三陸の賢治詩碑の現況(5)

 先の連休に岩手方面へ行っていたのですが、その際にやっと、陸前高田市の高田高校にあった「農民芸術概論綱要」碑に、再会することができました。一昨年11月に行った時には目にすることができなかったもので、再会できたのは正確には碑の全体ではないのですが、今回はそのご報告をいたします。

 岩手県陸前高田市にある県立高田高校に、宮澤賢治の「農民芸術概論綱要」の一節を刻んだ石碑が建てられたのは、1972年(昭和47年)のことでした。
 当時校長をしていた鈴木實氏が、東北砕石工場で賢治と一緒に仕事をしていた鈴木東蔵工場長の長男であるという縁もあって、宮澤清六氏はこの年の8月に、高田高校に寄付を行ったのだそうです。そして、そのお金の使途について関係者が協議した結果、これを基にして賢治の詩碑を作ろうということになりました。碑文には、たまたまこの2年前の1970年(昭和45年)に、学校創立40周年記念として講演を行った谷川徹三氏が揮毫した「農民芸術概論綱要」の一節の色紙が、銅板にして使用されました。
 碑石は、陸前高田市内を流れる気仙川の上流、住田町上有住字桧山というところから、河原の転石を選んで運んできたのだということです。

 下記が、在りし日のこの石碑です。高校の正面玄関左横に、鎮座していました。

在りし日の「農民芸術概論綱要」碑

 ちなみに鈴木實氏は、高田高校に続いて、遠野高校、花巻北高校という、県立の名門校の校長も歴任しますが、それぞれの学校における在職中に、「農民芸術概論綱要」碑(遠野高校)、「ポラーノの広場のうた」碑(花巻北高校)という賢治碑を建立しています。3つの碑とも、碑文が銅板に刻まれているところも共通点です。

◇          ◇

 さて、東日本大震災とその津波によって高田高校では、死亡または行方不明の生徒が計22名という、東北3県の高校としては最大の被害を蒙りました。海から1kmも内陸にありながら、校舎は3階天井までもが浸水し、全壊というべき状態となりました。
 学び舎を失った生徒や先生たちは、隣の大船渡市で廃校になっていた旧・大船渡農業高校の校舎を借り受けることとなり、授業が再開できたのはやっと2011年5月2日からということで、これは岩手県内の学校で最も遅いものでした。生徒たちは毎朝、陸前高田市内からスクールバスを連ねて、大船渡市郊外の仮校舎に通うことになったのです。

 私が震災後に高田高校を訪ねることができたのは、2011年の11月26日でした。しかし、大量の土砂や瓦礫が堆積した構内で、賢治の碑を見つけることはできませんでした。

高田高校構内

 ただ、正面玄関の近くでは、倒れた門柱と、野球部の甲子園初出場を記念した阿久悠氏の詩碑が、目にとまりました。

高田高校門柱と阿久悠詩碑

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 そして去る5月4日に、私は高田高校の仮校舎がある場所を訪ねてみたのです。

 まず確認しておくと、元の陸前高田高校のあった場所(A)と、現在の仮校舎(B)の位置関係は、下の図のようになっています。バイパスを通っていっても、距離は約20kmあります。

 5月4日朝は、新花巻を新幹線で発つと、一ノ関で大船渡線に乗り換え、東北砕石工場があった陸中松川なども過ぎて、気仙沼までJRで来ました。本来はJR大船渡線は大船渡市の盛まで続いているのですが、気仙沼より先の路線は震災の被害が著しく、復旧の目途も立っていない状況で、現在はここ気仙沼が終点になっています。
 気仙沼駅の駅舎は、一昨年に来た時よりもきれいに改装され、連休とあって観光客の姿もたくさん見られました。

気仙沼駅

 この駅前から、BRT(Bus Rapid Transit)という交通機関に乗ります。これは、もとは大船渡線の鉄道線路だった跡地を舗装してバス専用レーンとし、ここにシャトルバスを走らせるというものです。本年3月2日からその運行が開始されたことによって、この地区の交通の不便はかなり改善されたということですが、このような手段を取らざるをえないこと自体が、鉄道再開の困難さをあらためて浮き彫りにしているとも言え、なかなか手放しでは喜べません。

 バスは、鹿折地区の「第十八共徳丸」を過ぎ・・・

第十八共徳丸

 陸前高田も過ぎ・・・、

陸前高田

 大船渡市の盛駅に着きました。

BRT盛駅

 上写真のようにBRTというのは、元の鉄道駅のホームに乗り付けます。途中には、バスの走る「道」の両側に「踏み切り」がある場所もあって、何となく不思議な雰囲気でした。

 盛駅からはタクシーに乗って、旧・大船渡農業高校の校舎に向かいました。運転手さんが道々、この高田高校の仮校舎にはこれまで全国から支援の教職員の方々がたくさん来られていること、はるばる宮古島から来たという女先生もタクシーに乗せたことなどを、話してくれました。

 車はかなり郊外を走り、ちょっとした山あいの雰囲気も出てきた頃、「高田高校仮校舎」に着きました。
 入口の門柱には、まだ真新しい輝きを放つ、「岩手県立高田高等学校」というステンレスの表札が掲げられています。

高田高校仮校舎表札

 中に入ると、勇ましい掛け声で剣道部の練習なども行われています。
 おそらくはるばる陸前高田市から部活に来ている元気な生徒さんたちとすれ違いながら、かなり古い校舎の裏手にまわると、そこには大きな岩がごろごろと置かれている場所がありました。

碑石置き場

 これを見た瞬間は、図らずも「碑石の墓場」などというような不吉な言葉も浮かんでしまったのですが、実は断じてそうではなくて、ここは高田高校の新校舎が完成した暁には、昔の校舎の歴史を知る証人として校内のしかるべき場所に配置されるべき石碑たちが、静かにその出番を待っている、「控えの間」なのです。

 そしてこの中に、あの「農民芸術概論綱要」碑の碑石も、ちゃんとありました。

「農民芸術概論綱要」碑の碑石

 ただ、上の写真を見ていただいたらわかるとおり、谷川徹三氏の揮毫によって鋳造され嵌め込まれていた銅板は、ぽっかりと失われてしまっており、その場所に四角い跡だけが残っています。恐ろしい津波の勢いは、この金属板を碑石から引き剥がして、流し去ってしまったのでしょう。
 しかし、碑石の脇の方には、下写真のようなより小さな銅板は残っており、たしかにこれが「農民芸術概論綱要」碑であることを、証明してくれています。

「農民芸術概論綱要」碑/副銅板

 ところで、失われてしまった銅板と、ここに刻まれていた「農民芸術概論綱要」の一節については、朝日新聞北上支局の但木記者による昨年10月27日の記事(「「賢治の碑」の行方[6]」)が、消息を伝えてくれています。

朝日新聞岩手版2012年10月27日
朝日新聞岩手版2012年10月27日

 「かゞやく宇宙の微塵」という言葉が、震災前年の卒業アルバムのタイトルとなっていたということにも何かの因縁を感じますが、それにも増して、谷川徹三氏の色紙原本が、「水没した3階西側図書室」で発見された経緯について読んだ時、私は体が震えるような感じがしました。
 この発見が、碑の復元への道筋を開いてくれたという喜びとともに、それが他ならぬ「9月21日=賢治忌」の日に、再び姿を現したというめぐり合わせへの驚きを、禁じ得なかったのです。
 実は、この翌日の2012年9月22日は、校舎の解体を前に、生徒たちや関係者が旧校舎に別れを告げる、「高田校舎お別れ式」が行われるというタイミングでした。この日を逃せば、もう発見は不可能だったろうという、本当に最後のチャンスの賢治忌だったのです。
 ここでついでにもう一つ偶然のめぐり合わせを追加すれば、この色紙は、1930年に「高田実科高等女学校」として創立された高田高校の40周年を記念して、1970年に揮毫されたものでしたが、これを元にして碑が建てられたのは1972年。そしてこのたび色紙が発見された2012年は、碑の建立から40周年に当たります。

 さて、高田高校の新校舎は、2015年3月に完成予定とのことですが、その際にはこの石碑が復元され、また生徒たちを見守るようになることを願って、失われる前の銅板の写真を、ここに載せておきます。

「農民芸術概論綱要」碑面

 これは2000年の夏に撮影したものですが、板面に浮き彫りにされた文字は、けっこう擦り減っています。40年近くにわたる歴代の生徒たちは、この表面を手で撫でたりして親しむことも多かったのだろうかなどと、あれこれ想像してみたりします。

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