《願以此功徳 普及於一切》

1.「青森挽歌 三」の位置

 新校本全集で「『春と修羅』補遺」に分類されている「青森挽歌 三」は、『春と修羅』に収録されている「青森挽歌」の、先駆形と考えられる草稿です。このテキストが書かれているのは、「丸善特製 二」というやや変則的な原稿用紙で、一般の原稿用紙が「20字×10行×2」という400字詰めであるのに対して、これは「25字×12行×2」という600字詰めになっているのです。
 実は、『春と修羅』の「詩集印刷用原稿」は、全てがこの「丸善特製 二」の原稿用紙なのですが、その意義について、『校本全集』第二巻校異篇p.11には、次のように書かれています。

本文の書かれ方について特記すべきは、用紙の25字×12行という字詰めが、初版本本文の活字の組み方と合致していることで、原稿用紙の右半・左半が、それぞれ、そのまま初版本の各一頁に相当するように書かれ、紙を二つに折って重ねて綴じれば、詩集の雛形になる仕組みになっている。

 すなわち、賢治はこの「丸善特製 二」原稿用紙に、『春と修羅』の最終段階のテキストを記入して、それによって「詩集の雛形」をイメージしたのです。
 つまり、賢治が『春と修羅』関係の詩の草稿用紙として、この「丸善特製 二」原稿用紙を使用している場合は、それは推敲過程の中でもかなり最後の方の段階に位置していることを意味するわけであり、「青森挽歌 三」という草稿は、そのような段階のテキストだと考えられるのです。(この原稿用紙のことについては、以前の記事「「丸善特製 二」原稿用紙」もご参照下さい。)

 さて、前置きが長くなりましたが、その「青森挽歌 三」の冒頭は、次のように始まります。

   青森挽歌 三

仮睡硅酸の溶け残ったもやの中に
つめたい窓の硝子から
あけがた近くの苹果の匂が
透明な紐になって流れて来る。
それはおもてが軟玉と銀のモナド
半月の噴いた瓦斯でいっぱいだから
巻積雲のはらわたまで
月のあかりは浸みわたり
それはあやしい蛍光板になって
いよいよあやしい匂か光かを発散し
なめらかに硬い硝子さへ越えて来る。
青森だからといふのではなく
大てい月がこんなやうな暁ちかく
巻積雲にはいるとき
或ひは青ぞらで溶け残るとき
必ず起る現象です。

 冒頭の「仮睡硅酸」という特徴的な造語は、「青森挽歌」においては中ほどの112行目に出てくるのに対して、5行目の「それはおもては軟玉と銀のモナド」から14行目の「巻積雲にはいるとき」までは、ほとんどそのまま「青森挽歌」の213行目から222行目と同内容です。
 比較のために、下にその「青森挽歌」の213行目から222行目を掲げてみます。

おもては軟玉と銀のモナド
半月の噴いた瓦斯でいつぱいだ
巻積雲のはらわたまで
月のあかりはしみわたり
それはあやしい蛍光板になつて
いよいよあやしい苹果の匂を発散し
なめらかにつめたい窓硝子さへ越えてくる
青森だからといふのではなく
大てい月がこんなやうな暁ちかく
巻積雲にはいるとき・・・・・・

 これを上の「青森挽歌 三」の5行目以降と比べていただくと、ほとんど一致することがわかると思います。
 さらに、『新校本全集』第二巻校異篇を見ると、「青森挽歌」の「詩集印刷用原稿」には、上の箇所に続いて、「あるひは青ぞらで溶け残るとき/かならず起る現象です」という字句が書かれていたのが、印刷する前に墨で削除されていますが、これは「青森挽歌 三」の15~16行目ともほぼ一致するもので、両者の相似はいっそう深まります。
 また同じ校異篇によれば、「青森挽歌」の上に引用した箇所の直前、すなわち213行目の前には、もともと「三行アキ」の空白が挿入されていたということです。印刷された『春と修羅』にはこの「行アキ」はなく、212行目と213行目は切れ目なくつながっているのですが、印刷前の賢治の考えでは、212行目と213行目の間には、形式上の大きな「切れ目」があったのだろうと推測されます。

 さて、ここでまず私が考えてみたいのは、次のような事柄です。
 「青森挽歌 三」が残っているということは、もともとは「青森挽歌 一」「青森挽歌 二」も存在したのだろうと推測されますし、またひょっとしたら「青森挽歌 四」やそれ以降が存在していた可能性も、否定できません。
 このような、「青森挽歌 一」・・・「青森挽歌 n」が、その後さらに推敲されるうちに、漢数字による区分が消失し、最終的に単一の「青森挽歌」になったと想定できると思いますが、そのもともとの「青森挽歌 一」・・・「青森挽歌 n」というのは、いったいどんな構成だったのでしょうか。

 最初に考えておきたいのは、「青森挽歌 n」というのが、いくつまで存在したのだろうかということですが、「青森挽歌 三」の最後の部分を見ると、次のように終わっています。

「太洋を見はらす巨きな家の中で
仰向けになって寝てゐたら
もしもしもしもしって云って
しきりに巡査が起してゐるんだ。」
その皺くちゃな寛い白服
ゆふべ一晩そんなあなたの電燈の下で
こしかけてやって来た高等学校の先生
青森へ着いたら
苹果をたべると云ふんですか。
海が藍テンに光ってゐる
いまごろまっ赤な苹果はありません。
爽やかな苹果青のその苹果なら
それはもうきっとできてるでせう。

 これを見ると、車窓からは「海」が見えているようですが、花巻発青森行き東北本線で、海が見えるのは陸奥湾しかありませんので、列車はかなり青森に近づいていることがわかります。また、「ゆふべ一晩」という言葉も、時刻がもう朝という言える時間帯になっていることを想像させますし、「青森へ着いたら/苹果をたべると云ふんですか」という言葉も、何となく列車が終点の青森駅に近づいているような雰囲気を漂わせます。
 すなわち、「青森挽歌 三」は、青森駅の手前近くで終わっているわけです。
 ここで推敲後の「青森挽歌」も、青森駅の手前で終わっていると推測されることと考え合わせると、「青森挽歌 三」の後に、「青森挽歌 四」やそれ以降が存在したとは考えにくく、この段階の草稿は、「青森挽歌 一」「青森挽歌 二」「青森挽歌 三」という、三部構成になっていたのではないかと推測されます。

 となると、「青森挽歌 三」は、「青森挽歌」の「213行目から最後まで」という部分に相当すると、考えることができます。前述のように、もともと「青森挽歌」の印刷用原稿では、213行目の手前に「三行アキ」の空白があったということから、ここに形式的な切れ目があったと思われるからです。
 それでは、「青森挽歌 一」と「青森挽歌 二」は、「青森挽歌」ではそれぞれどの部分に対応するのでしょうか。

 これは、「青森挽歌」の212行目以前の部分を、意味内容の上で二つに区切るとすれば、どこで分けるべきか、という問題に置き換えることができるでしょうが、それの区切りは具体的には、どこに当たるでしょうか。
 以前に、「「青森挽歌」の構造について(1)」という記事を書いたことがありますが、その時は「青森挽歌」の全体を、次の7つの部分に分けてみました。

I 現実世界からの導入・トシの死について考えることへの躊躇
II 死の認識の困難性
III トシの死の状況の具体的回想
IV 転生の可能性(鳥・天・地獄)
V トシの行方に執着することへの自戒
VI 車窓風景の展望と魔の声
VII 個別救済祈願の禁止

 具体的な区分については、元の記事をご参照いただくとして、今回論じている「青森挽歌 三」は、「青森挽歌」の213行目以降に相当するわけですから、上では VI と VII にあたります。
 そして、I から V までの部分を二つに分けるとすれば、II と III の間で区切るのが妥当だと考えます。I と II は、広い意味で作品全体の導入部にあたる箇所であり、ここで賢治は、トシの死について考えることを躊躇したり、死そのものをとらえることの困難性について記しています。「ギルちゃん」や「ナーガラ」が出てくる部分にも、幼い者が「死」という現実をうまく理解できない様子が、童話的に表現されています。
 これに対して、III・IV・V の部分で、賢治はトシの死の状況を具体的に回想することを通して、その死後の行方について、執拗なまでに考察を展開しています。そもそもこれこそが、「青森挽歌」の中心的な主題でした。

 すなわち、「青森挽歌」の先駆形として、「青森挽歌 一」「青森挽歌 二」「青森挽歌 三」が存在したとすれば、大まかには「青森挽歌」の1~85行目が「青森挽歌 一」に、86~212行目が「青森挽歌 二」に、213行目~252行目が「青森挽歌 三」に、それぞれ相当すると考えられるのではないでしょうか。

2.「青森挽歌 三」の内容

 「青森挽歌」の213行目以降の主な内容は、トシの行方について考え疲れた賢治が車窓の月を眺めていると、トシの死相について揶揄する「魔」のような存在の声が聴こえ、さらには最後に、《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》という重要な啓示がもたらされる、というものでした。
 これに対して、「青森挽歌 三」の主な内容となっているのは、「トシの似姿」を見る話です。

 まず賢治には、同じ車両で眠っている乗客の一人が、まるでトシのように見えます。

その右側の中ごろの席
青ざめたあけ方の孔雀のはね
やはらかな草いろの夢をくわらすのは
とし子、おまへのやうに見える。

 次には、父親が出張中に、「まるっきり同じわらす」を見た話です。

「まるっきり肖たものもあるもんだ、
法隆寺の停車場で
すれちがふ汽車の中に
まるっきり同じわらすさ。」
父がいつかの朝さう云ってゐた。

 花巻から遠く古都奈良の、「すれちがふ汽車」の中に子供時代の娘を見るというのは、父親にとって何という切ない体験でしょう。いくら手を伸ばしても届かないという現実が、象徴されているかのようです。

 そして三つめには、トシが亡くなった翌月に、賢治自身がトシの似姿を見た体験が回想されます。

そして私だってさうだ
あいつが死んだ次の十二月に
酵母のやうなこまかな雪
はげしいはげしい吹雪の中を
私は学校から坂を走って降りて来た。
まっ白になった柳沢洋服店のガラスの前
その藍いろの夕方の雪のけむりの中で
黒いマントの女の人に遭った。
帽巾に目はかくれ
白い顎ときれいな歯
私の方にちょっとわらったやうにさへ見えた。
( それはもちろん風と雪との屈折率の関係だ。)
私は危なく叫んだのだ。
(何だ、うな、死んだなんて
いゝ位のごと云って
今ごろ此処ら歩てるな。)
又たしかに私はさう叫んだにちがひない。
たゞあんな烈しい吹雪の中だから
その声は風にとられ
私は風の中に分散してかけた。

 ここには、まだトシが死んだと信じ切れない賢治の、悲痛な思いが刻まれています。

 さてこのような、ふと故人の似姿を見て、たとえ一瞬だけにせよ、本当に「あの人」だと思ってしまうという現象は、その人のことをまだ現実世界の中に、無意識のうちに「探しつづけている」からこそ、起こるものです。
 この賢治のサハリンへの旅行は全体として、死んだ人を無意識のうちに探そうとしてしまう「探索行動」として理解することができると、以前から私は思っているのですが(「「探索行動」としてのサハリン行」参照)、ここにも「探索」の一端が、顔をのぞかせているわけです。

 ところで、最初に引用した「同じ車両の乗客」が、「やはらかな草いろの夢をくわらす」と書いてある言葉の意味が、ちょっとわかりません。「夢をくわらす」というのは、いったいどういうことでしょうか。
 「くわらす」という言葉は、『精選版 日本国語大辞典』にも載っていませんし、もちろん「喰らわす」では、意味が通りません。
「夢をくゆらす」 私がちょっと思うのは、これは「くゆらす」のことなのではないか、ということです。「くゆらす」を辞書で引くと、「(煙や匂いなどを)立ちのぼらせる」とあり、「夢をくゆらす」というのも、右図のような感じで、比喩として理解できなくはありません。
 また、ひらがなの「ゆ」と「わ」というのは、書き方によっては形が似ています。

 まあ、これについては確かなところはわかりませんが、賢治はしきりに苹果のことを考えながら、汽車は青森駅に近づいて行きます。

3.《願以此功徳 普及於一切》

 以上のように、「青森挽歌 三」と、「青森挽歌」の213行目以降の内容は、大きく異なるわけですが、何と言っても「青森挽歌」の終結部には、《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》という重要な啓示が現れるのに、「青森挽歌 三」にはそういった話が全く出てこないところが、最も大きな違いです。この啓示が、後には賢治の亡妹トシに対する態度を大きく規定することになることを思うと、この相違点は重大です。

 では、「青森挽歌 三」の方には、この《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》に類した発想が全く含まれていなかったのかというと、その最終形を見るかぎりではそのようなものは見当たりませんが、推敲過程を見ると、注目すべき箇所があります。
 すなわち、『新校本全集』第二巻校異篇p.199には、「青森挽歌 三」の本文6行目の次に、当初は《 願此功徳 普及於一切》という字句が「三字下ゲ」で書かれていたのが、その後削除されたということが、記されています。
 つまり、当初は「青森挽歌 三」の冒頭部は、次のようになっていたのです。

   青森挽歌 三

仮睡硅酸の溶け残ったもやの中に
つめたい窓の硝子から
あけがた近くの苹果の匂が
透明な紐になって流れて来る。
それはおもてが軟玉と銀のモナド
半月の噴いた瓦斯でいっぱいだから
   《 願以此功徳 普及於一切》
巻積雲のはらわたまで
月のあかりは浸みわたり
それはあやしい蛍光板になって
いよいよあやしい匂か光かを発散し
なめらかに硬い硝子さへ越えて来る。

 「青森挽歌」の213行目以降では、「魔」の嘲笑的な言葉も、例の重要な啓示も、《二重括弧》で括られて記されていましたが、「青森挽歌 三」の最終本文には、二重括弧は使われていませんでした。しかし実は、この《願以此功徳 普及於一切》に、用いられていたのです。
 この言葉は、いったいどういう意味なのでしょうか。

 調べてみると、「願以此功徳 普及於一切」とは、法華経の「化城喩品第七」に出てくる「偈」の一節で、その前後とともに引用すると、次のようになっています。

我等諸宮殿 蒙光故厳飾
今以奉世尊 唯垂哀納受
願以此功徳 普及於一切
我等與衆生 皆共成佛道

(書き下し)
われ等の諸の宮殿は、光を蒙るが故に厳に飾られたり。
今、もって世尊に奉る 唯、哀を垂れて納受したまえ。
願わくはこの功徳をもって、普く一切に及ぼし
われ等と衆生と 皆、共に仏道を成ぜん。
            (岩波文庫『法華経』中巻p.52)

 これは、「五百万億の諸々の梵天王」が、世尊を讃えて荘厳な宮殿を献上し、その功徳をあまねく一切に及ぼすことによって、我ら梵天王と衆生がともに成仏できるようにと、願う場面です。

 その中の一節が、なぜトシの死を思う「青森挽歌 三」に登場するのか、ということが問題ですが、実はこの「願以此功徳 普及於一切/我等與衆生 皆共成佛道」という言葉は、日蓮宗に限らずさまざまな宗派で「法要」を行う際に、その最後に唱えられ、「回向文」と呼ばれるものなのです。
 下の動画は、真言宗の在家用仏前勤行次第だということですが、クリックしていただければ、「願わくはこの功徳をもって、普く一切に及ぼし、われ等と衆生と、皆共に仏道を成ぜん」との言葉を聞くことができます。

 一般に「法要」というのは、故人の縁者たちが集まって、故人の冥福のために、お経を上げ、仏を礼拝し、お布施をする等の、仏教的な善行を成すことです。このような行為そのものを実施するのは生きている人々ですが、それによって得られる「功徳」を、自分たちだけでなく死者にも振り向ける(回向する)ことによって、故人の次生での幸福を、助けようとしているわけです。
 そしてさらに、自分たちの縁者だけでなく全ての生き物の救済を目ざすのが大乗仏教ですから、その法要による功徳も自分たちだけに限定せず、広く回向して「普く一切に及ぼし」、「われ等と衆生と 皆、共に仏道を成ぜん」ために唱えるのが、この回向文なのです。

 ここにおいて、この回向文の趣旨と、賢治のトシに対する思いや行動とのつながりが、明らかになってきます。
 すなわち、賢治が青森へ向かう夜行列車の中で、トシのことをずっと考えつづけたのは「法要」ではありませんが、しかし賢治はこの時トシの次生における幸せを心から願い、きっと「南無妙法蓮華経」の題目も、何度となく唱えたことでしょう。その功徳によって、賢治はトシの冥福を祈ったわけです。
 しかし、大乗仏教を信仰する賢治としては、トシのことばかりを祈ることでこれを済ますわけにはいきません。あるいは賢治には、ここまで自分が延々とトシという一人の肉親のことばかり考えつづけてきたことに対して、何らかの後ろめたさがあったのかもしれません。
 ともかくも賢治にとっては、自らが青森に向かう列車の中でトシに向けた功徳を、あらためて「全ての衆生」に回向するために、《願以此功徳 普及於一切》という祈りが、ここにどうしても必要だったのです。

 つまり、トシに限らず「すべてのいきもののほんたうの幸福」を願うという目的において、「青森挽歌 三」におけるこの《願以此功徳 普及於一切》は、「青森挽歌」における《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》という言葉と、まさにつながっているものなのです。
 しかしその内容を見ると、前者では「トシのことを祈った上でそれを衆生に回向する」という形になっているのに対し、後者においては「けつしてひとりをいのつてはいけない」として、そもそも「一人を祈る」こと自体が禁止されているという点において、大きな違いがあります。

 「青森挽歌 三」にいったん書かれていた《願以此功徳 普及於一切》という一節が、その推敲過程において消去されてしまった理由はわかりませんが、想像するに、賢治が本当はトシのことを強く祈りながら、最後に取って付けたように《願以此功徳 普及於一切》の一節を追加することで、自分は全ての衆生のことを思っているのだと正当化するというやり方を、「偽善的」と感じて許せなくなったのではないかと思ったりもします。

 いずれにしても、賢治は最終的に「青森挽歌」において、「けつしてひとりをいのつてはいけない」という容赦のない制約を自らに課すことによって、厳しい未知の領域へと、大きな一歩を踏み出したのです。

 しかし、この「青森挽歌 三」が、「丸善特製 二」というかなり最終段階に近い草稿用紙に書かれたものであり、そこにいったんは上記のような意味合いの《願以此功徳 普及於一切》という言葉があったということの深い意味は、あらためて心に留めておく必要があるかと思います。
 私はこれまで何となく、《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》という重要な思想を賢治が抱くに至ったのは、サハリン旅行中のことだったようにばくぜんと思っていたのですが、それは大きな間違いでした。
 実際に彼がこういう考えを持つようになったのは、おそらく旅行から帰ってからも苦悩をつづけた後のことで、彼が詩集『春と修羅』のために清書を開始してからもかなり経った時期のことだったということを、きちんと押さえておく必要があると感じました。