親鸞の夢告の地

 浄土真宗の開祖親鸞は、その生涯の重要な局面において、三度にわたり「夢のお告げ」を受けたとされています。

 その第一は、親鸞が19歳の1191年(建久2年)に、河内国磯長にある聖徳太子廟に参籠した際のもので、夢に聖徳太子が現れ、次のように告げたとされています。

我が三尊、塵沙界を化す
日域は大乗相応の地なり
諦聴せよ、諦聴せよ、我が教令を
汝の命根、応に十余歳なるべし
命終して速やかに清浄土に入らん
善信、善信、真菩薩

 すなわち、阿弥陀・観音・勢至の三尊は、この塵のような世を救おうとしている、日本は大乗仏教にふさわしい地である、私の教えをよく聞け、お前の命はあと十余年である、その命が終わると速やかに清らかな世界に入るであろう、真の菩薩をよく信ぜよ、というのです。

 次の第二の夢告は、1200年(正治2年)、親鸞が比叡山無動寺の大乗院に参籠した際のもので、夢に如意輪観音が現れ、次のように告げたとされています。

善哉、善哉、汝の願、将に満足せんとす
善哉、善哉、我が願、亦満足す

 これは、その時点での親鸞の信仰を強く肯定するものであり、磯長の夢告で「余命10年あまり」と言われていた親鸞の背中を押して、翌年の比叡下山に向かわせた契機とされています。

 そして第三の夢告は、翌1201年(建仁元年)のことで、親鸞は京都の頂法寺六角堂で百日参籠を行い、その95日目の夜の夢に救世観音が現れ、次のように告げたとされています。

行者宿報に設い女犯すとも
我玉女の身と成りて犯せられむ
一生の間、能く荘厳して
臨終に引導して極楽に生せしむ

 これは、行者であるお前(親鸞)が、たとえ前世の因縁によって女性と交わろうとも、私(観音)が女性の身となってその交わりを受け、お前の一生を助けて、臨終には導いて極楽に往生させようというもので、これを受けた親鸞は、京都吉水の法然の門に入ることとなりました。

 上記の三つの夢告のうち、最後の六角堂における夢告は、親鸞の妻の恵信尼が娘の覚信尼にあてた手紙(「恵信尼消息」)にも出てくるので概ね史実と考えられていますが、前の二つは、後世に生まれた伝説と考える向きが多いようです。
 しかし、親鸞を尊崇する人々にとっては、これらはいずれも宗祖の偉大な生涯を特徴づける、貴重なエピソードと言えるでしょう。

 さて、賢治が1921年(大正10年)に家出をしている最中に、父政次郎が息子を誘って関西地方を旅行した際の旅程を見ると、上の親鸞の夢告の地のうち、二つが入っていたことがわかります。
 まず、第二の夢告の「大乗院」に関しては、小倉豊文「旅に於ける賢治」に、次のように記されています。

 さて、根本中堂や大講堂のある一廓は、東塔と称し、叡山の中心地区ではあるがまだほんの入口にすぎない。なほ奥には西塔の一廓があり、更に遠くはなれて横川塔の一廓があり合せて叡山三塔と言ふ。ことに横川塔は日蓮上人の遺蹟でもある。全山の主峰四明ヶ嶽も西塔の近くである。しかし、この時の父子二人の日程では、それ等何れへも足を運ぶことが許されなかつた。彼等は大講堂から名残を惜しみつゝ歩をかえした。そして、道を大乗院「親鸞上人蕎麦喰木像」にとつた。すでに暮れなずむ春の夕べではあれ、谷や木の間には夕暗が色濃く迫つて来てゐた。

 すなわち、政次郎氏が小倉豊文氏に語ったところによれば、賢治父子は比叡山参詣の最後に大乗院を訪れ、そこから下山の途についたのです。
 そしてこの日は、かなり夜も更けてから京都三条大橋たもとの「布袋館」に投宿し、次の朝は「中外日報」社を訪ねて、大阪の叡福寺への行き方を教えてもらいます。そして二人は叡福寺へと向かうのですが、実はこの「叡福寺」こそ、「磯長の夢告」があった聖徳太子廟に建てられた寺なのです。
 ただ現実には、賢治たち父子は大阪から関西線で叡福寺に向かう途中、柏原駅で下車しなければならないところを、おそらく「乗り過ごし」てしまい、残念ながら叡福寺には行きそびれてしまいました(「運命の柏原駅」参照)。
 しかし政次郎氏は、少なくとも旅行の計画においては、「磯長の夢告」と「大乗院の夢告」の地を、訪ねることにしていたわけです。

 となると、親鸞を深く信仰していた政次郎氏としては、宗祖のもう一つの夢告の地で、しかも宗教的には最も重要な意味を持つ、「六角堂」に行こうとはしなかったのだろうか、ということが気になります。実際、父子が宿泊した「布袋館」と、親鸞が参籠した「頂法寺六角堂」は、かなり近い場所にあって、下の地図のような位置関係にあります。(マーカーの(布)が布袋館、(六)が六角堂)

 布袋館から六角堂までの距離は1.2kmで、徒歩で15分ほどですから、これは旅館の朝食前の散歩にも、ちょうどよい感じです。しかし、二人が六角堂を訪ねたという話は、政次郎氏からこの旅行について聴きとりをした小倉豊文氏も、佐藤隆房氏も、堀尾青史氏も、誰も記録していませんので、実際には行かなかったのでしょう(「父子関西旅行に関する三氏の記述」参照)。
 仏典に詳しい政次郎氏のことですから、叡福寺、大乗院と来て、六角堂を意識しなかったはずはないと思うのですが、この時は賢治への配慮もあったのでしょうか。大乗院は、純粋に親鸞の旧蹟ですが、叡福寺には賢治の信仰する日蓮も若い頃に参籠したという有名な逸話があり、こちらは親鸞だけでなく日蓮とも関連した「所縁の地」でした。叡福寺に関しては、親鸞と日蓮の共通のルーツを訪ねるという、この旅の趣旨に合致した場所だったのです。

 それから、親鸞は19歳の時に叡福寺の聖徳太子廟で、「お前の余命は十余年」と宣告されたにもかかわらず、実際には90歳まで生きましたが、賢治は22歳になる夏に体調不良で岩手病院を受診して「肋膜の疑い」と言われ、親友の河本義行に「私の命もあと15年」と書き送り、まさにその15年後に37歳で世を去りました。
 たんに肋膜の「疑い」があったというだけで、岩手病院の医者がそのような「お告げ」をするとは思えませんから、これは賢治自身の何らかの「直観」による言葉だったのだろうと思われますが、こちらの方は、残念ながらそのとおりの結果になってしまったわけです。