、墓地の片隅にある樋下正光氏の碑が、参考になります。

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   盛岡市 樋下正光

幼きべっこ両親おどおか亡く育ち
太田橋を手をつなぎ歩く
子等わらすを見るたび
いつも羨まじゃみるしいと思っていた
成人し大橋をでっけえはすっこ建立し
松園寺の丘に亡き両親おどおかを祀り
大仏をでっけえほとけっこ建立したいと念願していた
それは少年べっこの日の夢であった
夕陽の輝く丘に大仏建立が実現し
県都の栄えるを見守り
しあわせを願って見下ろす大仏は
さ迷える緑墓地を祀り
ぼんずの心で人々に尽して
生きたいと思い
亡き両親おどおかの墓に祈る時
たますの鎮もるを祈り
県都の夜のひっこにいつまでも
大仏が見下ろし
人々のしあわせを祈り建立した
瑠璃るり空にうかぶ大仏ほとけっこ
私の生涯の心の灯であった
社会よのなかの人々のしあわせは
とこしえに大仏ほとけっこが見守り
祈り続け輝け松園寺てらっこの丘よ
たますを祈り夕映えの丘に立つ時
このゆるがぬ大仏の
沙羅さらの花咲く丘
亡き人々の無縁えんこねの魂よ
御仏の前に生きたいと思う
輝け松園寺の丘よ
大仏に祈り鐘撞かねっこき堂の鳴りわたり
少年べっこの日のエピソードは
走馬灯のようにめぐるのである
日々心の生きる道標みちしるべになりたいと思う
安らけく眠る魂よ
野花はなっこ野辺のはらっこの萩の花よ
いつまでも咲くを祈り
風よかぜっこ魂のたますっこ祈り星よほすっこ輝くを
祈りおがめて松園よ輝け……

 樋下正光氏(1930-2006)は、樋下建設株式会社を創業し、盛岡市議会議員、さらに岩手県議会議員を務めたという、県の名士でいらっしゃったようです。上の碑文によれば、氏は幼い頃に両親を亡くし、そのお二人を祀りたいという思いから、この松園の丘に松園寺を創建し、大仏を建立したということのようです。(松園寺のサイトには、「この盛岡大仏の施主である開基 樋下正光氏は……」と記されており、樋下氏が寺の「開基」です。)

 ちなみに、上の碑文において樋下氏は、この盛岡郊外の丘の大仏について、「県都の栄えるを見守り/しあわせを願って見下ろす大仏」あるいは「県都の夜のひっこにいつまでも/大仏が見下ろし/人々のしあわせを祈り」というイメージを抱いておられたようです。一方この丘のあたりは、賢治が1924年4月に盛岡から外山高原へと歩いて越えた際に、夜明けになって盛岡の街を振り返り、「有明」などの詩を書いた場所と、だいたい同じような方角にあります。
 この時賢治は、「そこにゆふべの盛岡が/アークライトの点綴や/また町なみの氷燈の列/ふく郁としてねむってゐる」と謳い、また「しかも変らぬ一つの愛を/わたしはそこに誓はうとする」と記したのでした。
 何となく、賢治がこの場所から盛岡の街のひっこに注いだ愛と、樋下氏がこの丘から県都盛岡に向けていた思いが、重なり合うように感じます。

 この松園寺の境内や周囲に林立する石碑の中には、「正光」と署名された句碑も多くあることから、これら厖大な碑群は、樋下正光氏が思いの向くままに揮毫しては、建てて行ったものかと思われます。土木工事も多く手がける建設会社ということで、碑にするような石材もたくさん扱っておられたのかもしれません。

 ところでこのたび松園寺を訪ねてみたところ、あらかじめグーグルマップのストリートビューで見ていた状況に比べると、石碑の数はかなり減少し、林の木々も伐り開かれているように見えました。お寺の環境の再整備が進められているという話も聞きますので、今後は上記の様子よりもさらに「整備」が進んで行くのかもしれません。
 今の松園寺に漂う「不思議な感じ」が失われてしまのも、何か勿体ないような気もしますが、はたしてどうなっていくことでしょうか。

 なお本日、上記の賢治の碑をまとめて、「盛岡松園寺碑群」として「石碑」のコーナーに追加しました。これで当サイトで紹介している賢治の文学碑は、計163基になりました。