1916年(大正5年)、賢治が盛岡高等農林学校2年の時に同級生たちと作成した「盛岡附近地質調査報文」については前回も少し触れましたが、この「報文」は農学科第二部二年生が共同で提出した形になっていて、その中に賢治が執筆した部分が含まれているのかどうかということは、明らかにされていません。
しかし、これまでに何人かの研究者が指摘しているように、この調査自体が賢治の主導のもとに行われたのはかなり確かなようですし、また「報文」の中には、いかにも賢治っぽい表現が多々含まれており、『新校本全集』第十四巻の「校異篇」では、次のように説明されています。
賢治の執筆部分は明らかではないが、全体的に賢治の文体めいた箇所が散見する。賢治の執筆部分を分離特定することができないため、本巻では表題に〔共同執筆〕と付記して全文を本文に掲げた。
この「報文」全体の構成は、「○地理及地質の概要」、「○火成岩及風化物の記載」、「○水成岩及其風化物の記載」、「○終結」という四章から成っているのですが、この最後の「○終結」という章には、まさに私たちの知っている賢治の特徴が、かなり顔を出しているように感じられます。
たとえば、この章は、次のように始まります。
○終結
地質学は吾人の棲息する地球の沿革を追究し、現今に於ける地殻の構造を解説し、又地殻に起る諸般の変動に就き其原因結果を闡明にす、即ち我家の歴史を教へ其成立及進化を知らしむるものなるを以て、苟くも智能を具へたるものに興味を与ふること多大なるは辯を俟たずして明なりとす。
閑散なるの日一鎚を携へて山野に散策を試みんか目に自然美を感受し心身爽快なるを覚ゆるのみならず造化の秘密を看破するを得、一礫一岩塊と雖も深々たる意味を有するを了解し、尽き難きの興味を感ずるは、生等の親しく経験したる所とす、加之冬夏の休業に際し地質図を手にして長期の跋渉を試みんか至る所目前に友ありて自然の妙機を語り旅憂を一掃せしむるのみならず、進んで宇宙の真理を探究せんとするの勇気を勃々たらしむ、欧米には地質案内記の刊行せられたるもの多く、婦女子に至るまで之を携へて或は山岳を攀ぢ或は原野を彷徨するもの多しと聞き、其誠に故なきにあらざるを会得せり。
この箇所ついて、『宮澤賢治 岩手山麓を行く 盛岡附近地質調査』の著者の亀井茂氏は、通常は科学論文には書かれないような「個人的、心象的な自然との接し方、即ち、深遠な自然の不可思議さに感動、自然に同化する心境、その効用などの体験的、心理的効能が記されている」ことを指摘し、「この『調査報文』において、「○終結」は全く賢治による記述を明らかに思わせる部分である」と述べておられ、私も同感です。また、「冬夏の休業に際し地質図を手にして…」とありますが、この夏休みの間の「閑散なる日」に実際に調査を行ったのは、賢治ともう一人、級長の塩井義郎だけだったことからしても、これを賢治が書いた可能性は非常に高いと言えるでしょう。
ところで、この「○終結」の書き出しでは、我々の地球を称して「吾人の棲息する…」と形容しているところがちょっと面白いですが、1900年(明治33年)に冨山房から出版された『礦物学及地質学』という本の冒頭は、下記のようになっています。(国会図書館デジタルライブラリーより)
ここでもやはり、「吾人ノ棲息スル…」という書き出しから始まっていて、こちらは「地球」ではなく「地殻」を形容する語句となってはいますが、大意は同じです。「吾人」「棲息」などという言葉まで一致していて、これは偶然にしては、ちょっとできすぎではないかと思います。
すなわち、賢治(かあるいは別の学生)が、この当時に冨山房の『礦物学及地質学』という教科書を読んでいて、そこから意識的か無意識的かはともかく、影響を受けつつ書かれた文章なのではないでしょうか。
この、「冨山房編輯所編纂」による『礦物学及地質学教科書』には、どこにも具体的な著者の名前は記されていないのですが、同じ冨山房が1918年(大正7年)に刊行した『新編 鑛物学地質学教科書』には、下図のように「理学博士 小川琢治 著」と記されています。
これも、少し字句に修正はあるものの、初めにはやはり「吾人の棲息せる地球の…」という字句があり、これは1900年の『礦物学及地質学』が、装いを新たにした「新編」なのでしょう。
著者の小川琢治は、京都帝国大学理学部地質鉱物学科の初代主任教授を務めた人ですが、旧版の『礦物学及地質学』刊行時には、農商務省地質調査所技手の職にあったために、名前は出さなかったのかと思われます。その後、1908年に農商務省を退官して京大教授となったので、1918年刊の新版では、晴れて著者として顔を出したのでしょう。
ちなみに、小川琢治の息子たちは、長男の小川芳樹が冶金学者、次男の貝塚茂樹が東洋史学者、三男の湯川秀樹が物理学者、四男の小川環樹が中国文学者という、有名な物凄い学者一家です。
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