先週の記事で、明治学院大学の発行する『言語文化』第34号をご紹介させていただきましたが、その際に「言語文化研究所」のサイトでは、一部の論文が表示されない不具合がありました。
その後、同じ論文が明治学院大学図書館のリポジトリにもアップされており、そこでは上記で表示されなかった論文もPDFで読むことができるということをご教示いただきましたので、下記にあらためて、『言語文化』第34号の特集「2016宮沢賢治生誕120年」の各論文の(図書館リポジトリへの)リンクを掲載させていただきます。杉浦さん、吉田さん、富山さんの論文も読めるようになりましたので、ぜひご覧下さい。
- 栗原敦: 二十世紀の意味における宮沢賢治の一側面
- 杉浦静: 文語詩「〔われはダルケを名乗れるものと〕」の生成―宮沢賢治とダルケ(2)
- 吉田文憲: 文字のざわめき
- 平澤信一: 賢治原稿の秘密――《落書き/花壇設計/肖像画》
- 浜垣誠司: 「青森挽歌」における二重の葛藤――トシの行方と、一人への祈り
- 岡本章: 現代能『春と修羅』とオノマトペ
- 貞廣真紀: 意識ある蛋白質の砕けるとき――宮沢賢治、存在の連鎖、自死と意思について
- 富山英俊: 宮沢賢治とキリスト教の諸相――補論
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ところで、ここに掲載された拙稿「「青森挽歌」における二重の葛藤――トシの行方と、一人への祈り」は、昨年の11月頃までに書いたものなのですが、今から思えばその考察における問題の一つは、『春と修羅』の刊行本に掲載されている「青森挽歌」の内容を、あたかも1923年8月1日というこの作品日付の時点において、賢治が感じ考えたことであるかのように看做してしまっている点にあります。
彼の他のすべての作品と同じく、「青森挽歌」も絶えざる推敲のもとにあったはずです。1923年8月1日未明に賢治が乗っていた下り東北本線の車中においては、その最初期の形態が手帳などにスケッチされたのでしょうが、その後1924年4月20日の『春と修羅』刊行までの間に、テキストには何度も手が加えられ、そこに表現されている思想にも、変化が起こっていったと考えなければなりませんでした。
具体的には、たとえば拙稿では、作品の幕切れ部分に登場する、《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》という重要な思想は、青森に向かう夜行列車に乗っていた賢治に、啓示のように降りてきたことのように前提して書いていますが、この執筆時点でまだ私は、「青森挽歌」の先駆形態の一部と考えられる「青森挽歌 三」のテキストに、最初は《願以此功徳 普及於一切》という一行が書かれていたのが、その後の推敲で抹消されていたということを、知りませんでした。
法華経の「化城喩品第七」に由来するこの一行の意味にについては、今年の3月に「《願以此功徳 普及於一切》」という記事に書きましたが、多くの仏教宗派で死者の「法要」の最後に唱えられるこの「回向文」の意図するところは、ある故人の冥福を祈るための法要を執り行った上で、そこで成された追善供養が、故人一人のためだけではなく、一切の衆生に普く及ぶように、と願うことにあります。
すなわちここでは、「ひとりをいのる」という行いは、まずはいったん許容されており、その上で「みんな」のためにもなるように、ということが願われているのです。
「青森挽歌 三」において、このように「ひとりをいのる」ことが認められていたのであれば、それよりもさかのぼる1923年8月1日の夜行列車内の時点でも、《けつしてひとりをいのつてはいけない》というように、賢治が「一人への祈り」を禁じていたとは考えられません。
そしてそもそも、もしも賢治が青森到着前のこの時点で、トシという一人のことを祈ってはいけないとはっきり自覚していたのであれば、その後の旅程の「宗谷挽歌」「オホーツク挽歌」「噴火湾(ノクターン)」において、ずっとトシのことを考えつづけていたことは、明確な自己矛盾であり、言行不一致になってしまいます。これに対して、このサハリン旅行の時点における賢治は、まだ「一人を祈ってもよい」と考えていたのであれば、彼の考えも行動も、無理なく理解できることになります。
私としては、《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》という思想は、トシの死を契機に賢治がつかみとった独自の死生観を特徴づける重要なポイントであり、後の「銀河鉄道の夜」の核心部分にもつながるものだと考えますので、はたして賢治がこの思想を、いつ・どのような形で抱くに至ったのかということに、以前から関心を持っていました。そして上の経過からすれば、賢治がこのような考えを持つようになったのは、少なくとも彼が「青森挽歌 三」の初期形を書いた時点よりは後だ、ということになるのです。
賢治は、まずは「青森挽歌 三」に《願以此功徳 普及於一切》という一行を書きつけたものの、その後のある時点で、特定の個人への祈りを肯定するこの言葉には飽き足らなくなり、これを抹消したのだろうと思われるのです。
それでは、このような賢治の思想の変化が、具体的にいつ頃に起こったのかということが、次の問題です。「青森挽歌 三」が書かれている原稿用紙は、『新校本全集』第二巻校異篇によれば、「丸善特製 二」だということですので、この原稿用紙の使用時期から、ある程度の推測ができるかもしれません。
賢治が「丸善特製 二」原稿用紙を使用した時期について、杉浦静氏は次のように考察しておられます。
〈詩集原稿〉の書かれた時期、すなわち「丸善特製二」原稿用紙の使用時期は、この原稿用紙が25字×12行という字組みであって、このまま出版のための割り付けなどが行われているから、印刷所へ原稿を入れるまでの時期を中心に使われたと考えられる。原稿が印刷所に持ち込まれたのは、「序」が書かれた大正十三年一月二十日以降と言われているから、「丸善特製二」への清書、詩集原稿の書き初めは、その数カ月前までさかのぼらねばなるまい。とすれば、最大限さかのぼれるのは、十二年八月の北海道・樺太旅行以降であり、さらに限定すれば、「(あれがぼくのしやつだ/青いリンネルの農民シヤツだ)」と社会意識のなかで自らの位置と使命感をとらえかえした「溶岩流」(一九二三、一〇、二八、)以降となろう。(杉浦静『宮沢賢治 明滅する春と修羅』蒼丘書林p.43-44)
すなわち、賢治が「丸善特製 二」原稿用紙に『春と修羅』の原稿を記入した時期は、細かくは1923年10月28日から1924年1月20日までのいずれかの期間だろうということなのです。そしてこの杉浦氏の見解に基づくならば、賢治が「青森挽歌 三」にいったんは《願以此功徳 普及於一切》と書いてから抹消し、さらにこれを「青森挽歌」として改稿して、《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》という言葉を書いたのは、いずれもこの3か月弱の期間のうちに起こったことなのだ、ということになります。
つまり、この3か月が、賢治をして「一人への祈り」の肯定から否定へと、考えを大きく転回させたというわけです。
それは、死者に対する賢治の思想の、「深化」とも「尖鋭化」とも言えるでしょう。また、《願以此功徳 普及於一切》という法華経の一節から、親鸞の考えに近い《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》という思想への進展だったと言えます。
また、拙稿に挙げた「二つの葛藤」のうち、「第一の葛藤」は、やはり1923年8月1日の青森へ向かう夜汽車の中でもすでに抱かれていたであろうことに変わりはありませんが、「第二の葛藤」が賢治に生まれたのは、1923年10月28日から1924年1月20日までの間だったということにもなります。
つねに生成変化を続けていた、宮澤賢治という人の心を跡づけていくことの難しさを、あらためて感じます。
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