Home ⇒ [伝記的事項2022年02月] ⇒ 雨中 Gifford を訪ふ

雨中 Gifford を訪ふ

 記事「賢治と Miss Gifford の会話」と「ひるのたびぢの遠ければ…」に書いたように、賢治は1922年12月に仙台に向かう東北本線の車中で、アメリカ人宣教師ミス・ギフォードと会い、ヤドリギや天国のことについて会話を交わしたようです。
 そして前者の記事でもご紹介しましたが、さらに賢治は翌1923年にもギフォードを訪ねたことが、「「文語詩篇」ノート」に記載されています(下画像は『新校本全集』第13巻(下)p.194より)。

20220223a.jpg

 上画像で、左頁下の×印の欄に「十二月 仙台ニ行ク車中 Miss Gifford」と記されていますが、こちらが1922年の車中の邂逅で、右頁の中ほどより下にある「雨中 Gifford を訪ふ」というのが、ページ右上端にあるように1923年の出来事です。

 鈴木健司氏の調査によれば、ギフォードは1923年には盛岡幼稚園の園長をしていたということですので、賢治は彼女に会うためにわざわざ花巻から盛岡まで、雨の降る中を出向いたのだろうと思われます。
 「〔あかるいひるま〕」や「〔けむりは時に丘丘の〕」のテキストに記録されている、1922年の賢治とギフォードの会話内容も非常に興味深いものでしたが、それに続いてまた翌年、いったい賢治はどのような意図で自ら彼女を訪ねて話をしたのか、こちらもとても気になるところです。

20220223b.jpg この訪問について、『新校本全集』第16巻(下)年譜篇では右のように、「五月~七月 「文語詩篇」ノートに「雨中 Gifford を訪ふ」のメモ。盛岡へ出たとき盛岡幼稚園へ寄ったか。」と書かれています(p.256)。
 賢治の訪問時期を「五月~七月」と限定している理由は、上の「「文語詩篇」ノート」の画像でご覧いただけるように、この記載は「四月」の「新校舎にウツル」よりはかなり下に位置しているため、4月の出来事とは思われず、また賢治はこの年の7月31日から8月12日まで樺太旅行に出かけており、その旅行の記載は次のページにあることから、8月の出来事でもなさそうだということによるのでしょう。
 まあこれは、妥当な解釈のように思えます。

 ただこの年譜の文章のうち、「盛岡へ出たとき盛岡幼稚園へ寄ったか」という部分については、少し不思議に思う方がおられるかもしれません。この文の表現によれば、賢治が盛岡に行った本来の目的は別にあり、ついでにその機会を利用して、Giffordに会うために「盛岡幼稚園に寄った」ということになるでしょう。「寄る」という言葉の意味は、どこかへ行く途中に訪れる、ということだからです。

 さて、年譜がこのような表現をしている理由は、次の項の「五月頃 大谷良之の回想によれば、盛岡肴町の大谷を日曜毎に午後しばしば訪問」という記載を読むと、理解できます。年譜編纂者としては、賢治はこの時、Giffordに会うためだけの目的で盛岡に行ったのではなく、もともと毎週のように日曜に大谷良之を訪問していたので、そのついでにGiffordのところにも寄ったのではないかと、推測しているのでしょう。
 そして私としても、年譜編纂者によるこの推測は、もっともなことと思います。

 農学校に勤めていた賢治が、花巻から盛岡を訪問するとしたら、月曜~金曜の平日に授業が終わってから行くとかなり遅い時間になってしまい、相手にとっても負担でしょうから、よほど急用の場合に限られるでしょう。
 一般的に考えると、土曜の午後か、日曜に訪問するということになるでしょうが、当時の賢治としては、ほぼ毎週日曜に盛岡行きの用事があるのなら、わざわざ土曜にギフォードのためだけに盛岡に行き、さらにまた翌日も行くよりも、日曜に大谷良之のところと盛岡幼稚園と、二か所を訪ねるのが自然だと思われます。

 ということで、賢治がGiffordを訪ねたのは、「1923年5月~7月の雨の降る日曜日」だったのではないかと、ひとまず推測することができそうです。

 次に、1923年5月~7月の岩手県の天候ですが、国会図書館デジタルコレクションで1923年5月、6月、7月の「中央気象台月報」を調べると、「水沢」における気象データは、下画像のようになっています。(数字が小さいですが、各画像をクリックすると大きな画像が表示されます。)

20220223c.jpg

20220223d.jpg

20220223e.jpg

 各表の右端に、1日あたりの降水量が掲載されているのですが、この中から5月~7月の日曜日の降水量を抜き出すと、下のようになります。

5/6  0.0mm
5/13  -
5/20  0.9mm
5/27 27.3mm
6/3   -
6/10  0.1mm
6/17  7.1mm
6/24  -
7/1   -
7/8   -
7/15  2.2mm
7/22 30.1mm
7/29  3.7mm

 水沢で観測された天候は、花巻あるいは盛岡と全く同じとはかぎりませんが、雨が降ったかどうかということに関しては、いずれも岩手県内陸部ですからさほど大きな違いはないだろうと、ここでは考えておきます。
 また、賢治は上記のうち6月3日には、農学校の生徒とともに岩手山に登り、「風林」や「白い鳥」という作品を残していますので、この日はギフォード訪問の候補日から除外できます。

 さて、上記の雨量データをどう評価するかという問題ですが、当日の降水量があまりに少なかったかったなら、あるいは訪問外出時間に比してごく短時間ですぐにやんだ雨なら、賢治もあえて「雨中 Gifford を訪ふ」とまでは書かないでしょうから、まあそれなりの量が、それなりの時間にわたって降った日を選ぶ必要があります。

 ここで、「それなりの降水量」の目安として、「1時間あたり1mm」というのは「地面が湿る程度のいわゆる小雨」で、「傘をさす人とささない人が半々くらい」というこちらの気象予報士さんの動画を参考に、賢治が「雨中」と表現するからには、「当日の外出中には少なくともと1mm/h以上の雨が降り続いていた」と仮定することにします。
 また、この日の盛岡訪問における賢治の外出時間がどのくらいだったかは不明ですが、当時汽車で花巻―盛岡の片道所要時間が52分であり、大谷良之宅と盛岡幼稚園の滞在時間はそれぞれ1時間は要したと考え、また駅や目的地の間の徒歩での移動時間も少なくとも総計1時間は要したであろうと仮定すると、「出発から帰宅まで少なくとも5時間は要した」ということになり、これをもう一つの仮定とします。
 そうすると、「賢治の外出中はそれなりの雨が降っていた」という前提から、「この日の1日降水量は、1(mm/h)×5(時間)=5(mm) から、少なくとも5mm以上はあった」というふうに数値化してみることができます。

 上記の想定をもとに、上に挙げた5月~7月の降水量のデータから、6月3日と、5mm未満の日を除外すると、残るのは5月27日(27.3mm)、6月17日(7.1mm)、7月22日(30.1mm)という3日になります。
 このうち、6月17日の「7.1mm」というのは1日量としてさほど多くないのに対して、5月27日の「27.3mm」と、7月22日の「30.1mm」というのは、結構しっかり降っていて、どちらかと言えばこの2日の方が、賢治がわざわざ「雨中」と記すに足る感じがします。
 さらに、年譜篇の記載では、特に「五月頃」に「盛岡肴町の大谷を日曜毎に午後しばしば訪問」とあることを考えると、5月の方が大谷訪問という「ついで」がある可能性が高かったのかと思われます。すなわち、しっかりと降った2日のうちでは「5月27日」の方が、より可能性が高そうな気がします。
 ということで、賢治が「雨中 Gifford を訪ふ」と記した出来事は、1923年5月27日のことだった可能性が最も高いのではないか……。

 などということを、つらつらと考えてみたりしていたのですが、上記の推論には仮定も多く含まれていて、さほど明確に断定できるものとは言えませんし、「だからどうだ」という結論があるわけでもありません。

 ただ、もしも賢治がミス・ギフォードを訪ねたのが1923年5月27日だったとすれば、これは彼が岩手山に登って亡きトシのことを思い「風林」を書く、ちょうど1週間前だった、ということになります。
 「〔あかるいひるま〕」や「〔けむりは時に丘丘の〕」に記された賢治とギフォードの会話においては、「天」をめぐる話が重要な意味を持っていましたが、「風林」の中にも次のように、トシの居場所としての「天」の具体的描写が出てきます(美しい光、五妙の音楽、時間の長さ)。

 (ああけれどもそのどこかも知れない空間で
  光の紐やオーケストラがほんたうにあるのか
  …………此処ここあ日ああがくて
      一日いちにぢのうちの何時いづだがもわがらないで……
  ただひときれのおまへからの通信が
  いつか汽車のなかでわたくしにとどいただけだ)

 すなわち、賢治はトシの死後、その行き先について考えを巡らし続けた挙げ句、1922年12月の車中の会話に続き、1923年のギフォード訪問でも、「死者の行き先としての『天』について、キリスト教ではどう考えるか」ということに関し、彼女にいろいろと尋ねたいことがあったのではないかと、私にはどうしても思えてしまうのです。
 そして賢治は、おそらくギフォードとの会談でも答えが出ぬまま、トシからの通信を求めて、この7月末に樺太を目ざして旅立ったのではないでしょうか。

 ところで下の写真は、「盛岡幼稚園百十年のあゆみ」から引用させていただいたものですが、タッピング夫人が宣教師館に開いた園舎の創設当初の情景です。中ほどで鍬か何かを持っている外国人女性は、タッピング夫人なのでしょう。
 盛岡幼稚園の新園舎は、1923年6月に新築・竣工され10月に落成式が行われたということですから、5月~7月に賢治がミス・ギフォードを訪ねた時には、まだ宣教師館を用いた下記の園舎だったのではないかと思われます。鈴木健司氏が指摘しておられるように、この時に賢治が旧知のタッピング夫人とも会った可能性も、十分に考えられます。

20220223g.jpg