けつしてひとりをいのつてはいけない

 252行に及ぶ長大な「青森挽歌」の最後は、次にようして終わります。

     《みんなむかしからのきやうだいなのだから
      けつしてひとりをいのつてはいけない》
ああ わたくしはけつしてさうしませんでした
あいつがなくなつてからあとのよるひる
わたくしはただの一どたりと
あいつだけがいいとこに行けばいいと
さういのりはしなかつたとおもひます

 これからサハリンへと向かう夜汽車の中、妹トシの死をめぐって延々と苦しい思索を続けてきた賢治が、この時とりあえずたどり着いた結論が、これでした。
 以前「「青森挽歌」の構造について(1)」という記事で書いたように、この作品において《二重括弧》で印付けられたテキストは、作者がこの時「幻聴」として耳にした言葉だったと考えられます。したがって、ここに現れる《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》という言葉は、それまで思索に沈潜していた賢治にとっては、その意識を破って突然にどこかから降ってきた「メッセージ」として、体験されたことでしょう。そして、その意味深長な内容に鑑みれば、これは当時の賢治にとって、「如来」か誰か超越的な存在から与えられた、一種の「啓示」のように響いたのではないかと思います。

 この言葉を受けとった賢治は、「ああ わたくしはけつしてさうしませんでした」と弁明し、さらに「妹だけが救われるように祈ったことは一度もない」と、付け加えます。
 しかしここで賢治の答えが、「さういのりはしなかつた!」と自信を持って確言するのではなくて、「…とおもひます」と気弱な表現になっていることは、目を引きます。この賢治はまるで、生徒が教室で不意に先生から指名されて、どぎまぎしながら答えているようにも見えます。
 自分がそう祈ったのか祈らなかったのか、本人ならわかっているでしょうに、なぜ彼はこんなにうろたえているのでしょうか。

 そこでこのやり取りをもう少し細かく見てみると、彼が狼狽している理由が、何となくわかってくる感じがします。実はここで幻聴の主は、「けつしてひとりをいのつてはいけない」と言っているのに対して、賢治は、「あいつだけがいいとこに行けばいいと/さういのりはしなかつた…」という風に、ほんの少し焦点をずらして応答しているのです。
 確かに賢治は、「妹だけがいい所に行き、他の人は行かなくてよい」などと祈ったことは、一度たりともなかったでしょう。しかしここで彼に提示された命題は、「ひとりをいのつてはいけない」だったのです。妹が亡くなってからの賢治は、もちろん他の人のことを祈ることもあったでしょうが、おそらくその厖大な時間を、「たつたひとりのみちづれ」である妹の死後の行方について心を悩ませ、その幸いを祈ることに、費やしていたのではないでしょうか。彼が、自分の妹という「特定の一人」のことを祈っていた事実は、否定しようがありません。
 賢治はそれを自覚していたので、「けつしてひとりをいのつてはいけない」という厳しい指摘によって、まさに己れの痛いところを突かれたのだと思います。そして動揺しながらも咄嗟に、「でも、あいつだけが、とは祈っていないと思う」と返答するしかなかったのだと思うのです。
 これは些細なことのようですが、賢治は信仰においてこういう細部にもこだわる潔癖さを持つ人だったので、彼がこの場でこの答えを返したことで、己れを無罪放免にできたとは、到底思えません。
 以後この問題は、彼の心に深く刺さる棘となって、彼に解決を迫りつづけることになったでしょう。

 私が思うに、トシの死後ずっとその輪廻転生先について心を悩ませていた賢治は、自分が肉親の情にとらわれてひたすら「ひとり」のことばかり考えつづけていることに対して、すでにこの時点までにかなりの葛藤を抱きつつあったのではないでしょうか。
 その葛藤の由来は、「いつまでもそんなことばかり考えていても、どうにもならないじゃないか」とか、「この頃の俺は本当にどうかしている」というような、現実的理性の声でもあったでしょうし、「個人の幸福ではなく、世界ぜんたい、全ての衆生の幸福を追求すべし」という、彼の本分たる大乗仏教的倫理観との齟齬にもあったでしょう。
 そしてまたしても「ひとり」について考える「青森挽歌」の、長く苦しい思索による疲労が極限に達した時、彼はもはやそのような内心の矛盾を、意識下に抑圧しておくことができなくなったのでしょう。そしてその矛盾を破るべく彼の「超自我」からの声は、仏教的な装いをまとい、まさに超越的な「幻聴」として彼を襲ったのだと思います。

 そしてこれ以降、トシの死をめぐる賢治の苦悩には、さらにもう一つの要素が追加されることとなりました。それまでもテーマとなっていた、「トシは今どこにいて何をしているのか」という懸案に加えて、そういった疑問に心を悩ませつつ、なおかつ同時に「けつしてひとりをいのつてはいけない」という新たな命題をも顧慮しなければならないという、まさに「ジレンマ」を背負いこんだのです。

 この命題は、その後の賢治の作品においても探求が続けられます。
 賢治がサハリンから帰って書いた「〔手紙 四〕」においては、これは次のように変奏されます。

チユンセはポーセをたづねることはむだだ。なぜならどんなこどもでも、また、はたけではたらいていゐるひとでも、汽車の中で苹果をたべてゐるひとでも、また歌ふ鳥や歌はない鳥、青や黒やのあらゆる魚、あらゆるけものも、あらゆる虫も、みんな、みんな、むかしからのおたがひのきやうだいなのだから。

 また、「銀河鉄道の夜」(初期形第三次稿)では、「黒い大きな帽子をかぶった青白い顔の瘠せた大人」が、次のように言いました。

「おまへのともだちがどこかへ行ったのだらう。あのひとはね、ほんたうにこんや遠くへ行ったのだ。おまへはもうカムパネルラをさがしてもむだだ。」
「ああ、どうしてさうなんですか。ぼくはカムパネルラといっしょにまっすぐに行かうと云ったんです。」
「あゝ、さうだ。みんながさう考へる。けれどもいっしょに行けない。そしてみんながカムパネルラだ。おまへがあうどんなひとでもみんな何べんもおまへといっしょに苹果をたべたり汽車に乗ったりしたのだ。だからやっぱりおまへはさっき考へたやうにあらゆるひとのいちばんの幸福をさがしみんなと一しょに早くそこへ行くがいゝ。そこでばかりおまへはほんたうにカムパネルラといつまでもいっしょに行けるのだ。」

 これは、その後ずっと賢治に課せられつづける宿題となったのです。

 しかしあらためて考えてみると、そもそもなぜ、「ひとりをいのつてはいけない」のでしょうか?

 《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》という言葉は、前半部分に表れている輪廻転生観からしても、明らかに仏教的な命題であると言えるでしょう。しかし、本当に仏教ではそのように考えられているのでしょうか。
 「故人の冥福を祈る」とか、「誰それの供養のためにお経を上げる」とか、特定の誰か一人のために祈りを捧げるという行為は、仏教的にも広く行われている事柄ではないでしょうか。

 これに関して、まずは賢治が深く信仰していた日蓮の教えを見てみましょう。
 すると日蓮自身は、近親者を亡くした遺族が、故人の死後の幸いを祈るのは当然のことであり、またそれは善いことでもあり、大いに行うよう積極的に勧めていたことがわかります。

 例えば次の書簡は、10年前に父を亡くした南条時光という信徒が、身延山にいる日蓮に「かしら芋」を贈ったことに対して、日蓮が書いた礼状です。(『上野殿御返事(阿那律果報由来)』)

〔前略〕
此の身のぶのさわは石なんどはおほく候。されどもかゝるものなし。その上夏のころなれば、民のいとまも候はじ。又御造営と申し、さこそ候らんに、山里の事ををもひやらせ給ひてをくりたびて候。所詮はわがをやのわかれをしさに父の御ために釈迦仏・法華経へまいらせ給ふにや。孝養の御心か。
さる事なくば、梵王・帝釈・日月・四天その人の家をすみかとせんとちかはせ給ひて候は、いふにかひなきものなれども、約束と申す事はたがへぬ事にて候に、さりともこの人々はいかでか仏前の御約束をばたがへさせ給ふべき。もし此事まことになり候はば、わが大事とおもはん人々のせいし(制止)候。又おほきなる難来るべし。その時すでに此の事かなうべきにやとおぼしめして、いよいよ強盛なるべし。
さるほどならば聖霊仏になり給ふべし。成り給ふならば来りてまほ(守)り給ふべし。其の時一切は心にまかせんずるなり、かへすがへす人のせいし(制止)あらば、心にうれしくおぼすべし。恐々謹言。

 すなわち、時光が忙しい中をわざわざ日蓮に贈り物をしたのは、亡き父への別れ惜しさから、父の供養として釈迦仏・法華経に捧げたのであって、その行ないは時光の孝養心の表れであると、日蓮は解釈しています。そして、時光がその心がけで信仰に励むならば、必ずや父の聖霊は成仏するであろうこと、そして成仏したならば息子である時光のところへ来て、時光を守護してくれるだろうと述べ、励ましているわけです。
 これを賢治の場合にあてはめてみれば、トシへの供養を贈る先としては、「日蓮聖人に従ひ奉る様に田中先生に絶対服従致します」(書簡177)と彼自らが帰依した田中智学に、すなわち国柱会に贈るべきだということになるでしょう。そして実際、賢治がトシの死後まもなく国柱会あてに「金壱百円」を贈ったことが、この年12月23日付け『天業民報』に掲載されています(「●金壱百円也 岩手宮沢賢治殿/(右は令妹登志子遺志ニ依リ)」)。賢治の農学校の月給が80円だった頃のことです。
 日蓮の書簡の言葉を信じれば、このような追善供養をして信仰に励めば、トシは必ず成仏できるはずですし、成仏したら賢治のところへ来て、彼を守護してくれるに違いありません。

 また、次の書簡は、富木常忍という下総の信徒が、母を亡くした翌月にその母の遺骨を首に懸けて、はるばる身延山まで日蓮を訪ねてきたという出来事を受け、その信徒の帰国後に送ったものです。(『忘持経事』)

〔前略〕
離別忍び難きの間、舎利を頸に懸け足に任せて大道に出で、下州より甲州に至る。其の中間往復千里に及ぶ。国々皆飢饉して山野に盗賊充満し、宿々粮米乏少なり。我身は羸弱にして所従亡きが若く、牛馬も期に合せず。峨々たる大山重々として、漫々たる大河多々なり。高山に登れば頭を天にウち、幽谷に下れば足雲を踏む。鳥に非ざれば渡り難く、鹿に非ざれば越え難し。眼は眩き足は冷ゆ。羅什三蔵の葱嶺・役の優婆塞の大峰も只今なりと云云。
然る後、深洞に尋ね入りて一庵室を見る。法華読誦の音青天に響き一乗談義の言山中に聞ゆ。案内を触れて室に入り、教主釈尊の御宝前に母の骨を安置し、五躰を地に投じて合掌し、両眼を開き尊容を拝するに、歓喜身に余り心の苦み忽ち息む。我が頭は父母の頭、我が足は父母の足、我が十指は父母の十指、我が口は父母の口なり。譬へば、種子と菓子(このみ)と、身と影との如し。教主釈尊の成道は浄飯・摩耶の得道なり。吉占師子・青提女・目ケン尊者は同時の成仏なり。是の如く観ずる時無始の業障忽ち消え、心性の妙蓮は忽ちに開き給ふか。然して後に随分仏事を為し、事故無く還り給ふ云云。恐々謹言。

 すなわち富木常忍は、母との離別に耐えかねて、母の遺骨を首に懸け、困難な道を足に任せて下総から身延まで馳せ参じ、日蓮と感動の再会を果たします。そして遺骨を釈尊の宝前に安置し五体投地をして合掌し、目を開いて釈尊の像を拝むと、歓喜が身に余り心の苦しみも消えて、「我が頭は父母の頭、我が足は父母の足、我が十指は父母の十指、我が口は父母の口なり」という、亡き父母との一体感に打たれたというのです。そして日蓮の記述は、「親子の同時成仏」という事柄にまで至ります。
 常忍はこの法悦的体験の後、「随分仏事を為し」とありますが、その中には苦労して持参した母の遺骨を、身延山に埋骨するという手続きも含まれていたはずです。
 これを賢治の場合にあてはめてみれば、富木常忍の身延山行きは、「トシの遺骨を国柱会まで持参して納骨する」ということに相当するでしょう。ちなみに、国柱会から授けられたトシの戒名は、死の翌年1月9日付けになっていますから、この時に納骨が行われたと考えるのが、まずは自然です。
 実際、ちょうど1月11日まで賢治は弟清六とともに東京に出てきていて、その間一時的に賢治は姿をくらましていたと清六は回想していますから、『新校本全集』年譜篇は、「この時の(賢治の)行動は明確ではないが、静岡県三保の国柱会本部へ行ったと推定される」としています(p.252)。ただし、国柱会への納骨については、同年の春に父政次郎と妹シゲが行ったというシゲの回想もありますので、「賢治は東京で納骨の手続きのみを行ない、遺骨は父とシゲが持参した」という堀尾青史氏の見解も、年譜篇には併記されています。
 どちらにしても、トシの遺骨が翌年春までに、遺族の手によって国柱会本部に納骨されたことは確かです。

 日蓮が死者の供養について説いた遺文は他にもありますが、管見のかぎりで典型的と思われた二つの例を挙げてみました。いずれにおいても日蓮は、特定の故人を思う遺族が供養の品を日蓮に贈ったり、あるいは遺族が納骨に来たりすることを賞賛し、そのような行ないは故人にとっても遺族にとっても価値あるものだということを、力説しています。「ひとりをいのる」ことを、積極的に肯定しているのです。
 そして、現に賢治はトシの死を受けて、当代における日蓮の代理とも考えた田中智学=国柱会のもとへ、日蓮が書いたように追善供養を贈り、また納骨も行いました。
 賢治が日蓮の言葉を本当に信じていたならば、これだけのことをしたからにはもう、トシの成仏を確信して何も思い悩む必要はないはずですし、自分がこうやってトシという「ひとり」の肉親のことを切に祈っていることに対して、何ら後ろめたい思いを抱くこともないはずです。

 それなのに、いったい賢治はなぜ、「けつしてひとりをいのつてはいけない」などと考えたのでしょうか。

 ここで日蓮から目を転じて、賢治もある時期まで深く信仰していた、浄土真宗の教えを見てみましょう。
 親鸞の言葉を弟子が書き記した『歎異抄』の「第五条」には、次のように書かれています。

一 親鸞は、父母の孝養のためとて、一返にても念佛まふしたることいまださふらはず。
 そのゆへは、一切の有情は、みなもつて世々生々の父母・兄弟なり、いづれもいづれも、この順次生に、佛になりて、たすけさふらうべきなり。
 わがちからにてはげむ善にてもさふらはばこそ、念佛を廻向して、父母をもたすけさふらはめ。ただ、自力をすてて、いそぎ(浄土の)さとりをひらきなば、六道・四生のあひだ、いづれの業苦にしづめりとも、神通方便をもて、まづ有縁を度すべきなりと云々。

【現代語訳】 この親鸞は、亡き父や母の孝行のために追善供養のお念仏を申したことは一度もありません。
 そのわけは、すべてのいのちあるものは、遠いむかしから今まで、いくたびとなく生まれかわり死にかわりするあいだに、あるいは父母となり、または兄弟姉妹となってきました。したがって、この世のいのちがおわって、浄土に生まれて仏になったうえで、すべてのいのちあるものを助けなければなりません。
 この念仏が、もしわたしが善い行ないをつみ重ねた上で得たのであれば、その念仏の功徳を父や母にさしあげて、お助けすることもできましょう。しかし、この念仏はわたしの力で得たものではありません。
 そういうことですから、自力の思いをすてて、すみやかに浄土に生まれてさとりを開いたならば、父母や兄弟姉妹たちが、迷いの世界に生まれて、どのような苦しみの中にあろうとも、仏の持つ不思議な力によって、まずこの世で縁のあったものから救ってさしあげます。
 このように、聖人は仰せになりました。
                   (角川ソフィア文庫『歎異抄』より)

 親鸞は、自分の父母のために祈ったことは一度もないと言い、その理由として、(1)限りない時間をかけて輪廻転生を繰り返すうちに、全ての生物が一度は自分の父母兄弟となったことがあるのだから、かりに今生だけの肉親を救ったとしても、そのことに本質的な意味はない、(2)自力で父母を救おうなどというのは思い上がりにすぎず、我々はただ他力による浄土往生を願うほかはない、という二点を挙げています。
 だから我々が目ざすべきことは、まずは「いそぎ(浄土の)さとりをひらき」、その後に、「神通方便をもて、まづ有縁を度すべき」だとしているのです。先日の「なぜ往き、なぜ還って来たのか(3)」という記事に出てきた言葉にすれば、まずさっさと「往相」を遂げて、その後「還相」によって皆を救済せよ、ということですね。

 この親鸞の言葉を見ると、「一切の有情は、みなもつて世々生々の父母・兄弟なり」という部分は、明らかに賢治の命題の中の「みんなむかしからのきやうだいなのだから」というところに、対応しています。
 そして、親鸞は「ひとりをいのつてはいけない」などと、表面上は禁止の言葉までは述べていませんが、自分の力で「祈る」などという行いは、親鸞の立場からすれば「本願他力の意趣にそむく」ことになるでしょう。すなわち、親鸞からすれば、「ひとりを」であろうと「一切の有情を」であろうと、いずれのために「祈る」ことも、煩悩具足の我らにとっては、身の程知らずの愚行にすぎないのです。

 ということで、《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》という、「青森挽歌」に現れてその後しばらく賢治の課題となった言葉は、親鸞の思想に由来しているのではないかと、私は考えるのです。
 賢治は、親鸞には幼い頃から親しんでいましたから、その考えや言葉がふと心の底から湧き出してくるということは、可能性としてはありえることかもしれません。しかしそれにしても、上に引用したような日蓮の考えをしっかりと胸に刻んでおれば、何も己れの針路を、「けつしてひとりをいのつてはいけない」などという方向に定めることはなかったのではないかとも思うのです。

 いったいなぜ当時の賢治は、まるで日蓮の教えから離れるかのようにして、むかし信じた親鸞的な思想に回帰するに至ったのでしょうか。

 この疑問への答えとして、私が考える一つの仮説は、トシの死後しばらくの間の賢治は、かなり深刻な信仰上の迷いに陥っていたのではないか、というものです。
 それは例えば、「宗谷挽歌」における、「私たちの行かうとするみちが/ほんたうのものでないならば…」とか、「われわれが信じわれわれの行かうとするみちが/もしまちがひであったなら/究竟の幸福にいたらないなら…」という箇所にも、表れているのではないかと思います。

 そして、それにも増して私がどうしても考えずにいられないのは、トシの死後の宮澤家の状況です。
 もちろん、家族全員がトシの死を深く悲しんでいたことでしょう。しかし、浄土真宗に深く帰依する父や母や妹たちは、トシの死後の「行方」などについて思い悩むこともせず、そんなことは他力に任せ、ただ阿弥陀如来の回向だけを信じて、家族一緒に静かに仏壇に向かい、南無阿弥陀仏を唱えていたことでしょう。
 これに対して、「信仰を一つにするたつたひとりのみちづれ」を失ってしまった賢治には、もはや家庭内に「同じ立場で」悲しみを共有できる同志はありませんでした。たった一人、二階の自室の「御本尊」の前で、南無妙法蓮華経を唱えるしかなかったのです。そして、悲しめば悲しむほど、賢治の孤立は深まり、苦悩も大きくなっていったでしょう。

 そもそも、深い心の傷を負った人間に、回復の希望を与えうるものがあるとすれば、それは周囲の人々との「つながり」です。逆に言えば、深く傷ついた人にとって、最も恐るべき事態は、「孤立」です。
 トシの死後の宮澤家において、これは家族の誰の悪意によるものでもなかったのですが、賢治は自ずと宗教的孤立に追い込まれざるをえませんでした。唯一人でトシを悼むしかない賢治の目から見ると、自分以外の家族は皆、ともに悲しみを分かち合い、おそらく真宗的な諦観も漂わせながら、淡々と日常を送っていたことでしょう。
 その状況が生まれた原因は、法華経や日蓮の教義にあるわけではなく、ただ賢治の中で、深い悲しみと孤立が悪循環を形成していただけなのですが、賢治にとっては、この己れの苦しみは自らの信仰に由来する問題なのかと、ふと感じることもあったでしょう。そのような迷いが、「われわれが信じわれわれの行かうとするみちが/もしまちがひであったなら/究竟の幸福にいたらないなら…」というような言葉を生じさせる要因にもなったのではないかと、私は思うのです。

 そして、トシの死の前後の賢治を襲ったそのような宗教的苦悩が、前回に書いた「往相」と「還相」という真宗的な物語の構造や、今回述べたような親鸞的思想への揺り戻しを、彼にもたらしたのではないかと、そんな風に私は考えてみるのです。