「TEDトーク」という、世界的に話題の人物がかっこいいプレゼンを行う企画があります。そこではこれまでに、マイクロソフトのビル・ゲイツとか、クリントン元大統領とか、DNAを発見したジェームズ・ワトソンとか、錚々たるメンバーが刺激的な話をしていますが、その中の一つに、プリンストン大学教授のピーター・シンガーという哲学者による、「効果的な利他主義者になる方法」という講演があります。
講演の冒頭では、車に轢かれた女の子のかたわらを、何人もの人が知らん顔をして通り過ぎるという、衝撃的な映像が流されます。そして「あなたならどうする?」というシンガーの問いかけに対して、会場の聴衆のほとんどは、自分だったら見過ごさずに必ず助けようとする、と意思表示をします。
ここでシンガーは、その慈愛に満ちた聴衆に対して、さらに問いかけます。「ところで、ユニセフの報告によれば、世界中で毎日1万9千人の子供が、貧困による予防可能な病気で命を落としていますが、この子供たちについてはどうでしょうか?」と。「彼らは遠くにいるから仕方がないのでしょうか?」
そしてここでシンガーは、車に轢かれた目の前の子供を放っておくことと、地球のどこかで死に瀕している子供に無関心でいることとの間に、道徳的には何の違いもないのではないか、と言うのです。「人はどこに住んでいようとも、私たちと同じ人間であり、私たちと同じように苦しみ、私たちと同じように親は子供の死に心を痛め、私たちの生命と健康が私たちにとって重要であるように、それは全ての人にとって重要なのです」と。
この耳の痛い指摘は、理屈では確かにそうでしょう。ただ、目の前で倒れている子供のために救急車を呼ぶのは、人間として当然のことでしょうが、よく知らない国の、会ったこともない子供のために、私たちは一々何かをしなければならないものでしょうか。
ここでシンガーは、私たちは常に、適切な支援団体を選んで寄付をすることができるはずだし、またすべきではないのか、と提起します。私たちは、新しい車を買ったり、旅行をしたり、水道の水も飲めるのにペットボトル入りの水を買ったりしています。そういう贅沢なものに費やすお金を、たとえばアゲンスト・マラリア基金に寄付すれば、子供たちの家にたくさんの蚊帳を届けることができ、蚊に刺されてマラリアで死ぬ子供を、確実に減らすことができるのです。
冒頭で痛ましい映像を見せられているだけに、良心にチクチクと呵責を引き起こす話ではありますが、しかしここまでの論旨は、従来からよくある「慈善事業への寄付の勧め」の一つにすぎません。
ただ、シンガーらの提唱する「効果的利他主義(effective altruism)」の真骨頂はここからで、彼らの主張によれば、このような寄付活動を行うにあたっては、そのお金をできるかぎり「効果的に」生かすことができるように、つとめて「理性的に」計算を行う必要がある、というのです。
以下の例は、ピーター・シンガーの著書『あなたが世界のためにできるたったひとつのこと』(NHK出版)に挙げられているものですが、たとえば、視覚障害者を支援するための方法として、盲導犬育成団体に寄付をする、という方法がありえます。盲導犬の普及率は、イギリスでは人口100万人あたりの盲導犬ユーザー数は79.2人に対して、アメリカでは35.5人、日本では7.9人です。そして日本では、盲導犬を必要としている人が、まだ3000人もいるというのです(「日本盲導犬協会」のページより)。
したがって、盲導犬普及活動に寄付をすることには、十分な社会的価値があるでしょう。しかし費用対効果で考えると、アメリカでは一人の人に盲導犬を提供するには、4万ドルの費用がかかるのに対して、世界における予防可能な失明の最大の原因であるトラコーマの治療ならば、一人あたり20ドルから100ドルでできるのです。すなわち、一人のための盲導犬の費用で、途上国の400人から2000人を失明から守ることができるわけで、このような場合に「効果的利他主義」の立場からは、盲導犬育成よりも、途上国におけるトラコーマ治療に寄付する方がより「効果的」であるとして、後者が推奨されることになります。
あるいは、どうせ貧しい人々を支援するために寄付をするならば、遠くの知らない異国の人々よりも、まずは自国の困窮者に向けるべきではないかと考える人もいるでしょう。しかし実際のところ、日本やアメリカのような先進国における貧困と、途上国のそれとでは、桁違いの差があるのです。同じ金額を寄付するならば、先進国よりも途上国に対して行う方が、はるかに多くの人々を助けることができるのであり、それこそが寄付を「効果的」にするのです。
つまり、効果的利他主義の活動においては、それを行う人の個人的な好みや、動機づけや、情緒的共感などはなるべく排除して、何よりも客観的な「効果」を上げることを、目標とするのです。そのための前提とされているのは、「全ての命は平等である」「苦しみは少ない方が良い」「同じ条件ならば寿命は長い方が良い」という、人間にとってたいていは共有可能な価値観であり、その際の方法論として重視されるのは、ある一つの行動が人々の幸福をどれだけ増進するかを測定するところの、「社会的影響の計量化」という手法です。
そして、その基盤においてこれらの運用を支えているのが、「最大多数の最大幸福が善である」という、「功利主義」の思想です。
このような効果的利他主義の立場から見ると、世間によくある下記のような寄付の仕方は、個人の感情に流された、不適切なものだということになります(『あなたが世界のためにできるたったひとつのこと』p.114)。
- 妻が乳癌で亡くなったので、乳癌研究に寄付している
- 昔から芸術家になりたかったが、その機会に恵まれなかったので、有望な芸術家に才能を育むチャンスを与えるような組織に寄付している
- 自然を写真に収めるのが私の喜びなので、美しい自然公園の保護活動に寄付している
- アメリカ人なので、アメリカの恵まれない人たちのために寄付をしている
- 犬好きなので、地元の動物シェルターに寄付している
いずれも、もっともな寄付の動機づけであり、こういった活動を続けている人は尊敬に値すると思いますが、効果的利他主義の立場から見ると、寄付先の選択が恣意的で、その資金を十分に生かせていない、ということになってしまうのです。
もちろん、このような「効果的利他主義」の考え方には、どうしても違和感を覚えるという方も、たくさんおられるでしょう。私自身も、そうです。
本来のチャリティ精神とは、その人固有の自然な共感や感情に根ざしたものであり、抽象的な理論や数字とは相容れないのでははないでしょうか? 何らかの活動に、自分の一部を捧げようという選択は、机上の理屈で操作すべきものではなく、人生における「一期一会」によって生まれるものではないのでしょうか?
もちろん効果的利他主義者も、上の箇条書きのような動機に基づいた寄付活動にも、「それなりの」意味があることは認めてくれるでしょう。ただしその場合、「あなたが他の目的にではなく、その活動に寄付を行った理由は何か?」と尋ねられた際に、あなたの答えを突きつめていけば、最終的には「自己満足のため」と言う以外にどんな説明ができるでしょうか。「本当に世界全体のことを考えていたのか?」と問われたら、何と答えたら良いでしょうか。
いずれにせよ、ピーター・シンガーによれば、今やアメリカのエリート層の間では、この「効果的利他主義」の思想は、一つのムーブメントにもなっているのだということです。たとえば、マイクロソフト創業者夫妻が設立した、有名な「ビル&メリンダ・ゲイツ財団」も、このような思想に基づき資金の「効果」を最大化するという方針で、運営されています。カリスマ投資家のウォーレン・バフェットなど、世界の他の大富豪たちもそうです。
またシンガーは、自らの教え子でプリンストン大学哲学科の最優秀論文を書き、オックスフォード大学の大学院にも合格した学生が、世界の貧困を救うために自分にできる最大のことを考えた結果、研究者を目ざすのでもなく、慈善団体を設立するのでもなく、ウォール街の金融企業に就職して、その高給の約半分の金額を毎年チャリティに寄付している、というエピソードを紹介しています。おそらく彼の進路選択も、個々の道に進んだ場合に自分が社会に貢献できる「効果」を、計量化し比較することによって、なされたものなのでしょう。
あなたが世界のためにできる たったひとつのこと 〈効果的な利他主義〉のすすめ ピーター・シンガー (著), 関 美和 (翻訳) NHK出版 (December 19, 2015) Amazonで詳しく見る |
※
さて、「効果的利他主義」というムーブメントが、愛などの個人的感情や情緒的な共感性を排除して、世界全体を平等に救うことを目ざしているのだとすれば、ここで私としてどうしても連想せざるをえないのは、《けつしてひとりをいのつてはいけない》(「青森挽歌」)という命題を掲げ、「じぶんとひとと万象といつしよに/至上福しにいたらうとする」(「小岩井農場」)という遠大な目標を目ざした、宮澤賢治です。賢治こそが、思想的な一面においては、効果的利他主義の先駆者の一人とも言えるのではないでしょうか。
ただ、賢治がそのような思想に至ったプロセスについて考えてみると、もともとの賢治自身は、効果的利他主義の立場からは排除すべきとされる、「他者への情緒的共感性」というものを、人一倍強く持っていた人でした。
たとえば堀尾青史『年譜 宮澤賢治伝』には、次のような子供時代のエピソードが記されています。
みんなで車屋の前の道路でバッタ(メンコ)をして遊んでいた時のことである。バッタバッタとメンコを叩いているうちに、その一枚がとびはねたのをあわてて追っかけた子がある。そこへ運わるく荷馬車がきた。のばした子どもの手をグザッとわだちがひいた。アッという悲鳴。血がボタボタ流れでる。賢治はむちゅうになってかけより、「いたかべ、いたかべ」といいながら、その傷ついた血と泥の指をむちゅうで吸っていた。
ここにもシンガーの講演の冒頭のように、車にひかれた子供が出てきますが、賢治はこのように目の前で苦しんでいる人を見かけると、その苦しみをまさに我が事のように引き受けて、身を投げ出してでも助けずにはいられないような性分の持ち主でした。「ヒデリノトキハナミダヲナガシ/サムサノナツハオロオロアルキ」(「〔雨ニモマケズ〕」)という一節も、思わずそうせずにはいられない、彼の天性を表していると思います。
しかしながら、そのような自然的感性の発露にただ留まっているのではなく、本当に「人のために生きる」とはどういうことかを、さらに突きつめて行かずにいられなかったのが、賢治の賢治たる所以でした。
先日取り上げた、高瀬露とかわした書簡の一つに、やはり有名な次の一節があります(書簡252a)。
私は一人一人について特別な愛といふやうなものは持ちませんし持ちたくもありません。さういふ愛を持つものは結局じぶんの子どもだけが大切といふあたり前のことになりますから。
尚全快の上。
本当は、自分の家族や親友や教え子に対して、賢治ほど深い愛を抱いていた人はいなかったのではないかと、私は思います。しかしそのような賢治をして、様々な個人的体験や宗教的模索の果てに、ついには「私は一人一人について特別な愛といふやうなものは持ちませんし持ちたくもありません」というような正反対の言葉を言わしめた理由は、やはり真の「利他」とは何かということを、彼自身が突きつめていった結果なのだろうと思います。
おそらく賢治の考えでは、「じぶんの子ども」や自分の周囲の大切な人々、あるいは自分が思い入れをしている対象が幸せになればよい、というのでは、たんに「利己主義」に毛が生えただけのものにすぎなかったのでしょう。その対象範囲は、「自己」の境界線を同心円状に少し拡大しただけだからです。
「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」と言うためには、文字どおり「世界全体の幸福」を一様に目ざすほかはなく、そのためには主観的にではなく客観的に冷徹に世界を見て、個別的な愛ではなく普遍的な愛こそを、動因としなければならなかったのです。
ここで、「効果的利他主義」を実践する際に、個人的な好みや情緒的共感に縛られた状態から脱却して、「宇宙的」な視点を獲得するための手がかりとなったのは、「功利主義」の思想と「社会的影響の計量化」という方法論でした。
一方、賢治の場合に、同様の個人的感情の束縛から抜け出す上で、何がその転換の足場になったのか考えてみると、それは仏教的な「輪廻転生観」だったのではないかと思います。
賢治は「青森挽歌」の思想の集約点というべき結末において、《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》と記しています。この世にある全ての生き物は、悠久の時間の中で生まれかわり死にかわりする中で、みんな一度は自分の「きやうだい」になったこともある存在なのだから、自分の妹トシと、その他の全ての生き物との間に、何も本質的な違いはないのだと考えたのです。
あるいは「〔手紙 四〕」では、これは次のように表現されています。
なぜならどんなこどもでも、また、はたけではたらいてゐるひとでも、汽車の中で苹果をたべてゐるひとでも、また歌ふ鳥や歌はない鳥、青や黒やのあらゆる魚、あらゆるけもの、あらゆる虫も、みんな、みんな、むかしからのおががひのきやうだいなのだから。
そしてこのような賢治の考えの源をさかのぼると、『歎異抄』第五条の親鸞の言葉に行き着くのではないかと、私は思っています。
一 親鸞は、父母の孝養のためとて、一返にても念佛まふしたることいまださふらはず。
そのゆへは、一切の有情は、みなもつて世々生々の父母・兄弟なり、いづれもいづれも、この順次生に、佛になりて、たすけさふらうべきなり。(角川ソフィア文庫『歎異抄』p.19)
その「利他主義」の視野を、地球規模、あるいは宇宙規模という「空間的な極大」まで拡大するための方法として、仏教では「輪廻転生」という教えを通して、いったん遙か過去から遠い未来に至る「時間的な極大」を経ることによって、普遍的な視座を獲得しているというわけです。
フランスの経済学者ジャック・アタリは、新型コロナウイルスのパンデミックを乗り越えるためのキーワードの一つとして、「利他主義」を挙げているということです。最近出た『「利他」とは何か』という本では、様々な論者が様々な角度からこの「利他」という考えについて論じていますが、ピーター・シンガーの「効果的利他主義」も、冒頭で紹介されています。そして若松英輔氏は、柳宗悦の「民藝」の考察において、賢治が鉱物にも「いのち」を感じていたらしいことを、記しています。
「利他」とは何か (集英社新書) 伊藤 亜紗 (著), 中島 岳志 (著), 若松 英輔 (著), 國分 功一郎 (著), 磯崎 憲一郎 (著) 集英社 (2021/3/17) Amazonで詳しく見る |
コメント