塵点の劫

 先日東京へ行った帰りに、身延山久遠寺に寄って、久しぶりに賢治の歌碑を見てきました。
 下写真が、日本三大三門の一つに数えられる、久遠寺の三門です。

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 この門を入って少し行った右手に、賢治の歌碑があります。

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塵点の
  劫をし
過ぎて
 いましこの
妙のみ法に
 あひまつ
   りしを
       賢治

 この歌碑は、宮沢賢治研究会(1959年に前身の「宮沢賢治友の会」から改称)が、創立10周年を記念して、日蓮宗の総本山である身延山久遠寺に建立したものです。
 当時の宮沢賢治研究会理事長の佐藤寛氏が中心となって、協力者437名に加え匿名の多数の浄財によって建てられました。
 1961年10月23日に行われた碑の除幕式には、北海道や九州からも計150名が参列し、賢治の次妹岩田シゲさんが、除幕を執り行ったということです。

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『新校本全集』第13巻下より

 この歌は、「雨ニモマケズ手帳」の鉛筆挿しの筒に丸めて挿入されていた紙に記されていたもので、賢治の死後にこの手帳が発見されてから、さらに十数年後に確認されたものです。
 賢治自身は、誰にも読まれることなど想定せずに、ただ秘かに自らの心の内を詠んだ歌だったのでしょう。

 冒頭の「塵点の劫」というのは、途方もなく長い時間のことで、法華経の如来寿量品では、次のように説明されています。

たとへば、五百千万億那由陀阿僧祇の三千大世界を、仮使たとひ人有りて、抹して微塵と為して、東方五百千万億那由陀阿僧祇の国を過ぎて、乃ち一塵を下し、是の如く東に行きて是の微塵を尽さんが如き、諸の善男子、こころに於いて云何いかん

(『漢和対照 妙法蓮華経』p.415)

 上に出てくる「五百千万億那由陀阿僧祇」というのは、どれも大きな数の単位で、「那由陀」は1060、「阿僧祇」は1056ということですので、

5×102×103×104×108×1060×1056 = 5×10133

となります。
 全く想像のつかないような数ですが、これだけの数の「三千大世界」をすり潰して微塵にして、東に向かって5×10133の国を過ぎるごとに1塵ずつ落として行き、全ての微塵が尽きるまでの時間、ということになります。
 人間の尺度では、「限りなく長い時間」と言うほかありません。

 さて、賢治のこの短歌は、自分の元となる存在が原初にこの世に生まれて、死んでは転生し、また死んでは転生し、またまた死んでは転生し……という輪廻を果てしなく繰り返した挙げ句、上のように限りなく長い時間が経過した今──まさにこの今という時──に至って、ついに私は「たえのみのり=妙法蓮華経」に出遭うことができたのだ……という深い感慨を詠ったものです。

 この歌の中心にあるのは、何よりも三句目の「いましこの」という言葉です。この「いま」という時間における幸福かつ稀有な出逢いに、賢治は心の底からの感動と感謝を表しているわけです。
 分銅惇作氏は、この「いましこの」という句について、次のような指摘をしておられます。

 しかし、どうも私は、〔賢治がこの短歌を詠んだのは〕「雨ニモマケズ」を書いて曼荼羅を書写した日ではないだろうかと思うのであります。そう思ってみると、鉛筆の感じが似ているのであります。というのは、私はこの歌を読みました時は、「開経偈」の「無上甚深微妙の法は百千万劫にも遭ひたてまつること難し。我今見聞して受持することを得たり。願くは如来の第一義を解せん」を踏まえているのではないかと思っておりましたが、「いましこの」という語法が気にかかり「不軽品」を読み直してみますと、こういう言葉が出てまいりました。「億々万劫より不可議に至りて時にいまの法華経を聞くことを得」。「塵点の劫」というのは、「億々万劫」と同じ事であります。この永遠無始の長い時の流れを経て時にいまし法華経を聞くことを得たということで、内容的に全く重なるのであります。「いましこの」という特徴ある語法というものは、この「不軽品」ではないかと思うのであります。とにかく賢治にとって、今生に生まれそして生きたということの意味は、「法華経」に遭いたてまつることができた、という一語に尽きるのであります。そしてそれを、「妙のみ法にあひまつりしを」といっているのであります。

(分銅惇作『宮沢賢治の文学と法華経』pp.269-270)

 ここは確かに、分銅惇作氏の指摘のとおりと思われ、賢治がこの歌に「いましこの」と記したのは、法華経常不軽菩薩品の上記の一節を踏まえているのに違いありません。
 賢治が座右に置いていた、島地大等編の『漢和対照 妙法蓮華経』から、この箇所を見てみます。

億億萬劫 至不可議
時乃得聞 是法華経
億億萬劫 至不可議
諸佛世尊 時説是經

億億万劫より 不可議に至りて
ときいまし 法華経ほけきやうくことを
億億万劫より 不可議に至りて
諸仏世尊 時に是の経を説きたまふ

(『漢和対照 妙法蓮華経』常不軽菩薩品第二十pp.502-503)

 「時はまさに今、この法華経を聞くことができる」というのですから、賢治の歌の表現と、ぴったり重なり合います。

 それにしても、「乃」という字に「いま」という読みや意味などがあったのだろうかと思って辞書を調べると、確かにあるのですね。

いま-し【今─・乃─】
《連語》(「し」は強めを表わす副助詞)
①今という今。たった今。ちょうど今。

(『精選版 日本国語大辞典』)

 では、この「時にいまの法華経を聞くことを得」という表現は、他の訳ではどうなっているのだろうと思って調べてみると、坂本幸男・岩本裕訳の岩波文庫版『法華経』では、この箇所は次のようになっていました。

(漢文からの訳)
億億万劫より 不可議に至りて
時にすなわち この法華経を聞くことを
億億万劫より 不可議に至りて
諸仏世尊は 時にこの経を説きたもう

(サンスクリットからの訳)
幾千万劫という考えられないほどの長いあいだ、このような教えが説かれたことはない。
幾千万劫という仏がいても、かれらはこの経典を世に弘めないのだ。

(岩波文庫『法華経』下pp.148-149)

 上の漢文訳の「すなわち」は、辞書的には「かなりの時間が経過して起こる場合。「やっと」「はじめて」と訳す」とある用例(三省堂『漢辞海』)のようで、「そもそもこの法華経というものは、億々万劫から不可議に至る長い時間が経って、やっとはじめて聞けるものなのだ」ということになるでしょう。
 するとこれは、法華経という有難いお経には、稀にしか出遭うことができないという、「一般論」を述べているのであって、先の『漢和対照 妙法蓮華経』のように、「まさに今、法華経を聞くことができる」という、歓喜や感動を表現しているわけではありません。

 このような書き下しや訳の相違は昔からあったようで、明治38年刊行の深川観察著『法華経:訓訳』には、「億億萬劫より。不可議にいたツて。時にいまし。の法華経を聞くことを。」とある一方で、同じく明治38年刊行の佐藤隆豊訳『大乗法華経:標註和訳』下の巻には、「億々萬劫より。不可議に至り。時に乃ち是の法華経を聞くことを得。」とあり、こちらは「すなわち」と読むでしょうから、やはり稀少さの一般論を述べているだけです。
 田中智学の立正安国会に所属していた山川智応が、明治45年に刊行した『妙法蓮華経:和訳』には、「億億萬の劫より 不可議に至りて 時ありていまし。の法華経を聞くことを得」とあり、さらに脚注に、「「億々萬劫至不可議」の下は受持の果報を歓むることを頌するなり」と記されており、「法華経に出逢えた幸せを讃え祝う」という、賢治の短歌に重なる意味が説かれています。
 一方、大正2年に日本初のサンスクリット語からの翻訳として世に出た、南条文雄・泉芳璟訳の『新訳法華経:梵漢対照』では、この部分は「不思議多倶胝劫経ても かゝる御法は聞き難し 百倶胝の佛は出でますも この経典は宣べられじ」となっています。これも、法華経との出逢いの困難さを、一般論として述べています。

 ついでに、竺法護訳の『正法華経』のこの部分を見てみると、次のようになっていました。

無数億億 而當思惟 未曾得聞 如是之法
假使有佛 億百千數 常聞講読 如是比經

『正法華經10卷 [2]』

 これだと、問題の部分は「未だ曾て聞くを得ず」となり、やはり「今こそ聞いた!」という出逢いの感動にはなりません。

 ということで、賢治の短歌の「いましこの」という言葉に秘められた、法華経との出逢いの感動の表現は、元来サンスクリット版の法華経にはなかったものであり、竺法護訳の『正法華経』にも存在せず、鳩摩羅什訳の『妙法蓮華経』において初めて、「時乃得聞 是法華経」という形で盛り込まれたもののようです。
 そしてこの鳩摩羅什の漢文を和訳する際にも、「すなわち是の」と読む流儀と「いまの」と読む流儀の二つがあり、島地大等の訳で後者に出遭った賢治は、これを踏まえて「私が・まさに今・法華経に出遭った」という、一種の実存的な感動を込めて、冒頭の短歌を詠んだわけです。

 ところで、この賢治の短歌が、日蓮宗の総本山である身延山久遠寺に歌碑として建てられた経緯は、先に述べたとおりですが、これまで私は何となく、賢治の歌碑がこの久遠寺に建てられたことに、ちょっとした違和感を覚えていました。賢治自身は日蓮宗に入っていたわけではなく、どちらも法華経と日蓮を尊崇していたとは言え、賢治が入っていた国柱会と日蓮宗の主張には様々な相違があり、田中智学も日蓮宗などの既存教団に対しては、かなり痛烈な批判も行っていたからです。
 しかし、今回「塵点の劫」についていろいろ調べてみる中で、このお寺の名称である「久遠寺」は、法華経の「久遠実成」に由来しており、「如来寿量品」にあるように釈迦如来が成仏してから経過した時間が、「百千万億那由陀阿僧祇劫」であるということを体現しているわけですから、賢治が「塵点の劫」を謳った歌の碑を建てるには、やはりここも非常にふさわしい場所だったのだなあ、という気がしている次第です。

 下写真は、賢治の歌碑の前からまた参道に戻って奥に進んだ場所から、本堂の方に上る石段です。「菩提梯」と名づけられていて、人が菩薩となるまでの、長い長い修行の階梯を象徴しているのだということです。

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