松岡幹夫著『宮沢賢治と法華経』

 松岡幹夫著『宮沢賢治と法華経――日蓮と親鸞の狭間で』(昌平黌出版会)という本を読みました。

宮沢賢治と法華経―日蓮と親鸞の狭間で 宮沢賢治と法華経―日蓮と親鸞の狭間で
松岡 幹夫
昌平黌出版会 2015-03-27
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 著者の松岡幹夫さんという方は、日蓮の思想を専門とする研究者のようですが、宮澤賢治のさまざまな作品や、生涯のエピソードの検討を通して、彼の思想を仏教的な観点から分析しておられます。サブタイトルに「日蓮と親鸞の狭間で」とあるように、これまで多くの人が論じてきた日蓮や法華経との関連のみならず、親鸞の思想とのつながりも注意深く浮き彫りにしていく部分が、私にとっては特に勉強になりました。

 「序文」においては、現実を重視した日蓮や田中智学は「此岸性」の人であったのに対して、賢治が書いたものは結局「彼岸性」の文学であり、これが賢治の人気にもつながっているとともに、むしろ親鸞の思想と親和性に基づいているという点が、まず指摘されます。
 とは言えもちろん、賢治は20歳すぎから死ぬまで「法華経」に帰依していたわけですが、その賢治の法華経信仰に見られる独自の特徴として著者は、「真宗的」、「体験的」、「寛容的」という、三つの点を挙げておられます。

 まず「真宗的」という側面は、賢治自身が物心ついた時から、浄土真宗の篤い信仰の中で育ったことによるところが大きいわけですが、私自身も最近「なぜ往き、なぜ還って来たのか(3)」や「けつしてひとりをいのつてはいけない」などという記事において、親鸞および浄土真宗と賢治の考えの関連について書いたばかりでしたから、大変に共感するところでした。

 次の「体験的」というのは、賢治が持って生まれた性向として他者の苦しみへの敏感さがあり、このような独特の感受性が、彼が法華経を理解する上での体験的な基盤となっているということです。法華経に描かれていることは、賢治自身の実感でもあり、それが彼の作品のリアリティを形づくっているのです。
 このような、賢治の生来の精神性と思想の連続については、私も以前に「9月に比叡山でお話ししたこと(1)」などで書いたことであり、これもまったく同感でした。

 最後の「寛容的」というのは、賢治が少なくとも後半生においては、自らが信じる法華経を一方的に人に押しつけることはせず、「銀河鉄道の夜」初期形の「お互ほかの神さまを信ずる人たちのしたことでも涙がこぼれるだらう」という言葉に表れているような、宗教的普遍性も目ざしていたというところです。
 ただ、賢治も若い頃には、周囲の人々に激しく改宗を迫る「折伏」を行っていました。これが、上記のように「寛容」な態度に変化していった大きな境目は、1921年(大正10年)頃にあったのでしょう。この家出上京中に賢治は、父とは和解の二人旅を行い、また親友保阪嘉内に対してはおそらく強く改宗を迫った結果、気まずい別れを経験します。そして、東京から自宅に帰ってからは、それまでのように排他的な態度は見せなくなるのです。

 続いて本文に進むと、本書の中で私にとって特に読みごたえがあったのは、「第一章 『銀河鉄道の夜』の言葉と『法華経』の思想」と、「第三章 宮沢賢治における法華経信仰と真宗信仰――共生倫理観をめぐって」という、二つの章でした。

 第一章においては、「銀河鉄道の夜」のテキストに出てくる種々のキーワード、すなわち「銀河」、「地図」「切符」、「みんな」「いっしょ」、「さびしい」「かなしい」「つらい」、「どこまでも」、「ほんたう」という言葉を、文脈に即しつつ仏教的な観点から検討し、各々における法華経的な意味、浄土真宗からの影響、そしてそこに込められた賢治独自の思いが、明らかにされていきます。
 この章は、詳細な作品分析を通して見た、賢治の仏教思想論と言えます。

 第三章は、こんどは賢治の生涯を経時的にたどりながら、その考えの変遷を、浄土真宗と法華経との関連のもとに跡づけていく論考です。そして著者は、彼の思想の最も特徴的な部分を、現代的な意味での「共生倫理観」として取り出します。
 賢治の宗教意識の中には、「自覚的な法華経信仰」と「無自覚的な真宗信仰」が共存していたと著者は見ていますが、これら両者が、単に矛盾的に併存するのではなく、「共生」や「自己犠牲」という主題を通して、相互に交渉・浸透し合い、新たな宗教意識を生み出したとも言えるところが、賢治の独自性であったと、著者は指摘します。
 そのまとめ的な一文を、下記に引用させていただきます。

 さて、以上のごとくみてくると、賢治の共生的倫理観は、彼個人の共感的性格、幼少期に培われた真宗的精神性、『法華経』の大乗的成仏観や捨身思想、大等・智学によって性格づけられた法華経信仰、これらが渾然一体となって相互に浸透しあう中で形成され、さらには近代的知識人としての文学思想的あるいは科学的な教養もそこに加わって展開されたものであった、と結論づけるのが最も穏当であろう。(p.229)

 この結論に至るまでの、作品の綿密な検討や仏教思想的分析に関しては、何よりも本書を読んでいただくのが一番かと思います。

 なお、晩年の「〔雨ニモマケズ〕」に表れている倫理観は、「自力主義と他力主義の両面から共生の実現を目指す」ものであると著者は指摘しておられますが、これは私も以前に、『イーハトーブセンター会報』に「情熱(パッション)から受苦(パッション)へ―イーハトーブ〈災害〉学」という題名で書かせていただいた文章の最後に、日蓮と親鸞という二人の名前を出したことへもつながるものであり、この点も本当に「我が意を得たり」と感じ入りました。

 というような感じで、思わず私自身が共鳴するところからたくさんのリンクを張ってしまいましたが、この本は、宮澤賢治の思想を仏教的観点から考える上では、多くの方々にとって非常に有益なものなのではないかと思います。