「疾いま革まり来て」と「雨ニモマケズ」

 「疾中」に収められている「〔疾いま革まり来て〕」は、「わが額に死の気配あり」の言葉に表れているように、賢治が自らの死の近いことを覚悟した時の心境を、述べているものです。

疾いま革まり来て
わが額に死の気配あり

いざさらばわが業のまゝ
いづくにもふたゝび生(あ)れん

たゞひたにうちねがへるは
すこやけき身をこそ受けて
もろもろの恩をも報じ
もろびとの苦をも負ひ得ん

さてはまたなやみのなかと
数しらぬなげきのなかに
すなほなるこゝろをもちて
よろこばんその性を得ん

さらばいざ 死(しに)よとり行け
この世にて わが経ざりける
数々の快楽の列は
われよりも美しけきひとの
すこやかにうちも得ななん
そのことぞいとゞたのしき

 二連目の「いづくにもふたゝび生(あ)れん」以降は、いったん死んだ後に、またどこかの世界に輪廻転生することを想定して、その新たな「生」に向けた自らの願いを述べています。
 ここで私が思い起こさざるを得ないのは、妹トシが臨終の間際に言ったとされる、「永訣の朝」の言葉です。

   (うまれでくるたて
    こんどはこたにわりやのごとばかりで
    くるしまなあよにうまれてくる)

※またひとにうまれてくるときは
 こんなにじぶんのことばかりで
 くるしまないやうにうまれてきます

 賢治は自分が今まさに死ぬと思った時、かつて目の前で死んでいった妹のことを、思い出さずにいられなかったのではないでしょうか。けなげな妹は、その最期の時に、「輪廻の次の生では、自分のことばかりで苦しまなくてよいように(他人のためにこそ苦しめるように)生まれてきたい」と述べたのです。

 この妹の言葉を思い出したのか思い出さなかったのかはわかりませんが、結果的にこの「〔疾いま革まり来て〕」は、上のような妹の遺志を引き継ぎ、より具体化するものとなっています。
 「再び生まれてきたならば、健康な体によって、これまで受けた恩に報い、人々の苦労を背負おう。数多の悩みや歎きの中でも、素直な心で喜べる性質を持ちたい……」

※

 そして、「次の生」に向けたこのような賢治の願いをあらためて意識すると、どうしても連想せざるを得ないのは、「〔雨ニモマケズ〕」です。
 「〔疾いま革まり来て〕」が書かれたのは、1928年8月から1930年にかけての第一病臥期であるのに対して、「〔雨ニモマケズ〕」が書かれたのは1931年11月3日で、第二病臥期に属します。賢治は「〔疾いま革まり来て〕」で、一度は死を覚悟したのでしょうが、幸いこの時はいったん回復して、1931年2月から東北砕石工場技師時期として活動を始めました。しかし、この年9月の東京出張中に再び倒れ、残り2年の病床に就くのです。
 今度こそ死を逃れられないと悟った賢治は、あらためて「次の生」への願いを、「〔雨ニモマケズ〕」として綴ったのです。

 その内容は、やはり「〔疾いま革まり来て〕」を引き継ぐもので、健康な体や、穏やかな心や、人々への献身を願うものです。生活の細かな様子や人との関わりを描いている点では、「〔疾いま革まり来て〕」よりもさらに、思いを具象化したものとも言えます。

 二つの作品を比較してみると、下記のような点において、対応が見られるのではないかと思います。いずれの箇所でも、右の「〔雨ニモマケズ〕」の方が、より具体的な描写になっています。

〔疾いま革まり来て〕 〔雨ニモマケズ〕
たゞひたにうちねがへるは
すこやけき身をこそ受けて
⇒ 雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
もろもろの恩をも報じ
もろびとの苦をも負ひ得ん
⇒ 東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
すなほなるこゝろをもちて
よろこばんその性を得ん
⇒ 慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル

 すなわち、「〔疾いま革まり来て〕」は、「〔雨ニモマケズ〕」の「前身」とも言える作品なのではないかと感じる次第です。

「雨ニモマケズ手帳」実物展示(2022年9月)