右の写真は、レヴィ=ストロースの最晩年の著書『やきもち焼きの土器つくり』の表紙絵です。あんまり綺麗でユーモラスなので、ここに拝借しました。
この本は、「土器製作」と「嫉妬」と「ナマケモノ」と「よだか」という、一見すると何の関係もないようなもの同士の間に、神話的なアナロジーを見事に解き明かしていきますが、その過程で、よだかに関する厖大な神話を収載しています。
集められたよだかの呼び名に関しては、フランス語では「山羊の乳吸い」「枝乗り」「空飛ぶヒキガエル」(cf.「まあ、あの口の大きいことさ。きっと、かへるの親類か何かなんだよ」)、英語では「牛こうもり」「夜の鷹」、ドイツ語では「乳吸い」「夜のヒキガエル」「死の鳥」「魔女の頭目」「昼寝屋」など、ヨーロッパのどこでもほとんど好意的なものはありません。
アメリカ大陸に渡っても、「大口」「土食い」など同様の傾向で、日本では「夜鷹」が「下級の女郎」を意味するという話も紹介されます。そのなかで、ブラジルでよだかが「月探し鳥」「月泣き鳥」と呼ばれるというのが、ちょっと目につきます。
よだかは世界各地で、「死霊」や「地下世界」に近い存在と考えられていることが多く、各種の神話においても非常にグロテスクな役回りを演じさせられていることがしばしばです。
賢治の作品でも「よだかの星」は、その冒頭の「よだかは、実にみにくい鳥です。」という端的な提示から始まって、情け容赦のない描写がこれでもかと続くところなどは、彼の童話でも珍しい部類です。
さて、レヴィ=ストロースならば、童話「よだかの星」と、「銀河鉄道の夜」に出てくる「蠍の火」の挿話との間に、「構造的類同性」を指摘するところでしょう。よだかと同じく、蠍も憎まれ役の代表格ですし、賢治の童話でも「双子の星」に出てくる蠍は、最初はほんとに嫌な奴です。
よだかも蠍も、とりわけ嫌われ憎まれ蔑まれている存在だからこそ、その価値づけを正反対に脱構築しようとしたのが、賢治の物語なのでしょうね。
ほとんどグロテスクなものばかりのような、よだかに関する世界の神話の中で、唯一ちょっと違った雰囲気のものがありました。ウルグアイの国境付近に居住するグアラニ族の神話です。
ある首長の娘と、ただのインディアンが互いに見染めたが、娘の親は、この身分違いの結婚に反対した。ある日娘は失踪し、やがて、丘陵地帯で人里離れ獣と鳥に囲まれて住んでいるところが見つかった。家にもどるよう説き伏せるための使いが何度となく送られたが無駄であった。あまりの悲しみに彼女は耳も聞こえず何も感じなくなってしまっていたのだ。心神喪失からの回復には、精神的ショックを与えるしかない、とある呪医が断言した。そこで娘に、恋人は死んだと嘘を伝えた。すると娘は、ヨタカに変身して飛び上がり、姿を消してしまった。
入沢康夫
ご紹介いただいたレヴィ=ストロースの本、面白そうなので、注文して購入。読み始めたところです。実例が多くて、なかなか読みでがありそうです。著者のレヴィ=ストロースさんとは、パリで偶々同席し、紹介されて、ふたことみこと、会話したことがありました。もう二十年ばかり昔のはなしです。
hamagaki
入沢康夫さま、コメントをありがとうございます。
レヴィ=ストロースというと、私なんかにとっては、まさに遙か彼方の「神話的」な存在に感じられてしまうのですが、同席しじかにお話をされたとは、ほんとうにすごいですね(と、ミーハーな私は思ってしまいます)。
二十年前というと、この『やきもち焼きの土器つくり』が1985年の刊行ですから、ちょうどその頃のことでしょうか。
私の立場からはこの本は、フロイトの精神分析をさらりと何の力みも見せずに批判してみせるところなどが、とりわけ「カッコいい!」感じがしています。
ご健康をお祈り申し上げています。
今後とも、よろしくお願いいたします。
つめくさ
入沢先生のご登場に誘われて、ついふらふらと書き込みしてしまいます。
ご紹介を拝読してから、『神話と意味』をひさしぶりに再読していました。
「青い神話」(「札幌市」)が「希求の同時な相反性」(「青森挽歌」)と切り離せないものに思い続けているものですから、同書のドニジャーによる「序」に、
「(レヴィ=ストロースは、)神話とは、解決できないパラドックスを解決しようとする執念とも言うべき欲求によって駆り立てられているのだということをわれわれに教えてくれた人なのである。」
などとあるのを見つけては、ふむふむと唸ったりしておりました。
週間予報によると、17日は「遠くなだれる灰光」の空模様になるかもしれません。
hamagaki
つめくさ 様
ほんとうにご指摘のように、札幌における賢治の「湧きあがるかなしさ」とは、1923年8月の挽歌に謳われた感情に相当するに違いありませんね。
このことが、1927年3月になってやっと「心象スケッチ」として書きとめられたのは、自らの体験を何でもすぐに当日の日付をつけてメモしていた彼の日頃の習慣からすると、珍しいことです。
このように時間間隔があいてしまったのは、賢治がこの思いを「神話に変へて」しまうことに、あるいは解決できないパラドックスを解決しようとすることに、それだけの長い時間を必要としたからなのでしょう。
17日は、作品と同じ色の空のもと、多くの方々と「広場」に集えることを楽しみにしています。
雲
内容が全て、読めない状態なので、レヴィさんがわかりません。が、湧き上がる悲しみは、わたしにも、わかるような気がします。
止まらないんですよね。