「雨ニモマケズ」詩碑二つ

 石碑の部屋に、岩手町立川口小学校の「雨ニモマケズ」詩碑と、盛岡市材木町の「雨ニモマケズ」詩碑を、アップしました。

 川口小学校の碑は、2016年に建てられたもので、日時計花壇とも併設されています。

川口小学校「雨ニモマケズ」詩碑

 現在、「〔雨ニモマケズ〕」の全部あるいは一部を刻んだ碑は、全国で17基ほどありますが、その中でも岩手町にあるこれが、最北の碑ということになります。

 盛岡市材木町の方の碑は、この商店街の振興組合の52周年を記念して建立されたものだということで、これまでもこの通りに沿って設置されてきた、光原社の「烏の北斗七星」碑、「宮沢賢治坐像」、「詩座」など様々な賢治関連のオブジェに、また新たな一つが加えられたことになります。

盛岡市材木町「雨ニモマケズ」詩碑

 上の写真ではちょっとわかりにくいですが、ほぼ水平になった上の面に、「〔雨ニモマケズ〕」の全文が刻まれています。詩碑が上を向いているというのは珍しく、「ベンチにもなるように」という趣向なのだそうですが、現時点ではこんなに美しい碑文にお尻を乗せるというのは、ちょっと畏れ多い感じもします。

 隣に一緒に立てられた電信柱のオブジェには、上写真のように「かまだ屋」という表札がかけられています。その昔、賢治たちが集まって『アザリア』の合評会を催したり、あの短篇「秋田街道」に描かれた深夜の雫石までの徒歩旅行に出発したりしたのは、昔この場所にあった下宿屋「かまだ屋」だったということです。ちなみに、『定本宮澤賢治語彙辞典』の「材木町」の項目によれば、ここに下宿していた『アザリア』のメンバーは、河本義行でした。
 すなわち、この盛岡市材木町は、『注文の多い料理店』の出版元の「光原社」があっただけではなく、賢治の青春の輝かしい一コマの舞台でもあったわけです。