自然からのWink

 私は1年前に「宮澤賢治における「倫理」と「美」」という記事において、賢治は常に強く「倫理」を意識し実践しようとする人だった反面、他方ではひたすら「美」を追求し享受しようとする人でもあったという、彼の持つ対照的な(?)二つの側面について考えてみました。
 この両面は、賢治の作品においてもその重要な特徴になっていると、今も私は思うのですが、ただ去年の記事の時点では、「思えば、宮澤賢治という人が、一つの人格の中に、高い倫理的感性と天才的な美的感性を併せ持っていたということは、「稀有な偶然」と言うしかない」などと書いていて、その「倫理」と「美」とは彼において、別個の独立した特性かと考えていました。

 実際たとえば、Wikipediaの「耽美主義」の説明にも「道徳功利性を廃して美の享受・形成に最高の価値を置く西欧の芸術思潮」などと書かれていますし、一片の詩句を求めて酒や女に溺れる芸術家たちの評伝などを見ても、一般には「倫理」と「美」というのは、相反する/両立しがたい価値観のように、理解されているのではないでしょうか。
 伝えられるところの賢治その人の言動からも、ふだんは信仰篤く、禁欲的で献身的な態度で一貫しているのに、ひとたび美しいものに感動すると、あたり構わず「ほほーっ」と奇声を上げて踊り出したとか、またクラシックレコードや浮世絵(春画を含む)の蒐集のためには相当な金額を費やしていたとか、この二つの側面の不思議な同居は、なかなか常人には理解しがたいところがあるように思います。

 しかしこのお正月に、たまたま熊野純彦著『カント 美と倫理とのはざまで』という本を読んでいて、カントのみならず賢治の心の底でも、この「美」と「倫理」という二つの契機は、表裏一体となって分かちがたく結びついていたのではないかと、思うようになりました。

カント 美と倫理とのはざまで カント 美と倫理とのはざまで
熊野 純彦 (著)

講談社 (2017/1/20)

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 今日の記事は、そのあたりの事柄についてです。

 そもそもカントは、その端正で緊密な哲学体系において、人間の悟性や理性の可能性や限界につき慎重に検討を行った結果、「神は存在するか」とか「魂は不死か」などという超感性的な問題は、人間が認識しうる範囲の外にある事柄であり、理論的考察によって答えは出せないものだと結論づけていました。人間としての「分をわきまえた」そのスタンスは、カントの誠実さの表れでもあると思うのですが、上記の本において著者の熊野純彦氏は、実はカントは明言は避けていたものの、上のような超越的な問いに対しても、ある答えを秘かに持っていて、それはそのテキストを注意深く読み解けば、浮かび上がってくるというのです。
 ということで、この本はそのような企図のもと、カントの『判断力批判』を題材としつつ、「この世界において『美』とは何か」という問いに対して、カントが心の奥に抱いていた考えを明らかにし、さらには「生の目的」や「世界が存在する意味」に関する彼の洞察を、探ろうとするものです。

 さてカントは、「第一批判」と呼ばれる『純粋理性批判』において人間の認識能力について検討し、「第二批判」の『実践理性批判』では倫理と自由について明らかにしようとしたのに続いて、最後の「第三批判」こと『判断力批判』において、美に対する人間の判断の根拠について考察を展開しました。
 その中でカントは、「美とは目的なき合目的性である」という有名な定式を提示するのですが、その意味するところは次のようなものです。

 人間にとって「美しいもの」は、何らかの仕方で人間の美意識にかなっているために、美しいと判断されるのだと思われます。これをカントは、「適意(Wohlgefallen)=よく意にかなっている」と呼びます。
 たとえば、花々が色とりどりに咲き乱れる春の野原や、夕日に染まる雲と水平線や、放射状に広がる孔雀の尾羽の碧い文様などは、内実は不明ながらもその形式や要素のどこかが、人間が持っている美の基準にうまく当てはまっているのでしょう。「美しい」と感じる対象は、人によってばらばらではなく概ね共通していることからも、人間にとっての美の基盤には、何かの普遍的な参照枠があるのだと思われます。
 そしてある種の自然の産物は、人間の持つこのような美の基準に、ちょうどうまく当てはまっていると考えられることから、カントはその性質を「合目的的」と呼ぶのです。そのような事物は、混沌とした無目的な造作ではなく、一つの秩序を帯びているのです。
 しかし「合目的的」と言っても、自然がそのような美しい姿をしていることに、実際に何か具体的な「目的」が込められていると考えるのは、困難です。花や夕日や孔雀が、人間の美感を満たしてやろうなどという目的を持って、わざわざ意図的にそのような外見を呈しているとは思えません。

 そこでカントは、「美」にまつわるこのような特性のことを、「目的なき合目的性」と呼んだわけです。
 しかし、考えてみればこれはとても不思議な事態です。自然のデザインにおいて、誰も「美」という目的を設定したわけでもないのに、自然そのものが偶然に「合目的的」な外見を呈するなどということが、どうして起こりうるのでしょうか。

 この問題に対して、カントは結局正面から明確な答えを示すことはしませんでした。人間の悟性が認識できる事柄だけをもとに論理を積み重ねても、それは答えを導き出したり証明したりすることはできない事柄なので、あえて臆断は自制したのです。
 しかし、『判断力批判』のテキストを読んでいくと、「自然」がその奧に隠している「目的」を、こっそり仄めかすことがあると指摘している箇所があるのです。

 しかしながら理性がまた関心をいだくところは、さまざまな理念(これらの理念に対して理性は、道徳的感情のなかで直接的な関心を惹きおこす)が客観的実在性も有するということである。すなわちそれは、自然がすくなくともなにほどか痕跡(Spur)を示し、もしくはなんらかの目くばせ(Wink)を与え、自然がみずからのうちに或る種の根拠をふくんでいることをあらわし、その根拠により私たちは、自然の産物が、いっさい関心に依存しないじぶんの適意(私たちはこの適意をア・プリオリにすべてのひとに対する法則として認識するけれども、この件をどのような証明によっても基礎づけることができない)と法則的に一致すると想定しうるということである。それゆえ理性は、この一致に類似した一致を示す、自然のいっさいのあらわれに対しても関心を抱かざるをえない。自然の美をめぐって熟考するときはつねに、そこで同時にじぶんが関心を懐いていることに気づかずにはいられない。この関心は、ところで、それがなにに類似しているのかという点からいうなら、道徳的なものなのである。(熊野純彦訳『判断力批判』第一部第一篇第二章第四二節「美しいものに対する知性的な関心について」作品社pp.267-268)

 これらのかすかな手がかり・足がかりを、いくつも探しながら辿っていく考察の果てに、本書の最後で熊野氏は、次のような結論に至ります。少し長くなりますが、引用させていただきます。

 自然の主観的な合目的性、その美を、反省的判断力に固有な限界を超えて探求することはできない。それは超感性的な次元にかかわり、したがって理論的考察のいっさいを越えているからである。とはいえ自然は、崇高なもののあらわれにおいて、さらにまた自然のなかで美しいものの普遍的な妥当根拠を問い、美にかかわるアンチノミーを解消する、その演繹にあって、超感性的な次元の存在を仄かに暗示している。自然の意図は、その匿名の技術の陰に、みずからを隠している。とはいえ見えるものの陰に、見えないものについてその「痕跡」が存在するのだ。自然はいわば人間に「目くばせウィンク」を送り、自然は人間の超感性的次元に対して美しく、その叡智的な水準にとって崇高なものとなることで、人間のためにこそみずからを荘厳しているかのように存在しているのである。
 判断力に対しては、自然そのものが「技術的なもの、つまりその産物において合目的的なものとして」あらわれる。自然がしめす美は、その形式的合目的性のあらわれである。これに対して自然が一箇の目的の体系として立ちあらわれるとするなら、その合目的性は客観的なものとなる。目的の一体系である自然は、とはいえ自然そのものを超えて、世界創造の究極的目的を指ししめす。究極的目的とは、倫理的主体であり、ヌーメノンであるかぎりでの人間それ自身にほかならない。ひとり「道徳性の主体であるかぎりでの人間」のみが、無条件的な存在でありうるからである。―― 要するにこうである。反省的判断力に対し立ちあらわれうるかぎりでの自然の目的論的構造が、人間の生と存在に対してその意味を保証している。生の意味が不在であるところでは、倫理もやがて空語となることだろう。
 かくてこの生は生きるにあたいし、世界は人間にとって意味ある生を可能とするしかたで組みたてられている。そもそも「合目的性」とは「客観的には偶然的であるとはいえ、主観的に(私たちの認識能力にとって)は必然的な、自然の合法則性」のことであった。独断を回避し結論を迂回しながらカントが最後の批判書で辿りついたこの回答を、佐藤康邦にならって、人間は世界のなかの「異邦人」ではない、と取りまとめておいてもよいだろう。
 生は世界によって肯定されている。自然は、みずからを超える次元を人間の倫理のうちで告知している。美と目的とを世界のなりたちのなかで、とはいえ最終的には自然の構造を超えて探究することによって、人間の生の意義はあかされ、かつ世界の存在の意味がしめされる。カントが『判断力批判』のうちで展開した思考とその非明示的な背景とモチーフを、批判哲学総体の布置のなかで跡づけることをこころみた、本書における私たちのくわだても、かくてまたその結語へと逢着したこととなるはずである。(『カント 美と倫理とのはざまで』pp.298-299)

 これはちょっと感動的なラストで、けっこう難しいこの本を、頑張って最後まで読んできて本当によかったと、心から感じるところです。
 結局のところ、カントが心の底に抱いていた考えでは、「美」は実は「目的なき合目的性」などではなく、その目的はわれわれ人間であり、まさにこの美によってこそ自然は人間に向けてさまざまな「目くばせウィンク」を送り、その意味を暗示しようとしていたのだというわけです。

 「自然の美」に秘められた合目的性をどう理解すればよいのかという問題は、進化心理学的あるいは進化美学的に考えると、「それを好ましく判断する感性が、人間の生存にとって好都合だったから」ということになるのでしょう。男性や女性の肉体美とは、より有望な遺伝子を多く残せるような生殖の相手を選ぶための目安だったのでしょうし、美しく感じる風景というのも、ヒトの生活に都合のよい環境を判別する感覚に由来するのかと思われます。孔雀の尾羽は、人間の生存にとって意味があるわけではありませんが、孔雀の性選択において有利な形質に対して、同じ脊椎動物である人間も、それを同じく好ましいと感じる神経機構を共有しているということでしょうか。
 カントの言う「目くばせウィンク」は、選ばれし者に対して示されるわけですが、この場合は、進化論的な「自然選択」をくぐり抜けた者に、という意味になります。

 ところで、この「自然から人間に送られる「目くばせ(Wink)」」という比喩を、カントは『判断力批判』で印象的に使用し、熊野氏も本書の重要なモチーフとして、何度もカントから引用しています。
 私はこの言葉から、否応なく賢治の一つの詩を連想しました。「春と修羅 第二集」の「暁穹への嫉妬」です。

   暁穹への嫉妬
            一九二五、一、六、

薔薇輝石や雪のエッセンスを集めて、
ひかりけだかくかゞやきながら
その清麗なサファイア風の惑星を
溶かさうとするあけがたのそら
さっきはみちは渚をつたひ
波もねむたくゆれてゐたとき
星はあやしく澄みわたり
過冷な天の水そこで
青い合図winkをいくたびいくつも投げてゐた
それなのにいま
(ところがあいつはまん円なもんで
リングもあれば月も七っつもってゐる
第一あんなもの生きてもゐないし
まあ行って見ろごそごそだぞ)と
草刈が云ったとしても
ぼくがあいつを恋するために
このうつくしいあけぞらを
変な顔して 見てゐることは変らない
変らないどこかそんなことなど云はれると
いよいよぼくはどうしていゝかわからなくなる
……雪をかぶったはひびゃくしんと
  百の岬がいま明ける
  万葉風の青海原よ……
滅びる鳥の種族のやうに
星はもいちどひるがへる

 この時賢治は、夜明けの三陸海岸を一人で南下しながら、空に浮かぶ「清麗なサファイア風の惑星」が、自分に「青い合図wink」をいくたびも投げかけるのを目にしました。この惑星とは、下に「リングもあれば月も七っつもってゐる」とあることから土星のこととわかりますが、賢治は自分にウィンクを寄こす土星に恋心を抱いてしまっていることが、その下の「ぼくがあいつを恋する……」という言葉で明かされます。

 このように賢治は、自然物に対する恋愛感情を吐露することが時々あって、たとえば『春と修羅』の「過去情炎」では、梨の木の葉の雫に対し「鄭重にかがんでそれに唇をあてる」という行動を取ります。そして、しばらく他の作業をした後にまたその葉の雫のところへ戻ってきた時、次のような「プチ失恋」をします。

わたくしは待つてゐたこひびとにあふやうに
応揚おうやうにわらつてその木のしたへゆくのだけれども
それはひとつの情炎じやうえん
もう水いろの過去になつてゐる

 またその次の作品の「一本木野」では、自らのことを「森やのはらのこひびと」と呼び、前作とは逆に賢治の方が自然から、口づけを受けるのです。この「三日月がたのくちびるのあと」は、ヌスビトハギの果実のことでしょう。(下写真は、ウィキメディア・コモンズより)

わたくしは森やのはらのこひびと20210110a.jpg
よしのあひだをがさがさ行けば
つつましく折られたみどりいろの通信は
いつかぽけつとにはいつてゐるし
はやしのくらいとこをあるいてゐると
三日月みかづきがたのくちびるのあとで
肱やずぼんがいつぱいになる

 「暁穹への嫉妬」や「一本木野」において賢治は、自分という人間が自然によって選ばれ、ウィンクや口づけという愛の挨拶を受けとる存在であると感じているわけです。そしてこれこそが、自然が賢治にその「美」を惜しみなく開示してくれる所以でした。自然美が持つ「合目的性」における「目的」とは、この場合は賢治その人だったのです。
 言わば彼は「自然の寵児」であったわけで、このように自分が自然によって「選ばれている」という感覚は、賢治にとって大いなる喜びをもたらしたでしょうが、他方ではまた恐ろしいことでもありました。「風がおもてで呼んでゐる」では、賢治は吹きすさぶ風から、「おまへも早く飛びだして来て/あすこの稜ある巌の上/葉のない黒い林のなかで/うつくしいソプラノをもった/おれたちのなかのひとりと/約束通り結婚しろ」と迫られ、病床でひとり慄くのです。「選ばれて在ることの恍惚と不安とふたつわれにあり」というヴェルレーヌの詩句も思い起こされます。

 カントの考えでは、「選ばれて在る」のは実は特別な人間ではなくて、人間という存在すべてだったわけで、これは先述のような進化心理学的な観点から考えても、「ヒトという種が自然によって選択された(生き延びた)から」ということになります。
 しかしこれは、実存的(あるいはプロテスタント的?)な次元においては、「我と汝(≓私 vs 神)」という一対一の形で現れるので、あたかも「自分が選ばれている」という風に体験されるのも、それはそれで不思議なことではありません。『歎異抄』の「後序」に、「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人いちにんが為なりけり」とあるのも、このことを言っているのだと思います。一見すると傲慢で自己中心的な言葉のようにも思えますが、実存的な体験としては、まさにこうなのでしょう。

 さて、カントにとっては、自然が人間を目的として特別にあつらえた「合目的性」をもって、その美を開示してくれている所以は、詰まるところその奧にある「神」の意志の表れでした。『実践理性批判』の末尾の言葉「わが上なる星しげき空とわが内なる道徳法則が讚嘆と畏敬とをもって心を充たす」において、星空の「美」と道徳法則の「倫理」の背後で、讃歎と畏敬を向けられているのは、ほかならぬ神なのです。
 これは賢治においても同様で、キリスト教的な神とはいくぶん違うものの、たとえば「〔東の雲ははやくも蜜のいろに燃え〕」では、彼は月に対して次のような思いを記しています。

まことにあなたを仰ぐひとりひとりに
全くことなったかんがへをあたへ
まことにあなたのまどかな御座は
つめたい火口の数を示し
あなたの御座の運行は
公式にしたがってたがはぬを知って
しかもあなたが一つのかんばしい意志であり
われらに答へまたはたらきかける、
巨きなあやしい生物であること
そのことはいましわたくしの胸を
あやしくあらたに湧きたゝせます

 「暁穹への嫉妬」で賢治は、「うつくしいあけぞら」に浮かぶ土星から、ウィンクとともに「美」を享受したのでしたが、こちらの作品では、やはり夜明けの空の月のことを「一つのかんばしい意志」としてとらえ、「われらに答へまたはたらきかける」という、「倫理」の導き手として仰いでいるわけです。
 そして月のことを、「かんばしい意志」を持つ尊い天子として仰ぐ延長線上に、「銀河を包む透明な意志」あるいは「宇宙意志」というものがあるのでしょう。その意志の究極の主体は、賢治の信仰においては、「我常に衆生の 道を行じ道を行ぜざるを知って 度すべき所に随って 為に種々の法を説く」(法華経如来寿量品)ところの、久遠の本仏にほかなりません。

 すなわち、賢治にとってもカントと同じく、この世界が惜しみなく「美」を与えてくれて、己れがそれを享受できる喜びを授かっている理由は、やはりこの世界が至高の意志によって導かれ、己れも含めた全ての存在が最高の善に向かって進んでいるという「倫理」と、一体となっていたからだと思うのです。