以前に私は「《願以此功徳 普及於一切》」という記事で、賢治が「青森挽歌 三」の初期形に記し、後に削除した《願以此功徳 普及於一切》という言葉が、最終形の「青森挽歌」における《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》という重要な啓示への導きになったのではないかと、考えてみました。
その記事にも書いたように、「願以此功徳 普及於一切」とは、『法華経』の「化城喩品第七」に出てくる「偈」の一節で、これに「我等與衆生 皆共成佛道」という言葉が続き、あわせて「願わくはこの功徳をもって、普く一切に及ぼし、我等と衆生と皆ともに仏道を成ぜん」と読み下します。善根を修することによってその人に備わる徳性(=功徳)を、その人だけのものとせず、広く一切の衆生に振り向けて、皆で一緒に成仏しようということで、これがまさに大乗仏教で言う「回向」という概念の意味するところです。
一方、現実にはこの「願以此功徳 普及於一切」という言葉は、その「法華経」由来にもかかわらず、特に法華経を重んじる宗旨だけでなく、日本ではほとんどの仏教宗派において、死者の「法要」の最後に唱えられる「回向文」として用いられています。
下の動画は、真言宗の在家用仏前勤行次第だということですが、クリックしていただければ、「願わくはこの功徳をもって、普く一切に及ぼし、我等と衆生と皆ともに仏道を成ぜん」との言葉を聞くことができます。
ということで、「青森挽歌 三」の中に、なぜ唐突に「願以此功徳 普及於一切」という言葉が登場するのかという疑問に対する答えとしては、賢治が青森に向かうこの夜行列車の中で、ずっとトシの死後の行方について思い巡らし、彼女の冥福を祈った上で、その自らの祈りを、妹一人だけの死後の幸福にとどまらず、全ての衆生の幸福に向けようとする、彼の意思の表現だったのだろう、ということになります。
ここまでは、すでに「《願以此功徳 普及於一切》」という記事に書いたことだったのですが、その後私は、賢治の妹トシが1920年(大正9年)に書いた「自省録」の中にも、この同じ言葉があることに気がつきました。
それは、次のようにして現れます。
彼女が凡ての人人に平等な無私な愛を持ちたい、と云ふ願ひは、たとへ、まだみすぼらしい、芽ばえたばかりのおぼつかないものであるとは云へ、偽りとは思はれない。
「願はくはこの功徳を以て普ねく一切に及ぼし我等と衆生と皆倶に――」と云ふ境地に偽りのない渇仰を捧げる事は彼女に許されない事とは思へないのである。
この願ひと矛盾した自己の幸福をのみ追求した事を彼女は愧ぢねばならない。懺悔しなければならぬ。そして人人の彼女に加へた処置を甘んじてうけなければならぬ。排他に対する当然の報償としてうけなければならぬ。(宮沢淳郎著『伯父は賢治』所収「宮沢トシ自省録原文」より)
この「自省録」という文章において、トシは自分自身のことを「彼女」という三人称で記していますので、上で「彼女」と書かれているのは、トシ自身のことです。
上の引用文を読んだだけでは、これはいったい何のことを言っているのかわかりにくいと思いますが、そもそもトシの「自省録」とは、彼女が日本女子大学を卒業し、結核療養を経て、母校の花巻高等女学校の教諭心得になろうとする時期に、自らが女学校時代に関わったある「事件」による心の痛手を乗り越えようと、その胸中を内省し、整理した記録なのです。
実は、トシは女学校時代に若い音楽教師に対して憧れの気持ちを抱き、その思いを当該教師に包み隠さずに親しく接していたので、彼女の気持ちは衆目の知るところになっていたようですが、教師の方は別の女生徒の方がお気に入りだったようで、図らずもここに三角関係のような状況が生まれてしまいました。その噂が新聞記者の耳に入り、興味本位に脚色されて、「音楽教師と二美人の初恋」と題して『岩手民報』に3日間の連載で記事になったものですから、当時としては一大スキャンダルになったのです。
傷ついたトシは、自分自身の名誉失墜以上に、自らを案じてくれる家族を悲しませてしまったことで自分を責め、「もう一日も早くこの苦しい学校と郷里からのがれ度いと云ふ願ひの外には、麻の様に乱れた現在を整理する気力も勇気も全く萎え果て」、「全く文字通りに彼女は学校から逃れ故郷を追はれた」という形で、東京の日本女子大学に入学しました。
トシはその後も、この「事件」について考えることは慎重に避けながら学生生活を送っていたようですが、卒業後の1920年、事件の舞台となった母校に勤務することになり、意を決してこの体験に向き合おうとしたようです。
かくして「自省録」の冒頭は、次のように始まります。
思ひもよらなかった自分の姿を自分の内に見ねばならぬ時が来た。最も触れる事を恐れて居た事柄に今ふれねばならぬ時が来た。『自分もとうとうこの事にふれずには済まされなかったか』と云ふ悲しみにも似た感情と、同時に「永い間摸索してゐたものに今正面からぶつかるのだ、自分の心に不可解な暗い陰をつくり自ら知らずに之に悩まされゐたものの正体を確かめる時が来た」と云ふ予期から希望を与へられて居る。(宮沢淳郎著『伯父は賢治』所収「宮沢トシ自省録原文」より)
そしてトシは、自分が音楽教師に対して抱いた感情の推移をたどり、また自らの行動を省みつつ、順を追って問題を分析していきます。相手の教師の行動や態度について客観的な評価を行い、さらに世間から向けられた苛酷な非難を自分はいかに受けとめるべきかという考察に続いて、結局トシが自らの最も反省すべき点として挙げたのは、自分が音楽教師に対して抱いた感情が、「排他的な愛情」であったということでした。
彼女には世間を不当と責める権利がない。彼女は、黙って、人人の与へるものを受けなければならぬ。彼女はかうして世間の意思に対して消極的に是認する以上に、尚考ふべき事がある。
彼女は冷酷な世間を止むを得ず是認する前に、自身を世間に対しては冷酷でなかったか、と反省する必要がありはしないか。
云ふまでもなく彼女の求むる所は享楽(たとへそれがどんな可憐なしほらしい弁解がついても)以上には出なかったらしい。それは表面愛他的、利他的な仮面を被っても畢竟、利己的な動機以上のものではなかったらしい事を認めなければならない。或特殊な人と人との間に特殊な親密の生ずる時、多くの場合にはそれが排他的の傾向を帯びて来易い。彼等の場合にも亦そうではなかったか? 他の人人に対する不親密と疎遠とを以て彼等相互の親密さを証明する様な傾きはなかったか?
彼等の求めたものは畢竟彼等の幸福のみで、それがもしも他の人人の幸福と両立しない場合には、当然利己的に排他的になる性質のものではなかったか?
彼女の反省はこの問に否とは云ひ得ないのである。
利己の狭苦しい陋屋から脱れて一歩人が神に近づき得る唯一の路であるべき「愛情」が美しいままに終る事が少くて、往往罪悪と暗黒との手をひきあうて来る事は実に delicate な問題である。愛の至難な醇化の試練に堪え得ぬものが愛を抱く時――それは個人に向けられたものであらうと家庭や国家に向けられたものであらうと――頑迷な痴愚な愛は、自他を傷つけずにはおかないであらう。煩悩となり迷妄となり修道の障りとならずにゐないであらう。(宮沢淳郎著『伯父は賢治』所収「宮沢トシ自省録原文」より)
当時まだ21歳の女性が書いた文章としては、本当に冷静で理知的で驚かされますが、とりわけ自らが教師に対して抱いてしまった愛情に関する総括の仕方には、非凡なものがあると思います。普通ならば、学校における恋愛沙汰でスキャンダルを招いた自分を反省するとなれば、「生徒でありながら先生を好きになるとは、自分の立場をわきまえていなかった」とか、「たとえ異性に好意を抱いても、女としてはそういう感情を表に出すような、はしたないことは慎むべきだった」などというような形に収めるのが常識的な感じがしますが、トシの考えは違います。
上の文章において彼女は、自分も含めた人間が「愛情」を抱くということは肯定しながらも、自らの場合はその愛が「排他的」であったことが、問題だったとするのです。
さらに、彼女は続けます。
彼女の現在はまだまだ云ひ様もなく低い。真の愛、などは口にするだに憚られる僭越ではあるけれども、彼女は最早現状に満足せずして高められ浄めらるるを求むると云ふに躊躇しないであらう。盲目な痴愚な愛に満足しない、求めないと云ふに躊躇しないであらう。彼女は未だ真の愛の如何なるものかを知らない。けれども、「これが真の愛ではない」と見分けうる一つの路は、それが排他的であるかないか、と云ふことである。
彼女と彼との間の感情は排他的傾向を持ってゐた、とすれば、彼女の眠ってゐた本然の願ひが、さめた暁には到底、彼女に謀反を起こさせずにおかなかったであらう。自分から、自分等の感情に息詰りを感じて、どう云ふ形でかこれを破り、捨てずにはおかなかったであらう。或はこれを排他的なものでないものに、醇化しやうとする、身に過ぎた重荷に苦しまねばならなかったであらう。此点に於ても、彼等の、今、離れ終わったと云ふ事は自然な正当な事ではなかったか。(宮沢淳郎著『伯父は賢治』所収「宮沢トシ自省録原文」より)
そして、上記の後に、最初に引用した「願はくはこの功徳を以て普ねく一切に及ぼし我等と衆生と皆倶に――」を含む部分が続くのです。
ここでやっと、トシが「願以此功徳 普及於一切」という法華経の一節を引いてきた文脈が、皆様にもわかっていただけたかと思います。彼女は、「排他的でない愛」の一つの典型的なあり方として、この経文を提示しているのです。
さて、トシがこのように目ざそうとする「排他的でない愛」あるいは「真の愛」とは、最初に引用した部分にあるように、「凡ての人人に平等な無私な愛」ということでしょうが、考えてみれば、これはまさに、賢治が生涯をかけて追求したテーマでもあります。
「青森挽歌」のキーワードである、《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》という一節もそれを表していますし、「農民芸術概論綱要」の「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」もそうでしょう。
山根知子氏は、著書『宮沢賢治 妹トシの拓いた路』の中で、トシのこの「排他的な愛」という概念と、賢治の書簡下書252aにおける「私は一人一人について特別な愛といふやうなものは持ちませんし持ちたくもありません。さういふ愛を持つものは結局じぶんの子どもだけが大切といふあたり前のことになりますから」という考え方との共通性を指摘しておられますが、私もまさにそのとおりだと思います。
ここに見られる、「愛」に対するトシと賢治の考えの特徴は、単に「普遍的な愛」を賞揚するだけではなくて、「排他的・個別的な愛」というものを、ほとんど否定してしまうというところにあります。普通ならば、「普遍的な愛」というのは立派で結構なものとして讃えながらも、しかしもう一方では、家族や恋人や親友を特に大切にする「排他的な愛」というのも、それはそれであってもよいと認めるのが一般的でしょうが、彼らはそうではありません。トシにとって排他的な愛は、「煩悩となり迷妄となり修道の障りとならずにゐない」ものであり、賢治にとっては「ひとりをいのつてはいけない」として禁じられ、「一人一人について特別な愛といふやうなものは持ちませんし持ちたくもありません」と打ち捨てられるものだったのです。
このように、トシが「自省録」において打ち出した倫理観と賢治のそれとは、ぴったりと重なり合っているのですが、それらが同じであるのは、その結論においてだけではなく、そこに至るプロセスに関してもそうでした。
トシは、一時は「お互ひに好意を持ち合って居る」と信じていた男性から、新聞沙汰を機に一転して「侮辱と憎しみの詞」を伝え聞くようになり、「心の痛みは絶頂に達し」、「重ね重ねの打撃に魂を打ち砕かれて」しまったのですが、この苛酷な喪失体験の底から、驚くべき強靱さをもって立ち直ろうとします。
すなわちトシは、「彼女と彼との間の感情は排他的傾向を持ってゐた、とすれば、彼女の眠ってゐた本然の願ひが、さめた暁には到底、彼女に謀反を起こさせずにおかなかったであらう」と述べて、自らの愛は排他的であったが故に、いずれ破綻するのは当然のことだったとして過去の自分を否定し、「彼等の、今、離れ終わったと云ふ事は自然な正当な事」として、苦難を肯定的に受容するのです。そしてその受容からあらためて出発し、「普遍的な愛」への道を踏み出そうとするのです。
このような道筋は賢治の場合も同じで、すなわち賢治はある時期までは、トシを喪った悲しみに耐えられず苦しみ続けたのですが、サハリンへの旅の後のいつしか、そのように一人の肉親にとらわれるのは利己的な執着なのだとして、それまでの自分をやはり否定するのです。そして、「いとしくおもふものが/そのまゝどこへ行ってしまったかわからないこと」は当然の帰結であるばかりか、「なんといふいゝことだらう」として、その喪失を積極的に肯定する段階に至るのです(「薤露青」)。
そして彼はその肯定の上に立って、「手紙 四」や「銀河鉄道の夜」初期形三では、「すべてのいきもののほんたうの幸福をさがさなければいけない」という立場を宣言しました。
トシと賢治が各々のトラウマから立ち直っていったプロセスは、このようにほぼ同型になっており、二人とも、(1)自らの喪失の苦悩を、排他的あるいは利己的な愛に基づいたものとしてまずは否定し、(2)だから別離は不可避なものであったと「合理化」して、その喪失を肯定的に受け容れます。(3)そして両者とも、そこからさらに進んで、その苦しみをより普遍的な愛へと昇華しようとするのです。
そしてここで注目すべきことは、その二人に共通する道筋の「
さて、このようにして賢治がトシと同じような道を歩んでいったのだとすると、気になるのは、はたして賢治がトシの「自省録」を読んでいたのかどうかということです。『伯父は賢治』によれば、宮沢淳郎氏は1987年(昭和62年)に父主計氏の遺した書類を整理していて、偶然トシのこの原稿を発見したということです。これは、淳郎氏の母であり賢治およびトシの末妹であるクニが、何らかのいきさつで、受け継いだものだったのでしょう。
その内容からして、まだトシが存命中には、いくら家族であっても彼女が自分から見せるとは、ちょっと考えにくい気がします。それとも、「賢治とトシ」という親密な兄妹関係ならば、自ら兄に読んでもらうということもあったでしょうか?
でも一般的には、トシの死後に親が遺品を整理していて見つけたのではないかと考えてみる方が、常識的な感じがします。
すると一つの可能性としては、トシの死後に「形見分け」として、クニがこの原稿を譲り受けたということも考えられますが、しかしトシの死の時点でまだクニが15歳だったことを思うと、いくら姉のものとは言え、親としてはこのようなスキャンダラスな恋愛沙汰を扱った文章を、まだ女学生の少女に渡すというのは、ちょっと考えにくい気がします。
となると、クニが受け取ったのはもっと後のことかとも思われますが、具体的なことはどうにもわかりません。
結局いろいろ考えてみても、賢治が妹トシの「自省録」を読んでいたかどうかということは、現時点では不明と言わざるをえません。ただしかし、もし仮に読んでいなかったとしても、彼女がここに記した「願以此功徳 普及於一切」という言葉は、彼女が賢治から法華経を教えてもらう中で、出会ったもののはずです。
ですから、上記のような「同型性」という意味でも、この言葉に二人が込めていた思いは、一緒に共有していたと思われるのです。そして、「願以此功徳 普及於一切」という言葉が、1920年の「自省録」から、1923年の「青森挽歌 三」へと受け継がれたのだと見るならば、トシは果たせなかった「排他的な愛を否定し普遍的な愛を目ざす」という理想の追求が、ここでトシから賢治へと託されたとも言えるのです。
そして上にも述べたように、これはバトンを受けた賢治にとっても、生涯のテーマとなりました。
山根知子氏は、著書『宮沢賢治 妹トシの拓いた路』の第二部第一章「賢治の前を歩んだトシ」において、このように「トシから賢治へ」という方向性の影響関係について、詳しく考察しておられます。トシの「自省録」における「排他的な愛」という概念についても、成瀬仁蔵の宗教思想の反映を解き明かし、また賢治の作品への影響についても分析しておられます、
私は、トシの「自省録」に「願以此功徳 普及於一切」が登場することに触発されて、今回の記事のようなことを思い巡らしていたところ、山根氏の著書を読んでみるとほとんど同様の事柄が、すでにはるかに詳細に述べられていることに気づきました。
私としては、この法華経の言葉が、賢治の「青森挽歌 三」において引き継がれていること、そして二人がこの言葉に象徴される同型の道をたどって、深刻な外傷体験を乗り越えていったと思われることを、ここにわずかに付け加えさせていただきたいと思います。
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