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「雨ニモマケズ」をどう読むか

 先日、中村稔さんが『宮沢賢治論』を刊行されました。

宮沢賢治論
中村稔

青土社 (2020/4/24)

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 中村稔さんと言えば、1955年に詩誌『現代詩』に発表した「「雨ニモマケズ」について」という論考において、賢治の「〔雨ニモマケズ〕」のことを「宮沢賢治のあらゆる著作の中でもっとも、とるにたらぬ作品のひとつであろうと思われる」「この作品は賢治がふと書きおとした過失のように思われる」と述べて、議論を巻き起こしました。
 哲学者の谷川徹三氏は、従来から「この詩を私は、明治以来の日本人の作った凡ゆる詩の中で、最高の詩であると思っています」として、とりわけ高く評価していましたから、1961年に「われはこれ塔建つるもの」を『世界』に発表して中村論文の批判を行ない、するとこれを受けて中村氏は、1963年に「再び「雨ニモマケズ」について」という反論を『文藝』に掲載する、という形でやり取りがなされ、世間ではこれを「「雨ニモマケズ」論争」とも呼んで、当時はかなりの注目を集めたということです。

 私などは、もちろんこの論争をリアルタイムで知ることはできませんでしたが、その一方の当事者であった中村稔さんは、後述のように私にとってはある種の「レジェンド」とも言える存在でした。
 その中村さんが、93歳になって今回刊行された『宮沢賢治論』の帯には、「宮沢賢治研究の第一人者が/従来の自説を全否定し、/「雨ニモマケズ」をはじめ/詩・童話を虚心に精読し、/あらたな解釋と評価を詳述した/画期的な論考」「私たちは/「雨ニモマケズ」を/決定的に誤って/読んできたの/ではないか」とありますから、これは何としても、読んでみないわけにはいきません。

 ここでいったん「「雨ニモマケズ」論争」に話を戻すと、論争を展開したお二人の論文は、それぞれ中村稔『宮沢賢治』(芳賀書店、のち筑摩書房)および谷川徹三『宮沢賢治の世界』(法政大学出版局)に収録されていましたので、同時代に体験することはできなかった私も、議論の何十年も後になってからではありますが、各々の主張を興味深く読んだものです。
 中村氏の主張は、「〔雨ニモマケズ〕」が対偶法などの紋切型の修辞にあふれているという形式上の問題に加えて、そこに描かれている彼の「理想像」は、「サムサノナツハオロオロアルキ/ヒデリノトキハナミダヲナガシ」あるいは「ホメラレモセズ/クニモサレズ」というあまりに弱々しい姿であり、これは「羅須地人協会からの全面退却であり、「農民芸術概論」の理想主義の完全な敗北である」として、否定的な評価を下すものでした。
 これに対して谷川徹三氏は、形式上の問題は「その古風な修辞法の中にこの詩の今日における新しさがあるのであり、近代個人主義文学におけるような発想と措辞を斥けたところに、この詩の精神の高さがある」と逆に高く評価するとともに、その内容も一見すると弱々しいようでも、「この詩が多くの否定を経た後の肯定として、その単純素朴な言葉の中に複雑な思念を蔵しているように、その謙虚な願いと祈りの中に、この詩は強い使命感による自信をひそめているのであります」と、力強く肯定するのでした。
 ただ、中村氏は上のように否定的なことを言いながらも、「だがそれにしても、この作品がある異常な感動をさそうものをもっていることは否定できない」と書いて、この賢治の詩が何か抗しがたい魅力を秘めていることも、率直に認めているのが印象的でした。

 ところで中村稔氏はその後、1994年に『宮沢賢治ふたたび』(思潮社)を刊行し、ここで40年前の自身の見解を、大きく転換します。この本に収められている「あらためて「雨ニモマケズ」について」という文章(講演の原稿)で、中村氏は「いまから申しますことは、私が二十歳代の終わりころに考えたことが、どれほどあさはかであったか、ということを告白するようなことになるはずです」と語りはじめるのです。
 とは言え中村氏は、すぐ次の行で「そうはいっても、私が当時考えたことがまるで見当違いだったとは考えていません」とも述べるのですが、きわめて冷静な態度で「〔雨ニモマケズ〕」のテキストを丹念に読み進めながら、たとえば7行目の「イツモシヅカニワラッテヰル」について、次のように評します。

この「イツモシヅカニワラッテヰル」というのは、じつに卓抜だと思います。こういう詩句の卓抜さというのは私が若いときには見逃していたことなのですが、作者の描写力の的確さと独創性には驚嘆するばかりです。ここで描かれている心の在り方は、たとえば、『春と修羅』で、

いかりのにがさまた青さ
四月の気層のひかりの底を
唾し はぎしりゆききする
おれはひとりの修羅なのだ

とうたったのとはまったく対局に位置しています。
〔中略:この間に「修羅」や「瞋恚」について説明〕
「雨ニモマケズ」に戻れば、「決シテ瞋ラズ/イツモシヅカニワラッテヰル」という句は、こうした抑えきれない瞋恚の裏返しなのです。「イツモシヅカニワラッテヰル」」の句が的確で独創的だと申しましたが、これは外貌をいっているのではありません。心の平静な状態が自ずから表情にあらわれているのです。飛鳥、白鳳期の仏像にみられるような、たとえば、私は太秦広隆寺の弥勒菩薩、有名な半跏思惟像を思い出すのですが、ああいう仏の慈悲が自ずから微笑みとなって浮かび上がる、そういう笑いを賢治は描いている、そういう意味でこれは心の状態を語っているのであり、心の状態を語るのに「イツモシヅカニワラッテヰル」と表現するのがじつに卓抜だと私は考えるのです。

 また、「南ニ死ニサウナ人アレバ/行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ」については、次のように述べています。

いま私が驚くのは、「死ニサウナ人アレバ/行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ」という句です。ごく病状の重い、到底回復の見込みのない患者を見舞って、何と声をかけたものか、私たち凡人はいつも悩みます。じきによくなりますよ、とか、辛くても、いまが底なのですからこれから上向きますよ、というようなことを言って、それでも慰めようとします。多くの病人は気休めと知りながらも、それでも藁にすがるような思いで見舞いの言葉に励まされる、といったことは私たちがしばしば経験することです。しかし、ここでは、そんな気休めは言いません。死ぬことはちっとも怖いことではないのだ、と言うのです。これはいわば仏教の信仰からみれば、そうなのでしょうが、なまじの仏教徒が口にだせる言葉だとは思われません。こういう言葉は仏が臨終の病人の枕許で教え諭す言葉だとしか思われないのです。ここで作者は仏の言葉を語っているのです。

 次の「ケンクヮヤソショウガアレバ/ツマラナイカラヤメロトイヒ」については、詩人であるとともに弁護士でもある中村稔氏の立場から、自分は若い頃はこうした思想が嫌いだったと述べ、やはり社会において訴訟も喧嘩も必要だとしながらも、次のように評します。

いま、これを読み返してみると、どうも人は人を審判すべきではない、いずれにしても、人間の生涯の賞罰は来世できまるのだ、と賢治が考えていたのではないか、と思うのです。つまり、ここでも彼は仏の言葉を語っているのだ、と私は考えるのです。

 そして、中村氏は次の行に読み進めます。

ヒデリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ

この「オロオロアルキ」は感動的だと、若いころから考えていました。ただ、その当時は、羅須地人協会の献身的な活動にもかかわらず、結局、賢治のやった仕事は冷害にも旱害にも無力だった、何のことはない、涙をながし、おろおろ歩いたほどのことにすぎなかったのではないか。そういう彼の嘆きや悔いがこういう詩句の背後から聞こえてくるように感じたのです。いま、これを読み返してみると、やはり、涙をながし、おろおろ歩くことをもって、事足りるとしたわけではあるまい、と思います。「雨ニモマケズ」で語っている人間像はもっと行動的なのです。病人に対しても、援助を必要とする人々に対しても、紛争を聞きつけても、その度に、東奔西走する人間なのです。だから、そう思ってこの二行を読むと、結果としてたんに涙をながし、おろおろ歩いたことにしかならないにしても、精一杯冷害や旱害に立ち向かって働く、そうした人格なのだろう、といまの私は思うのです。

 思わずたくさんの引用をしてしまいましたが、このように『宮沢賢治ふたたび』において中村稔さんは、非常に理知的に賢治のテキストを分析しつつ、同時に賢治が生涯をかけて抱いていた思いを熱く受けとめ、ご自身の40年前の考えが間違っていたと思う部分は潔く改めるというスタンスで、私は非常に感銘を受け、これはその後の私の「〔雨ニモマケズ〕」の読み方を、大きく導いてくれることにもなりました。

 後にご紹介する私自身の文章にも書いているように、私は子供の頃から賢治は大好きだったのに、実は「〔雨ニモマケズ〕」のことはさほど好きというわけではありませんでした。そんな私が、この作品に込められた賢治の思想の深い意味について、自分なりに考えてみるようになったのは、中村稔氏の「あらためて「雨ニモマケズ」について」という文章を読んだおかげであり、結果的に中村さんは私にとって、恩師のような人ともなりました。

◇          ◇

 そこに、今回の『宮沢賢治論』の刊行です。本を注文すると、期待に胸を膨らませて、到着を待ちました。
 その内容を一読して、中村氏が従来の既成観念や定説にとらわれず、賢治のテキストと真摯に虚心坦懐に向き合う姿は、1955年の問題提起からそうですし、1994年の『宮沢賢治ふたたび』でも、そして今回の本でも、一貫して変わるところはなく、93歳というお歳で本当に凄いことだと感じました。
 ところで、この本の「あとがき」で中村氏は、「二〇一九年夏、ふとした機会に「雨ニモマケズ」を読みかえし、これまで私が「雨ニモマケズ」を決定的に読み違えていたことに気づいた」と述べておられます。この本自体の執筆の動機ともなった、その「読み違え」とはどういうことなのかと言うと、それは本書の冒頭で次のように説明されています。

 冒頭の一行を採って「雨ニモマケズ」として知られる作品は、最終の五行、

ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ

に描かれた人間像に冒頭の「雨ニモマケズ」から始まる全行が収斂される作品と解すべきか。私はそうは解さない。この作品は、自分はこうでありたい、こういうこともしたい、といった夢想に似た願望を思いつくまま次々に書きつらねて成った作品であると私は考える。

 つまり、一般的な「〔雨ニモマケズ〕」の解釈では、作品全体がまとまって最後の「サウイフモノニ/ワタシハナリタイ」に係っていると考えるのに対し、今回の中村氏は、「全行が収斂される」のではなく、これは「願望を思いつくまま次々に書きつらねて成った」のだ、と言うのです。
 これだけでは、いったい何が違うのか、まだわかりにくいかもしれませんが、私なりに解釈すると、次のようなことかと思います。

 この作品において、「Aであり、Bであり、Cをして、Dをされて…」と列挙されている人間の性質や行動には、首尾一貫した内的整合性はなく、かなり矛盾し合っているため、「A+B+C+D+…」というように全てを収斂させて、一つのまとまった人間像を構成するのは困難である。つまり、このA、B、C、D…を、一人の人間像の上にどんどん重ねていって理解しようとするのは間違いで、これは作者が思いつくままバラバラに書きつらねられたその時その時の願望として、個別に受けとめるべきである。
 と、いうようなことではないでしょうか。

 「〔雨ニモマケズ〕」に書かれている属性に、けっこう矛盾するところがあるのは事実で、たとえば理屈の上では、「ヨクミキキシワカリ/ソシテワスレズ」というほどの知的能力があれば、「ミンナニデクノボートヨバレ」ることはあまりなさそうですし、東奔西走し困っている人を献身的に助けておれば、「ホメラレモセズ」というわけにもいかないでしょう。中村氏は、「慾ハナク/決シテ瞋ラズ/イツモシヅカニワラッテヰル」ような「高潔な人格は敬慕の対象となっても、デクノボーとは程遠いというべきである」と指摘し、また「南ニ死ニサウナ人アレバ/行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ」というのも「デクノボーの口にする言葉ではない」、「北ニケンクヮヤソショウガアレバ/ツマラナイカラヤメロトイヒ」も「デクノボーの口出しするようなことではない」と断じます。

 ただしかし、だからと言って中村氏が言うように、ここに描かれている様々な局面を、一人の人間像に統合せずに、思いつくままバラバラの願望として受けとめるにとどめてしまうと、それはあまりに浅薄な「読み」に陥ってしまうように、私には思えます。人間というのは、往々にして様々な矛盾を抱えていて、全てが整合して生きているわけではありませんし、社会からその人への評価というのは、なおさら一貫性に欠ける場合が多いものです。
 賢治自身も、羅須地人協会で無償で肥料設計をしたり若者に高度な教育を行ったにもかかわらず、「金持ちの息子の道楽」と陰口を叩かれたということで、これは理屈に合いません。賢治としては、「〔雨ニモマケズ〕」に書かれている内容がたとえ矛盾をはらんでいたとしても、それでもその全体を収斂させたような人間になりたいと、具体的には、人としての中身や行動は立派だけれども、他人からは「デクノボー」と呼ばれるようでありたいと、本当に心から思っていたのではないかと、私としては思います。

 というようなわけで、中村氏の今回の著書における「雨ニモマケズ」の評価は、1955年の「「雨ニモマケズ」について」における否定的評価を、1994年の「あらためて「雨ニモマケズ」について」で肯定的に転換した経過の流れにおいて考えると、もう一度反転して、1955年の否定的評価に回帰したと言うべきものです。それは、1955年の文章の字句をかなり引き継いだ、次の箇所にもよく表れていると思います。

 干害のときにはたんに涙をながすだけ、冷害のときはたんにおろおろ歩くだけの、まるで自主性を持たないデクノボーのような存在であれば、褒められもしないにしても、責められもしないこととなる。宮沢賢治が「雨ニモマケズ」の最後に記した願望は自主性をもたない凡庸な農民となることであった。これは羅須地人協会の理想主義からの後退であり、理想主義破綻の自覚である。

 「〔雨ニモマケズ〕」の全文の中でも、「南ニ死ニサウナ人アレバ/行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ」という箇所は、後に述べるように私が現在最も注目をしているところなのですが、中村氏はこの部分について、次のように述べておられます。

 「南ニ死ニサウナ人アレバ/行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ」に私は大いに反発を感じる。人誰しも死は怖い。宮沢賢治のような篤い法華経の信者であれば、あるいは死も極楽往生ときまっていて怖くはないかもしれない。しかし、死は怖い。人間でなくても豚でも怖い。そのことを宮沢賢治は「フランドン農学校の豚」でいきいきと現実感をもって描いている。
〔中略:この後、「フランドン農学校の豚」の紹介〕
死は怖い、ということをこれほどに迫真力をもって描いた作品は彼の他の作品にも類をみない。臨終を間近にした者が死を怖がることを作者は充分に承知していた。

南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ

は作者がその作品に表現した認識を裏切っている。これは死は怖しいと知っているからこそ、「コワガラナクテモイゝ」と告げてやりたいという思いやりの願望であったかもしれない。あるいは、気休めにすぎなくても、せめて怖がらなくてもいい、と言ってやりたいという気持だったのかもしれない。しかし、死を迎えようという人間に向って、怖がらなくてもいい、と言うことは、余計なお世話だ、と周囲の人々に思われるだろう。いずれにせよ、デクノボーの口にする言葉ではない。

 中村氏によるこの箇所の解釈は、これまで氏の『宮沢賢治ふたたび』の分析を拠り所にして、「〔雨ニモマケズ〕」を自分なりに読み解こうとしてきた私にとっては、正直に申し上げると非常に残念な感じがしました。
 そこでこれまで、中村氏を勝手に恩師の一人と思ってきた者として、そのご恩へのお返しなどと言うのはあまりに僭越でおこがましいことではありますが、現時点で私自身が「〔雨ニモマケズ〕」に関して、そしてとりわけ「コハガラナクテモイヽトイヒ」という部分について、ここに思うところを掲載させていただこうと思います。

◇          ◇

 下記の文章は、私が昨年に保健医療関係者向けのある雑誌に、「いのちに向き合う~宮沢賢治の作品を通して~」と題して連載のコラムを書かせていただいた中の、第1回と第2回です。宮沢賢治と言えばまず誰でも知っている作品ということで、初めのこの2回で「〔雨ニモマケズ〕」を取り上げることにし、保健医療関係の雑誌ということで、とくに「いのち」ということに引きつけて論じたものです。
 まず第1回は、作品の全体的なお話ですが、私はこのようなことを、9年前の東日本大震災の後に考えるようになりました。


いのちに向き合う~宮沢賢治の作品を通して~

第1回 「雨ニモマケズ」の二つの側面

 私は精神科の医師として、普段は診療所で仕事をしているのですが、子供の頃から宮沢賢治が好きだったもので、今も賢治の作品を読みながら、いろいろなことを考えます。宮沢賢治が生きたのは、一世紀も昔の日本ですが、彼が見据えていた問題は、現代の私たちにもいろいろな示唆を与えてくれると思うのです。これから何回かにわたって、私の仕事とも関わる「いのち」という観点から、賢治のいくつかの作品を読んでみたいと思います。

 まず第一回に取り上げるのは、誰もがご存じの「雨ニモマケズ」です。皆さんはこの作品について、どんなイメージをお持ちでしょうか。
 文中で描かれる人物は、雨にも風にも負けぬ「丈夫ナカラダヲモチ」、また「慾ハナク決シテイカラズ」の謙虚さと、「ヨクミキキシワカリ/ソシテワスレズ」という賢さも備えた、まさに健康優良児の優等生です。さらに彼は東へ西へ、足取りも軽く人助けに奔走し、その献身的な活動は、まるで道徳のお手本です。
 作品の中程には、「行ッテ」という言葉が続けて三回現れますが、ここには「行動」というものを重んじた、賢治の精神が象徴されていると言われます。他人のためにできることは躊躇せず何でもやろうという、積極的な実践主義です。

 ただこれは、とても立派な行いだとは思うのですが、読んでいて少し疲れないでしょうか。普通の人は、これほど頑健でも優秀でもありませんし、自分の好きなこともしたいでしょう。ここには美しくファンタジックな賢治ワールドはないし、何か堅苦しいし、賢治ファンの中にも、この「雨ニモマケズ」は苦手だという人は、実は結構おられます。
 私も子供の頃にはそうしたイメージから、この作品はやや敬遠していたのですが、しかしある時から、これはそんな一面的なものではなくて、案外奥がありそうだと思うようになりました。

 確かにこの作品前半の人物は、超模範的優等生なのですが、後半になると様子が変わってきます。「南ニ死ニサウナ人アレバ/行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ」とありますが、重い病人の家に突然男が現れ、患者に「死ぬのは怖くないよ」と言ったら、家族はどう感じるでしょう。「縁起でもないことを言うな」と怒りたくならないでしょうか。
 次の「ケンクヮヤソショウガアレバ/ツマラナイカラヤメロトイヒ」でも、まあ喧嘩を止めるのはよいとしても、訴訟という手段を奪われた弱者は、既得権を持った強者に対抗できません。
 さらに、日照りの時にいくら「ナミダヲナガシ」ても、また冷害の夏に「オロオロ」歩いても、不作に苦しむ農家にとって、何の足しにもなりません。この人は、なぜかこんな役立たずばかりしているので、「ミンナニデクノボートヨバレ」るのです。

 しかし、ここでよく考えてみると、彼が役立たずなのは、何も賢治のせいではありません。人がいつか死ぬのも、当時はまだ干害や冷害を防げなかったのも、いくら努力しても及ばないことです。人間の能力には、常に限界があるのです。
 つまり、実は「雨ニモマケズ」は二つの部分から成っていて、前半では、「人間ができること」に対して積極的に行動し解決しようとする有能な人間像が描かれ、後半では、「人間にできないこと」、人間の無能性にどう臨むのかという問題への、彼なりの態度が示されているのです。

 その態度とは、一言でいうなら「共苦」ということだと、私は思います。

 賢治には「イギリス海岸」という短篇があり、教師をしていた頃の彼が、生徒と一緒に北上川で遊ぶ情景が描かれているのですが、実は賢治は泳げなかったのです。すると、もし生徒が溺れたらどうするのかが問題ですが、彼は何と、「こっちはとても助けることもできないし、たゞ飛び込んで行って一緒に溺れてやらう、死ぬことの向ふ側まで一緒について行ってやらうと思ってゐた」と書いているのです。
 これでは生徒も保護者もたまりませんが、これが自らの無能さへの彼なりの対処であり、「いのち」との向き合い方でした。彼は苦しむ人を見ると、とにかく自分も共にその苦しみを分かち合わずにいられなかったのです。「ヒデリノトキハナミダヲナガシ/サムサノナツハオロオロアルキ」という行動が、相手の役に立つか否か以前に、とにかく「共苦」してしまう人だったのです。

 賢治のこういう性向は、仏教の信仰とも表裏一体でしたが、彼と同時代のニーバーというアメリカの神学者が、次のような祈りを残しています。「神よ、変えられるものについては、それを変える勇気を与え給え。変えられないものについては、それを受け容れる平静を与え給え。そして、その二つを識別できる智恵を与え給え。」

 賢治が「雨ニモマケズ」で見据えていた課題も、これと同型だったのだと思います。そして、ではそれを前提に「死ニサウナ人」に対してはどう関わるかという、ターミナル・ケアの問題について、次回は考えてみたいと思います。


 ということで、次の第2回では「ターミナルケア」について考えるのですが、これはどういうものかと言うと、たとえばもう治療のほどこしようがない末期癌など、間近の死が避けられない状態(終末期=ターミナル)の人々に対し、医療としてケアを行おうとする分野です。
 そもそも医療というのは、「病気を治す」ことをその使命として生まれ、とにかく「治す」ことを追求して今日まで発展してきたわけですが、終末期のように「治しようがない」状態の患者さんに対しては、いったいどう関わったらいいのか、ごく最近まで、具体的な方法論を持っていなかったのです。
 どうしていいかわからないものですから、ある意味で医療者も、「死」というものから目を逸らそうとしてきたとも言えます。癌の患者さんが、もしも自分の病名を知って、死の恐怖に怯え苦しみはじめたら、どう関わったらよいのかわからないので、知らない方が患者さんのためだということにして、「病名告知」はなるべく避け、医者や看護師は後ろめたい思いをしながらも、「気休め」のようなことを患者さんに言いつづけていたのです。
 それでも、患者さんの多くは自分がもう治らないのではないかと薄々察し、しかしそれを誰に言えずに一人で苦しんだり、あるいは思わず感情的になって周囲の人にぶつけてしまったりしていたのです。

 そのような状況の中で、イギリスの看護師でありソーシャルワーカーであり、後に医師ともなったシシリー・ソンダースは、1940年代の後半から特に終末期の患者のケアに積極的に取り組むようになりました。彼女の実践活動は、次第に多くの関係者の支持を集め、ついに1967年には終末期の人々のケアに特化した、世界で初めての「ホスピス」を設立するに至ったのです。
 そして、終末期の苦痛を緩和するためにそれまでの常識を破って積極的に鎮痛剤のモルヒネを使用する方法や、死に臨む心のケアなど、ソンダースが行った活動は世界中に広がり、今や「ホスピス」はどこの国でも当たり前の、大切な施設になったのです。


いのちに向き合う~宮沢賢治の作品を通して~

第2回 「雨ニモマケズ」とターミナルケア

 前回は、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」で描かれている人間像には、二つの側面があるというお話をしました。詩の前半には、「人間ができること」には進んで挑戦し行動する姿が、後半には、「人間にできないこと」を粛然と受けとめ、皆と共に苦悩する姿が、記されています。
 一般に、前者はその活動と結果が見えやすく、人からも評価されやすいのですが、後者はいったい何をやっているのか、役に立っているのかどうかもわかりにくいので、賢治は「ミンナニデクノノボートヨバレ」などと書いています。
 医療者にとっても、「病気を治す」などの前者の側面は、脚光を浴び士気も上がるのに対し、後者の典型であるターミナルケアは、何が正解なのか見えにくく、特有の難しさがあります。ケアの現場でよく言われる言葉に、doing と being というものがありますが、これがちょうど「雨ニモマケズ」の前半と後半に対応しています。後半で描かれるのが、ひたすら being=「ただそこに一緒に居ること」に徹する人間像なのです。

 さて、その「雨ニモマケズ」の後半には、「南ニ死ニサウナ人アレバ/行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ」という一節があり、これこそまさにターミナルケアです。ここでまず私としては、賢治が死にゆく人のところへ、わざわざ「行ッテ」直接関わろうとする様子を描いていることに、心を打たれます。
 当時はまだ、世界のどこにもターミナルケアという概念などありませんでしたが、仏教では昔から「臨終行儀」と言って、死に臨む際の信心の仕方などが定められていました。最近になって、これを「日本古来のターミナルケア」として再評価する動きもありますが、賢治はすでに昭和の初めに、そういうことを考えていたわけです。

 そして「雨ニモマケズ」の人は、死にそうな人のところへ行って何をするかというと、「怖がらなくてもいい」と言うのです。
 普通は、死を前に恐怖に怯える人に向かって、元気な人が「怖がらないで」と言ったとしても、何の説得力もないでしょう。「他人事だと思って気楽なもんだ」という感じです。しかし賢治がこんなことを言えるのは、一つには彼が仏教を深く信仰していて、あなたも私も今回の「生」が終わったら、また皆と一緒に壮大な輪廻転生の旅を続けていくのだと、心から信じていたからでしょう。それにまた、前回も見たように賢治という人は、何なら私があなたとご一緒に「死ぬことの向ふ側まで」お供しますよと、本気で言えてしまうような人だったからです。
 ですから、この「怖がらなくてもいい」という言葉は、なかなか我々一般人には言えません。ただ、ここで何より注目すべきは、賢治が「死の恐怖」を率直に話題にしているところです。

 世界最初のホスピスを創設したシシリー・ソンダースは、ターミナルケアの本質の一つとして、「患者と二人だけで話すこと、そして患者が死の恐怖を表出できるように援助すること」を挙げています。「死の恐怖」は、死にゆく人にとって最も切実でありながら、最も話しにくい事柄です。そんなことを言うのは、自分の弱さの露呈であり恥ずかしいことだと思うかもしれませんし、それを言っても周囲の人はどうにもできず困らせるだけなので、あえて言わないという人もいるでしょう。
 ところが「雨ニモマケズ」において、「怖がらなくてもいい」という言葉がかけられているということは、その前に相手から、「私は死ぬのが怖い」という表出があったからに違いありません。こういう言いにくいことも言い合える「関係」こそが、ケアにおいて本質的なものであり、それを賢治は描いているのです。

 それでは実際に、死にゆく人から「私は死ぬのが怖い」と言われたら、我々はどうしたらいいのでしょうか。
 その人の死の恐怖自体は、生き残る我々には、手が届かないかもしれません。しかしここがまさに、doing ではなく being の出番です。その恐怖を外から取り除くことはできなくても、共に受けとめ、その人の思いを一緒に感じつつ、最期までそばに居つづけることは、できるはずです。それでも自分にどこまで共感できているのか、相手の役に立っているのか、心もとなさで一杯でしょうが、「共に悩む」ことはできます。力及ばぬ自分が情けないかもしれませんが、宮沢賢治でさえ、「ヒデリノトキハナミダヲナガシ/サムサノナツハオロオロアルキ」しかできなかったのです。
 いやそもそも、人為的に「死の恐怖の除去=死の受容」ができるという発想自体が、不遜なのでしょう。誰でも死は受け容れがたくて当然で、その気持ちを素直に言える関係こそが、貴重なのです。

 賢治も闘病中に、死を超越したような作品を書く一方で、「あたらしい血が湧くたび/なほほのじろくわたくしはおびえる」という、切実な恐怖も記していました。どちらも賢治らしくて尊いと、私は思います。