『注文の多い料理店』の「序」の美学論

 先週は、花巻で開催された第5回宮沢賢治国際研究大会に行ってきました。2日目の分科会「宮沢賢治作品における〈想像力〉の多面的研究」に参加したのですが、私は「宮沢賢治の想像力─その認知科学的特性─」と題して、賢治の想像力の特性に関し、アナ・エイブラハムという認知科学者が2016年に発表した想像力の分類法をもとに、検討してみました。
 下記が、そのエイブラハムによる想像力の五分類の私訳です。

  1. 心像操作型想像力
    過去に体験した知覚イメージを心に再現し、変形・置換等の加工を行う能力
  2. 意図感受型想像力
    対人状況において、他者の意図や感情をシミュレーションし察知・共感する能力
  3. 新規結合型想像力
    様々なイメージ・概念を自由に組み合わせ、新たな独創を産み出す能力
  4. 美的体験型想像力
    美を体験する際に、物理的現実を超えて象徴的な次元の価値を感じとる能力
  5. 意識変容型想像力
    夢・瞑想・催眠・薬物影響下等の状態で、通常とは違う特異な体験をする能力

 今回の記事では、上記のうち「4. 美的体験型想像力」の項目でお話しした内容を、紹介させていただきます。

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 人間は、「美」を感じている時に、無意識のうちにある種の〈想像力〉を働かせているのです。
 たとえば、絵を鑑賞する際に、人は「絵の具の盛り上がり」とか「カンバスのざらつき」とかいう目の前の〈物理的現実〉を見ているわけではなくて、そのような現実を通して別の次元において象徴的に表現されている、〈絵の内容〉を見て、それが美しいとか凡庸だとか、感じるわけです。
 これは、人間が知らず知らずのうちに行っていることなので、〈想像力〉と呼ぶべき働きなのかどうか、戸惑う向きもあるかもしれませんが、しかしサルトルも確かにこれを、〈想像的意識〉としています。

ただ美的対象は、それを非現実的なものとして定立する想像的意識によって構成され、把握されているだけのことである。

(サルトル『イマジネール』講談社学術文庫, p.422)

 絵の具とかカンバスとかの〈現実的なもの〉と対比すると、私たちが絵の本質として感じとっているのは〈非現実的なもの〉であり、それを心の中で構成するのが〈想像力〉なのです。

 ここで働いている〈想像力〉が、もう少し具体的にどういう要素から成り立っているのかということについては、マルコヴィッチというセルビアの心理学者が、"Components of aesthetic experience: aesthetic fascination, aesthetic appraisal, and aesthetic emotion"という論文において、次の三要素を挙げています。

  1. 美的魅了(aesthetic fascination)
    対象に集中して覚醒度が上がり、没入して我を忘れる
  2. 美的評価(aesthetic appraisal)
    対象の象徴的・仮想的価値の認知と評価
  3. 美的感情(aesthetic emotion)
    対象との強い一体化の感覚

 上記を宮沢賢治という人にあてはめて考えてみると、賢治は美しいものを見ると、「ホーホー」などと奇声を上げていきなり飛び上がったとか、月夜の麦畑で一人泳いでいたとか、我を忘れて没入してしまうことがしばしばあったと言われていますし(美的魅了)、対象と一体化してしまう様子も、いくつかの詩に描かれています(美的感情)。

  有明

起伏の雪は
あかるい桃の漿(しる)をそそがれ
青ぞらにとけのこる月は
やさしく天に咽喉(のど)を鳴らし
もいちど散乱のひかりを呑む
  (波羅(ハラ)僧羯諦(サムギヤテイ) 菩提(ボージユ) 薩婆訶(ソハカ))

 この「有明」という作品では、幾重にもなった〈一体化〉が描かれています。
 まず、桃色の漿のような朝の日光を、空の月が「呑む」ことによって、月と日光が〈一体化〉します。そして、溶け残っていた月が、徐々に明るくなる空に溶け込むことによって、月と空が〈一体化〉します。さらに、下の『注文の多い料理店』の「序」に見るように、桃色の朝の日光を呑んでいるのは、実は作者自身に他ならないので、この作品において作者は有明の月と、〈一体化〉しているのです。

 宮沢賢治のこういう人となりや作品を見ると、彼は「美的体験型想像力」が非常に豊かな人だったということが言えると思いますが、それをさらに具体的にコンパクトな形で示してくれている好例として、童話集『注文の多い料理店』の「序」を、見てみたいと思います。

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 今回の国際研究大会の〈基調〉とも言える位置づけの『注文の多い料理店』の「序」は、開会の冒頭でも、高校生によって朗読が行われました。

       序

 わたしたちは、氷砂糖をほしいくらゐもたないでも、きれいにすきとほつた風をたべ、桃いろのうつくしい朝の日光をのむことができます。
 またわたくしは、はたけや森の中で、ひどいぼろぼろのきものが、いちばんすばらしいびらうどや羅紗や、宝石いりのきものに、かはつてゐるのをたびたび見ました。
 わたくしは、さういふきれいなたべものやきものをすきです。
 これらのわたくしのおはなしは、みんな林や野はらや鉄道線路やらで、虹や月あかりからもらつてきたのです。
 ほんたうに、かしはばやしの青い夕方を、ひとりで通りかかつたり、十一月の山の風のなかに、ふるえながら立つたりしますと、もうどうしてもこんな気がしてしかたないのです。ほんたうにもう、どうしてもこんなことがあるやうでしかたないといふことを、わたくしはそのとほり書いたまでです。
 ですから、これらのなかには、あなたのためになるところもあるでせうし、ただそれつきりのところもあるでせうが、わたくしには、そのみわけがよくつきません。なんのことだか、わけのわからないところもあるでせうが、そんなところは、わたくしにもまた、わけがわからないのです。
 けれども、わたくしは、これらのちいさなものがたりの幾きれかが、おしまひ、あなたのすきとほつたほんたうのたべものになることを、どんなにねがふかわかりません。

  大正十二年十二月二十日宮 澤  賢 治  

 ここで、「きれいにすきとほつた風を」を「たべ」、あるいは「桃いろのうつくしい朝の日光」を「のむ」と表現されているのは、食べたり呑んだりすることによって、対象を自分の体内に取り込み、〈一体化〉するという事態です。「ひどいぼろぼろのきもの」の部分も、対象を「きもの」として身にまとうことによって、やはりそれと〈一体化〉することが想定されています。
 つまり、この序文の冒頭では、「美的対象との一体化」という、マルコヴィッチの美的体験の三要素のうちの一つ(美的感情)が、示されています。

 ちなみに、ここの「桃いろのうつくしい朝の日光をのむ」という表現は、先に引用した「有明」における、「あかるい桃の漿(しる)=散乱のひかり」を、「青ぞらにとけのこる月」が「呑む」という部分とぴったり一致しており、「序」のこの部分は、「有明」がスケッチされた1922年4月13日の朝に、賢治が体験した内容をもとにしているのだと思われます。こちらの「序」では、「のむ」のは「わたしたち」ですが、この行為が「有明」では、「月」に投影されることによって、作者と月が〈一体化〉しているのです。

 次に、「ひどいぼろぼろのきもの」が、「いちばんすばらしいびらうどや羅紗や、宝石いりのきものに、かはつてゐる」という部分では、物理的現実としては「ぼろぼろ」である存在が、ある観点に立てば、ビロードや羅紗や宝石と同等の価値があるのだと、認めているわけです。これは、マルコヴィッチの言う「美的対象の象徴的価値の認知」(美的評価)に該当します。

 さらに、「ほんたうにもう、どうしてもこんなことがあるやうでしかたない」という気持ちになっている時、賢治は美的対象に魅了され、没入しているのです(美的魅了)。

 すなわち、この『注文の多い料理店』の「序」という短い文章には、マルコヴィッチの言う「美的体験の三要素」が、全て含まれているのです。
 この序文は、宮沢賢治という人が、普段どうやって〈美〉というものを体感し、味わっているのかということを、彼らしい言葉で綴ったものであり、「賢治独自の美学論」と言ってよいものだと思います。

 これと対比すれば、『春と修羅』の「序」の方は、「自己」とか「世界」がどういうものなのかを述べた、賢治の考える「存在論(現象論)」だと言えるでしょう。

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 今回の国際研究大会のテーマは、『注文の多い料理店』の「序」にある、「すきとおったほんとうのたべもの」という言葉でした。
 この「すきとおったほんとうのたべもの」という言葉によって、宮沢賢治はいったい何を意味しようとしていたのか?……という問いを立てるとすれば、これに対して私は、「それは〈美〉そのもののことである」と、答えたいと思います。

 賢治はこの序文において、読者も一緒にこれらの〈たべもの=美〉をたべることにより、ともに〈美〉と一体化しようではないかと、私たちをいざなっているのだと思います。

 そして実際、たとえばこの童話集の中から「鹿踊りのはじまり」を読むと、嘉十が鹿たちとの違いを忘れて〈一体化〉してしまい、すすきのかげから飛び出したように、私たちも嘉十と一体化して鹿たちの歌に聴き惚れ、さらには鹿たちと一体化して、彼らの目から見た夕陽やすすきやうめばちそうを、感じられるように思うのです。