空間の彼方・時間の彼方

 今回も、空間と時間を対比して見るという点においては、先月の「異空間・異時間の認識」という記事と、共通するものがあるかもしれません。

 『春と修羅』や「春と修羅 第二集」の時期の口語詩(心象スケッチ)において、賢治は基本的に「空間の彼方」を見ようとしていたように思います。

 たとえば『春と修羅』の最初の「屈折率」で彼は、はるか前方の森や雲を望み、空間の歪み?も感じとっています。

  屈折率

七つ森のこつちのひとつが
水の中よりもつと明るく
そしてたいへん巨きいのに
わたくしはでこぼこ凍つたみちをふみ
このでこぼこの雪をふみ
向ふの縮れた亜鉛あえんの雲へ
陰気な郵便脚夫きやくふのやうに
   (またアラツディン、洋燈ラムプとり)
急がなければならないのか

 また他のいくつかの作品において、賢治はこの空間とは別の「異空間」の事物も見ています。下記は「小岩井農場」パート四から。

すきとほるものが一列わたくしのあとからくる
ひかり かすれ またうたふやうに小さな胸を張り
またほのぼのとかゞやいてわらふ
みんなすあしのこどもらだ
ちらちら瓔珞やうらくもゆれてゐるし
めいめい遠くのうたのひとくさりづつ
緑金ろくきん寂静じやくじやうのほのほをたもち
これらはあるひは天の鼓手こしゆ緊那羅きんならのこどもら

 樺太における「オホーツク挽歌」では、亡くなった妹のいる死後の空間さえも、透視しようとしています。

わびしい草穂やひかりのもや
緑青ろくせうは水平線までうららかに延び
雲の累帯構造のつぎ目から
一きれのぞく天の青
強くもわたくしの胸は刺されてゐる
それらの二つの青いいろは
どちらもとし子のもつてゐた特性だ
わたくしが樺太のひとのない海岸を
ひとり歩いたり疲れて睡つたりしてゐるとき
とし子はあの青いところのはてにゐて
なにをしてゐるのかわからない

 「春と修羅 第二集」の「薤露青」では、南十字やマジェラン星雲など、宇宙の彼方まで視界に収めようとしています。

みをつくしの列をなつかしくうかべ
薤露青の聖らかな空明のなかを
たえずさびしく湧き鳴りながら
よもすがら南十字へながれる水よ
岸のまっくろなくるみばやしのなかでは
いま膨大なわかちがたい夜の呼吸から
銀の分子が析出される
 ……みをつくしの影はうつくしく水にうつり
   プリオシンコーストに反射して崩れてくる波は
   ときどきかすかな燐光をなげる……
橋板や空がいきなりいままた明るくなるのは
この旱天のどこからかくるいなびかりらしい
水よわたくしの胸いっぱいの
やり場所のないかなしさを
はるかなマヂェランの星雲へとゞけてくれ
そこには赤いいさり火がゆらぎ
蝎がうす雲の上を這ふ

 しかし、このような彼の創作方法にも、限界が訪れます。野山を自由に駆けまわり、鉄道でどこへでも行けた頃の賢治は、これほどに広大な空間の向こうまで展望することができましたが、病気のために外出もできなくなった晩年になると、彼に与えられた空間は、自らの病室だけに限定されてしまったのです。
 するとその境遇の中で彼は、外的な空間を見るかわりに、自分の心の内界に目を向け、それまでの人生において自らが経験した事柄を、丹念に回想していきます。その作業のために、自分の人生の出来事を時系列に沿って書き出した「整理帳」のようなもの(「「文語詩篇」ノート」や「「東京」ノート」の一部)も、作成していました。

 すなわち賢治は、「過去」という「時間の彼方」を、もっぱら見るようになったのです。

 たとえば『文語詩稿 五十篇』の最初の「〔いたつきてゆめみなやみし〕」では、ある冬に街路を通り過ぎていった朝鮮飴売りに、思いを馳せています。

いたつきてゆめみなやみし、  (冬なりき)誰ともしらず、
そのかみの高麗の軍楽、    うち鼓して過ぎれるありき。

その線の工事了りて、     あるものはみちにさらばひ、
あるものは火をはなつてふ、  かくてまた冬はきたりぬ。

 『文語詩稿 一百篇』の最初の「」では、母と子が野を歩いている様子が描かれています。

雪袴黒くうがちし     うなゐの子瓜みくれば
風澄めるよもの山はに   うづまくや秋のしらくも

その身こそ瓜も欲りせん  齢弱としわかき母にしあれば
手すさびに紅き萱穂を   つみつどへ野をよぎるなれ

 「「文語詩篇」ノート」の記載を見ると、これは賢治が高等農林学校生だった1917年(大正6年)に、目にした情景だったようです。

 また、「〔うからもて台地の雪に〕」では、「時間の彼方」はさらに遠くへ及び、彼個人の記憶の範囲を越えて、有史以前に北上の河岸段丘に定住した、遠い祖先の様子までも射程に入れています。

うからもて台地の雪に、  部落(シユク)なせるその杜黝し。
曙人(とほつおや)()りくる児らを、 穹窿ぞ光りて覆ふ。

 つまり、非常に大ざっぱに対比するならば、賢治は、若い頃の口語詩では、空間の彼方の事物を描いたのに対し、晩年の文語詩では、時間の彼方の事物を描いたと、言えるかもしれません。

 一方、それぞれの時期に空間や時間の彼方の事物において、賢治が結局のところ「何を」書きとめようとしていたのか考えてみると、口語詩においてはこの世界の「神秘」や「美」を写そうとしたのに対して、文語詩では「人間」を描こうとしていたように思います。

 中村稔氏は『宮沢賢治論』において、「『春と修羅』の絶唱というべき少数の作品を除く多くの詩のもつ欠点は、人間不在と私は考えている」(p.55)と述べています。私はこれを彼の詩の「欠点」だとは思わないものの、たしかに『春と修羅』や「第二集」においては、ごく一部の例外を除き、具体的で血の通った人間がほとんど不在であるというのは、中村氏の指摘のとおりだと思います。「春と修羅」の、「けらをまとひおれを見るその農夫/ほんたうにおれが見えるのか」という一節を読むと、作者の方にも「ほんたうに」その農夫の実体が見えていたのだろうか、という思いがよぎります。

 しかし、晩年の文語詩に至って賢治は、さまざまな「人間」の姿を、その象徴的・決定的な瞬間において、ありありと描き出しています。
 そして、彼のこの凝縮された描写の底流にあるのは、「人間というものに対する普遍的な愛」なのではないかと、私は思います。記憶の中の朝鮮飴売りにも、お腹を空かせていただろう若い母と子にも、そして遠く縄文の祖先の血を受ける台地の子供たちにも、賢治は狭い病床から、渾身の愛を注いでいるのだと思います。

 思えば、ある時期以降の賢治は、誰か「ひとり」の人を思う「個別的な愛」を抑圧・超克して、すべての人とともに行く「普遍的な愛」に生きることを、自らに課していました。「小岩井農場」で提示した、「じぶんとひとと万象といつしよに/至上福しにいたらうとする」という道です。
 しかし、後に病臥するようになってからは、そういった菩薩行のような行動的・献身的な生き方は、もはや彼には許されなくなってしまいました。

 それでも晩年の文語詩にあふれている、全ての人々に対する深く暖かい慈しみは、静的で観照的なものではありますが、実はこれこそが賢治の目ざしていた「普遍的愛」の、一つの昇華された形だったのかとも思います。

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旧天王山の北東側には、久田野遺跡など縄文時代の遺跡群が点在する