詩作品の外向性/内向性

 賢治は自らの詩を「心象スケッチ」と呼んで、自分の心において生起している現象(=心象)を、ありのままに描写(=スケッチ)することを、方法論としていました。

 その「心象」の内容は、自然の風景や生き物や他の人間など、作者の「外界」の出来事に由来している場合と、作者の感情や思考など、その「内界」の出来事に由来している場合がありえます。
 実際の作品においては、両者が多様な仕方で混在しているでしょうが、その割合は作品によってまちまちで、ほとんど外界の描写に徹している作品がある一方で、専ら自分の心の中の感情や思索を記述した作品もあります。

 さて今回は、個々の作品において、作者が上記のような意味で「外を向いているか/内を向いているか」という程度を、数値化することを試みてみました。
 先日は、詩の描写にどの程度の幻想性が含まれているかということを数値化して、「幻想性指数」というものを考えてみましたが、今回は、純粋に外的な現象を描写している場合を「1」、完全に作者の内的な心の状態を記述している場合を「-1」とする、「外向性指数」という数値を定義してみたわけです。

 その結果をグラフにたのが、下図です。(クリックすると別窓で拡大表示されます。)

『春と修羅』各作品の外向性指数

20240804a.png

 先日の「幻想性指数」の際にも、各心象スケッチを、一つの描写としてそれ以上分割できない最小単位である「要素スケッチ」に分解し、各要素スケッチの幻想性を数値化した上で、作品中に含まれる全ての要素スケッチの幻想性指数の平均値を、その作品全体の幻想性指数として定義しました。
 今回もそれと同様の方法で、作品中の要素スケッチごとに外向性指数を算定し、全ての要素スケッチの外向性指数の平均を、作品全体の外向性指数としました。

 要素スケッチの外向性指数は、その描写が「作者の外界に由来する心象(五官を通して得られる知覚や、その場で外界に触発された空想、外界に定位される幻覚等)」である場合に、「1」とします。「空想」や「幻覚」は、作者の内界に由来するではないかと言われればそのとおりですが、ここでは作者自身がどうとらえているかということを基準にしていて、もしも作者が小岩井農場の道を歩く天の童子をその目で見たならば、作者の意識は「外」を見ているので、外的な出来事に分類するのです。

 一方、要素スケッチの描写が、「作者の内界に由来する心象(作者の感情や思考、あるいは過去の回想や未来の想像等)」の場合には、「-1」とします。

 そして、一つの要素スケッチに作者の外界と内界の両方が描かれていると考えられる場合や、外界か内界かどうしても判別できない場合には、「0」とします。0とした事例の数は少なかったですが、たとえば「無声慟哭」の、「わたくしのかなしさうな眼をしてゐるのは/わたくしのふたつのこころをみつめてゐるためだ」という描写は、「わたくし」が「ふたつのこころをみつめてゐる」という内省に基づきつつ、それを「わたくしのかなしさうな眼をしてゐる」という外的情景の形で描いており、外界と内界の両者が混在していると考え、外向性指数は「0」としました。

 ここで、外向性指数の算定例として、「雲の信号」の場合を示します。

20240804b.png

 青い点線で囲んだ部分が「要素スケッチ」で、この作品では8つあります。
 そして青枠の上の赤い数字が、その要素スケッチの外向性指数です。

 一行目の「あゝいゝな、せいせいするな」は、作者の感覚の表現であり、内界由来の描写ですから、外向性指数は「-1」です。
 次の「風が吹くし」「農具はぴかぴか光つてゐるし」「山はぼんやり」は、いずれも外的な出来事の描写なので、外向性指数は「1」です。
 その次の「岩頸だつて岩鐘だつて/みんな時間のないころのゆめをみてゐるのだ」はちょっと難しいところで、これは内容的には作者の「想像」でしょうが、しかしここで賢治は周りの山々(岩頸・岩鐘)を見て、それらが「時間のないころのゆめをみてゐる」ことを、まさにありありと実感をもって感じとっているので、これは外的な描写と考えて「1」としました。
 「そのとき雲の信号は/もう青白い春の/禁慾のそら高く掲げられてゐた」も同様で、これは客観的な現実の描写とは言えませんが、やはりここで作者は「そら高く掲げられ」た「雲の信号」を目にしているので、「1」としています。
 最後の「きつと四本杉には/今夜は雁もおりてくる」はこれと逆に、作者自身が「きつと」という言葉を使って、これが想像であることを自覚しているので、内的な描写と考えて「-1」としました。

 結局、各要素スケッチの外向性指数は、-1, 1, 1, 1, 1, 1, 1, -1 となり、これらを平均した「0.5」が、この作品の外向性指数となります。

 あらためて、先に掲げた「『春と修羅』各作品の幻想性指数」を見ると、かなりの数の作品の外向性指数は「1」で、これらにおいては作者は外界の描写に徹しているわけです。
 外向性指数がマイナスになっている作品、つまり外的描写よりも内的描写の方が多いという作品もいくつかあり、「恋と病熱」「竹と楢」「青森挽歌」「宗教風の恋」がそれに該当します。いずれも内省的な作品であることは、おわかりいただけるかと思います。
 「青森挽歌」以外の3つの作品は、比較的短いのに対して、「青森挽歌」は非常に長大な作品でありつつ、相当な部分を内省が占めているところが特徴的で、これは『春と修羅』の中でも、特異な作品と言えるかと思います。

 『春と修羅』という詩集全体の中で、内省的な作品が多く見られる領域は、前半部の「恋と病熱」を中心としたあたりと、後半の「青森挽歌」や「宗教風の恋」の前後あたりという形に、大きく二つに分かれているように見えます。
 前者の内省は、「春と修羅」に描かれているような己の修羅性との対峙に、後者の内省はトシを亡くした後の悲嘆に、それぞれ関連しているように思われます。
 そして二つの領域の中間には、外向性指数が「1」の作品が大半を占める領域があります。