三陸旅程後半に関する疑問いくつか

 今からちょうど90年前、1925年(大正14年)の1月に、賢治は一人で真冬の三陸地方を旅行しているのですが、この旅行はその目的も具体的な日程も不明で、いろいろと謎に包まれているものです。
 この旅行に関して、『新校本全集』の「年譜篇」に掲載されいている大まかな日程の推測は、以下のようなものです。

〔一月〕
五日 夜陸中種市から久慈へ向う。
六日 暁穹に百の岬が明ける。この夜安家(下安家と推定)
   に宿泊。
七日 下安家より普代を経て羅賀へ出、ここより発動機船に
   乗り夜宮古港着、宿泊したか夜〇時発三陸汽船にの
   りかえ釜石に向かったか(あるいは「函館航路」の他
   の臨機寄港地を用いたか)。
八日 宮古〇時発ならば午前一一時二〇分釜石着。天神町の
   叔父宮沢磯吉家に宿泊。
九日 釜石を出発。仙人峠より釜石湾を見る。仙人峠一二時
   三五分発ならば花巻着午後四時三〇分、三時五五分
   発ならば夜七時四五分着。
以上はあくまでも推測で、詩の内容・日付やノートだけでは確定は困難である。(『新校本宮澤賢治全集』第十六巻(下)年譜篇p.286-287より)

 また、木村東吉氏は、『宮澤賢治《春と修羅 第二集》研究』(渓水社)において、上記『新校本全集』年譜篇における推測をおおむね踏襲しながらも、7日の発動機船乗船地を、羅賀ではなく、下安家、堀内、大田名部のいずれかであったと推定しておられます。
 この木村氏の推定については、当サイトの「旅程幻想詩群」というページで、ご紹介しています。

 発動機船乗船地に関しては、普代村の堀内港から乗船したとの説に基づき、2004年にこの堀内地区に「敗れし少年の歌へる」詩碑が建立されるなど、今も諸説がありますが、本日取り上げてみたいのは、翌1月8日の、宮古から釜石に向かったと思われる行程についてです。
 発動機船に乗ったのがいずれの港であったにせよ、いったん宮古港に入港したことは、「発動機船 三(下書稿(一))」に、「船は宮古の港にはいる」との一節が出てくることから明らかです。
 しかし、宮古から先の賢治の足どりは、非常にあやふやなものになります。

 1月9日付けの「」に、「釜石湾の一つぶ華奢なエメラルド/……そこでは叔父のこどもらが/みなすくすくと育ってゐた……」とあることから、1月8日の夜に賢治が、釜石の叔父宮澤磯吉宅に泊まったことは、確実と言ってよいと思われます。では、宮古から釜石まで、賢治はどうやって来たのでしょうか。
 ここで、1月8日付けの二つの作品、「発動機船〔断片〕」と、「旅程幻想」を参照しなければなりません。

 まず「発動機船〔断片〕」は、本文4行しかない書きかけの断片ですが、その内容から、作者は船に乗っていると考えられます。「月夜の海」という言葉が出てくることから、時刻は夜と思われますが、しかしこれが1月8日午後の夜だとすると、この晩は釜石の叔父宅に宿泊しているという先ほどの推定との関係で、やや困難が生じます。
 この日の夕方、暗くなってから釜石に向かう船に乗っていて、その後船を降りて叔父宅に行ったと考えることも無理ではありませんが、「Ke!sanサイト」で調べた1925年1月8日の釜石における月の出は15時6分、日の入りは16時44分で、この作品がスケッチされたのが、例えば18時頃だとしても、月の高度はまだ低く、「月夜の海」と言えるほどの情景になるかどうかは疑問です。
 そこで、この「発動機船〔断片〕」に描かれた「月夜の海」は、1月8日の未明の情景だと考えると、より辻褄が合うのです。上記『新校本全集』の年譜における、「宮古〇時発ならば午前一一時二〇分釜石着」という推測も、これと関連していると考えることができます。

三陸汽船時刻表 ちなみに、この「宮古〇時発ならば午前一一時二〇分釜石着」というのは、当時の「三陸汽船」の運航ダイヤです。
 賢治がこの三陸旅行において「三陸汽船」を利用した可能性については、最初に奥田弘氏が「宮沢賢治研究周辺資料〔十一〕」(1989)において指摘し(蒼丘書林『宮沢賢治研究資料探索』所収)、その後木村東吉氏が「旅の果てに見るものは―《春と修羅 第二集》三陸旅行詩群考―」(1994)において、運航時刻も調査されたものです。
 右の複写は、賢治の旅行の1年半前ですが、1923年(大正12年)7月号の『公認汽車汽船旅行案内』を、新人物往来社が1998年に復刻刊行したものです。
 2段目の「復航」欄の該当部分を抜き出すと、以下のとおりです。

宮古発 後 一二、〇〇
山田〃 前  三、四〇
大槌〃     七、三〇
釜石〃   一一、二〇

 この運航時刻に基づいて、『新校本全集』では「午前一一時二〇分釜石着」と推測したのでしょうが、しかしここで賢治が宮古から釜石まで三陸汽船に乗船したのだとしたら、やはり1月8日付けの「旅程幻想」の記述との間に、齟齬が生じてしまいます。
 すなわち、「旅程幻想」においては、「海に沿ふ/いくつもの峠を越えたり/萓の野原を通ったりして/ひとりここまで来たのだけれども…」とありますが、釜石港で下船した場合には、釜石の中心部にある叔父の家に行くまでの間で、こんなにいくつも峠を越えたりすることはありえないのです。
 そこで、木村東吉氏は『宮澤賢治《春と修羅 第二集》研究』において、賢治が三陸汽船を降りたのは山田港か大槌港のいずれかであり、そこから釜石までは徒歩で行ったと推測されました。
 こう考えれば、作品の日付および内容と、当時の時刻表を、ひとまず一致させることができます。
 しかしここで、どうしても次の疑問がわいてきます。

【疑問1】 賢治の目的地は釜石だったのに、なぜ釜石まで乗船せずに山田なり大槌なりで、途中下船してしまったのか?

ということです。
 山田から釜石までは30km、大槌から釜石なら15kmの道のりで、健脚の賢治ならばもちろん歩けないことはありませんが、寒風吹きすさぶ真冬の三陸海岸で、もしも歩かずにすむならばそれに越したことはないでしょう。
 この問題に対して木村東吉氏は、「なぜ釜石まで乗船しなかったのか現在からすれば不審だが、ボロ船で当時利用者の不満も高かった三陸汽船だったし、船荷の都合なども考えられる」と、記しておられます。

 この点に関しては何とも言えませんが、もしも賢治が何かこのあたりに用事があったとすれば、途中下船する明確な理由となります。個人的に少し気になるのは、賢治が1919年に東京から父に出した「書簡137」において、鉱物を扱う事業を始めたいと訴える中で、例として挙げられている鉱石が、「九戸郡の琥珀、貴蛇紋石 大槌の薔薇輝石」となっていることです。
 ここに登場する九戸郡も大槌も、この三陸旅行において徒歩で移動したと推測されている箇所に、ちょうど一致するのです。

 憶測はさておき、賢治が1月8日未明に宮古から山田または大槌まで「三陸汽船」に乗船したとすれば、この船上における描写が、同日の日付を持った「発動機船〔断片〕」だということになります。1925年1月8日の月の入りは午前4時3分ですから、深夜0時に宮古を出港して間もない頃であれば、まだ「月夜の海」であり、木村氏の調査によれば、この日の午前1時-4時の宮古地方の天候は快晴でした。月は海上に、晴れ渡って浮かんでいたことでしょう。

 しかしここで、また一つ疑問がわいてきます。

【疑問2】 「汽船」に乗ったのに、なぜ作品タイトルは「発動機船」なのか?

ということです。
 当然ながら、「汽船」とは、蒸気機関により推進力を得る船であり、「発動機船」とは、「発動機」すなわち内燃機関により推進力を得る船です。賢治が北三陸から宮古まで乗った船は、比較的小規模な「発動機船」だったのでしょうが、「三陸汽船」はもちろん「汽船」です。
 この疑問の答えとしては、三通りの可能性がありえるでしょう。

 一つ目は、賢治がこの時に乗ったのは「三陸汽船」ではなくて、題名どおり「発動機船」だった、という可能性。この場合、奥田弘氏から木村東吉氏に至る「三陸汽船説」は間違いだったということになってしまいますし、時刻の推定も不可能になります。
 この推測の難点は、当時は小規模な貨物輸送や旅客輸送を行っていたと思われる発動機船が、日中ではなくこんな真夜中の夜半から未明にかけて、はたして運航していたのかどうか、という問題です。ちょっと心もとない感じがします。

 二つ目は、賢治が「汽船」と「発動機船」の違いを意識せず、実際この時に乗ったのは汽船だったのに、北三陸で「発動機船」に乗ったという意識につられてか、ここでもタイトルを「発動機船」としてしまったという可能性。このように「作者が間違えた」と仮定するのは、考察としてあまりすっきりはしませんが、しかしこういう可能性も否定はできないでしょう。

 三つ目は、やはりこれも作者のミスを仮定してしまいますが、「発動機船〔断片〕」の「1月8日」との日付が間違いで、この断片は実は前日1月7日の発動機船による船旅を描いたものだったという可能性。これも多少の無理はありますが、ただこれは後で述べる、「発動機船 第二」と「発動機船〔断片〕」との関係にも関わってくる問題をはらんでおり、きちんと検討しておく必要はある仮説です。

 どれが正しいかについては何とも言えませんが、個人的には、上の二つ目の「実際は汽船に乗ったのに発動機船と書いてしまった」という可能性が、どうも棄てきれません。
 その理由の一つは、「発動機船〔断片〕」の本文4行目に、「船は真鍮のラッパを吹いて」と書いてあるところです。

 この「発動機船〔断片〕」のテキストは、「発動機船 第二」とかなり共通している部分が多いのですが、ここに出てくる「ラッパ」も、その共通する道具立ての一つです。
 ただ、ここが大きな違いかもしれないのですが、「発動機船 第二」においては、「船長は一人の手下を従へて/手を腰にあて/たうたうたうたう尖ったくらいラッパを吹く」とあり、ラッパを吹くのは「船長」です。
 これに対して、「発動機船〔断片〕」では、「船は真鍮のラッパを吹いて」となっていて、ラッパを吹く主体は、「船」なのです。

 さてここで、人間ではなくて「船がラッパを吹く」というのは、擬人的表現と読むのでなければ奇妙なことに思えますが、一つだけ文字通りの解釈もありえます。このラッパが、「汽笛」だったと考えてみたらどうでしょうか。
 「汽笛」というのは、蒸気船において、動力に用いる蒸気のあまりを配管で引いてきて、これを必要な時にラッパに通し、大きな音を発生させるものですから、吹いている主体は「船」そのものです。
 一方、動力源が発動機である場合には、蒸気機関のように高圧の気体を取り出すということはできませんので、船から周囲に向けて信号を送るためには、人間がラッパを吹くなどの手段が必要となります。

 したがって、賢治が「発動機船〔断片〕」における「船は真鍮のラッパを吹いて」という言葉を、その文字通りの意味で書いたのだとすれば、このラッパは「汽笛」だったということになり、ならばその船は「汽船」であった、という結論になります。
 この場合、タイトルの「発動機船」は誤りで、賢治が乗っていたのはやはり「三陸汽船」だったと考えるべきでしょう。
 これは、何かの確定的な証拠になるというほどの事柄ではありませんが、「三陸汽船説」に味方する小さな材料とは言えるかもしれません。

 さて、上にも少し触れたように、「発動機船〔断片〕」と「発動機船 第二」のテキストの間には、かなりの重なり合った部分があります。
 すでに挙げた「ラッパ」もその一つですが、それ以外に、前者の1行目の「水底の岩層も見え」は、後者の18行目の「青じろい岩層も見えれば」に対応し、前者2行目の「藻の群落も手にとるやうな」は、後者19行目の「まっ黒な藻の群落も手にとるばかり」に、前者3行目の「月夜の海」は、後者9行目「月のあかり」に対応します。
 これほどまでに、二つのテキストの素材が共通しているのですから、これらが密接に関連していると考えるのはある意味当然で、このため『新校本全集』では、「発動機船〔断片〕」の発展形が「発動機船 第二」であると位置づけられています。すなわち、前者が「改作」されて後者になったのであり、もとになる作者の体験は、同一だったと判断しているわけです。

 しかしそのように考えると、新たな問題が発生してきます。
 一つには、上にも述べたように、両者の「ラッパ」は一見共通していても、一方は「船が」吹き、他方は「船長が」吹いているわけで、船自体も「汽船」と「発動機船」という違いがあるかもしれないのです。
 またもう一つ、これよりさらに厄介なことになるのは、「発動機船 第二」の前身が「発動機船〔断片〕」であるのなら、「発動機船〔断片〕」で描かれていた情景は、時間的には「発動機船 一」と「発動機船 三」との間に位置するはずです。賢治の詩作品では、「小岩井農場」や「種山ヶ原(下書稿(一))」などに、漢数字によるパートが記されていますが、数字は時間経過の順に並べられており、この場合も、現実の時間経過は、「発動機船 一」→「発動機船 第二」→「発動機船 三」、という順番だったと考えるのが当然でしょう。
 しかしそうであれば、「発動機船 三」は宮古港に入る前の情景を描いており、1月7日夜のことであるのはほぼ確実なのに、これでは「発動機船〔断片〕」に記されている「1月8日」という日付と順序が逆になってしまうのです。
 そこで、『新校本全集』のように、「発動機船 第二」は「発動機船〔断片〕」の発展形であると考えるためには、後者に記されている「1月8日」の日付は作者の誤記であり、実際は「1月7日」のことだったと考える必要が出てくるのです。
 これは、上で【疑問2】の答えとして考えた、「三つ目の可能性」に対応します。
 これは、可能性として否定はできないのですが、こう考えるとすれば、1月8日に賢治が船に乗ったと考える根拠は、何もなくなります。
 賢治の足どりも、完全に闇の中に消えてしまうわけです。

 いずれにしても、賢治が誤記をしたと仮定せざるをえないこの説に対しては、疑問を抱く人があっても無理はないでしょう。

【疑問3】 「発動機船〔断片〕」は、「発動機船 第二」の発展形なのか?

 これを「発展形である」と考える『新校本全集』の立場に対して、木村東吉氏は、取材の場所も異なる別作品と考え、次のように述べておられます。

 なお、『新・校本全集』では、「発動機船 第二」を『第二集』の「発動機船」〔断片〕の発展形とみなしたためか、「第二集補遺」に収めている。しかし、作品中で真鍮のラッパを吹いている点では共通していても、創作日付を信ずるなら『第二集』の断片稿は宮古から乗船した後の旅に取材しているはずで、羅賀を想定させる「発動機船 第二」とは、取材の場所も異なる。その順序も『第二集』の「発動機船」は『口語詩稿』の「発動機船 三」の後に位置するはずのものである。(『宮澤賢治《春と修羅 第二集》研究』p.206)

 「発動機船 第二」が「羅賀を想定させる」かどうかという点に関しては、私としては判断を保留しますが、やはり私も木村氏のように、「発動機船〔断片〕」の日付を尊重したいという気持ちはあります。
 ただしその場合、この二つのテキストがここまで似通っていることを、どう説明するかという問題は発生します。

 というような感じで、賢治の三陸旅行の後半は、まさに「謎だらけ」なのですが、最後にもう一つ、どうしても気になる疑問を挙げておきます。

【疑問4】 「旅程幻想」の舞台はどこなのか?

 1月8日の日付を持つ「旅程幻想」に漂う、孤独感、寂寥感、不安感は何とも印象的で、私にとっては忘れられない作品の一つです。賢治はいったいどこの河原でこのような休息をとったのだろうと、これまであてもなく思ってみたりもしましたが、自分では何の手がかりも見つけられませんでした。
 実はこれについて、大槌町において考えておられる方がいらっしゃるようですので、一度お話をお聴きしたいものだと思っているところです。

『公認汽車汽船旅行案内』附録図
『公認汽車汽船旅行案内』大正十二年七月号より