「宮澤賢治の初恋の人」と言われている高橋ミネさん・・・。その波瀾万丈の生涯については、ミネさんのお孫さんにあたるMさんという方に数々の貴重な資料を拝見させていただき、これまでも「ミネさんは賢治入院を憶えていた」「ミネさんの結婚」「札幌のミネさん」という記事に書かせていただきました。
今回は、ミネさんが岩手県の一関でも看護婦として病院に勤めていたことに関して、若干の新たな知見をご報告いたします。
高橋ミネさんが、ある時期に一関の病院で働いていたらしいことは、Mさんがミネさんの遺品の中に見つけられた写真からも推測されていました。下写真は、「ミネさんは賢治入院を憶えていた」にも掲載したものです(クリックすると別ウィンドウで拡大表示されます)。
これは、どこかの病院における職員の集合写真でしょう。最後列の向かって右端に写っているのが、高橋ミネさんです。そしてこの写真の台紙には、下のような写真館のロゴが入っていました。
「陸中一関/三浦本店」と書いてあります。つまり、この一関の写真館の人が、カメラや機材を持って病院まで出張して、記念写真を撮影したのだろうと思われます。
というわけで、この病院も一関かその近辺にあったのではないかと推測されるのですが、これが何という病院なのか、そしてこの写真がいつ頃撮影されたものなのかということについては、これまで何もわかりませんでした。
そこで私は、先日の連休に一関や盛岡の図書館に行って、調べ物をしてきたのです。
まず、病院の特定について。これに関しては、盛岡市にある「岩手県立図書館」であれこれ調べていると、『ふるさとの想い出 写真集明治大正昭和 一関・平泉』(国書刊行会,1979)という本に、下のような写真が載っていました(クリックすると別ウィンドウで拡大表示されます)。
この玄関の上部の、窓枠が放射状になっているデザイン、壁や柱の煉瓦造りの様子などを、冒頭のミネさんが写っている写真と見比べると、この建物は、上写真のバックのものと同一であることがわかります。これは、上写真の玄関上部にも書かれているとおり、「一関病院」です。
つまり、高橋ミネさんは、「一関病院」に勤務していたと推定されるのです。
ちなみに「一関病院」は、1918年(大正7年)1月に山本弘行医師によって開設され、現在も「博愛会 一関病院」として、一関市の中核的な病院の一つとして医療を行っています。
『写真記録集 一関の年輪II 二〇世紀の一関』(一関の年輪刊行委員会・編集発行,2000)に引用されている昭和5年の『岩手日報』記事には、次のように書かれていました。
医学博士山本弘行氏が院長として経営の任に当つてゐる一関病院は大正七年一月開院し本年で十年を迎へた県南第一を誇る大病院である、副院長は医学博士佐藤豊三郎氏で院長以下医員の担当は下の通り(中略)その他薬局員三名、事務員三名、看護婦二十余名勤務して居る、設備の点に至つてはレントゲン並に人工太陽燈は勿論その他の器械諸装置いづれも完全して居り正に地方稀に見る大病院である、
ということで、当時から岩手県南部では随一の病院だったということですね。高橋ミネさんは、どのような縁があったのか、この病院で勤務していたわけです。
しかし、それは果たしていつ頃のことだったのでしょうか。幸い、現在もこの一関病院は存在しているわけですから、私は5月6日の朝に、病院を訪ねてみました。
下写真が、現在の一関病院です。
圧倒されるほど立派な建物です。でも、なんか創立当時の建物のデザインと、微妙に似ている雰囲気もありますね。
ちょっと緊張してしまいますが、私は冒頭に載せた一関病院におけるミネさんたちの記念写真を持って、この病院の事務室に行ってみました。
突然の訪問にもかかわらず、来院の趣旨を説明すると、たいへん興味を持ってもらえました。恐縮にも事務長室に通していただき、「事務長」や「専務理事」の名刺も頂戴して、いろいろお話ができました。ここでもしも、大正時代の職員名簿などが残っておれば、ミネさんの在職期間などが正確にわかるところなのですが、残念ながらそこまでの資料は残されていません。
「この写真が撮られたのは、果たしていつだったのか?」。この私の疑問を一緒に考えて下さった事務長さんと専務理事さんが注目されたのが、前列中央の山本弘行院長が、膝の上に抱えている赤ちゃんでした。
「あ、これは公彦先生だ」「公彦先生だな」と、事務長と専務理事は、この赤ちゃんを見て頷きあっています。赤ちゃんなのに病院幹部に「先生」と呼ばれるこの方は、山本弘行院長の長男の公彦(きみひこ)氏で、後に医師となって父の弘行院長を継がれたのです。
すると、この山本公彦氏の生年月日がわかれば、写真が撮影されたおおまかな時期もわかるということで、お二人はいろいろな病院資料を棚の奥から出してこられて、山本公彦医師の生年月日を調べて下さいました。そして、公彦氏は1921年(大正10年)2月27日生まれであることがわかったのです。
この写真の時の公彦氏は、見た感じからすると、満1才かその少し前くらいでしょうか。そうすると、この写真が撮影されたのは、1921年(大正10年)の後半から1922年(大正11年)の前半までの間と推定することができます。
1893年(明治26年)7月28日生まれのミネさんは、この時点で満28歳だったことになります。
一方、これは賢治にとっては、家出上京から花巻に戻って、稗貫農学校に就職する前後、という時期にあたりますね。
以前に私は「札幌のミネさん」という記事の中で、ミネさんの経歴を次のようにまとめてみたことがありました。
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1913年(大正2年)3月、岩手産婆看護婦学校?を卒業(19歳)。
4月、看護婦試験に合格。岩手病院に勤務。 -
1914年(大正3年)4月、入院患者・宮澤賢治と出会う(20歳)。
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1915年(大正4年)夏前?、賢治が岩手病院を再訪・再会。
11月?、札幌鉄道病院に出向(22歳)。 -
1916年(大正5年)10月、札幌で産婆試験に合格(23歳)。
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1918年(大正7年)?、岩手病院勤務に戻る(25歳?)。
今回わかった写真撮影時期を当てはめれば、ミネさんが一関病院で勤務していたのは、上の経歴の後ということになります。2回目の岩手病院勤務から、直接に一関病院に移ったのか、間にまた別の病院勤務があったのかはわかりませんが、岩手病院復帰から一関病院での写真撮影までが3~4年であることからすると、岩手病院から一関病院に直接移ったと考えるのが自然なように思われます。一般的には、看護婦さんが1~2年で病院を辞めて他へ移るというのは、何かの事情があるやや異例な場合という感じがするからです。
それにしても、岩手県中部の日詰で生まれ、北部の盛岡で看護学校を卒業して県内最大の岩手病院に勤めていたミネさんが、なぜそこを辞めて遠く県南部の一関までやって来たのでしょうか。札幌に新設された鉄道病院に派遣された時のように、このまだ新しい一関病院の医療を充実させるために、看護婦としての能力を見込んだ誰かに請われたのかもしれません。でも実のところは不明です。
ちょっと話はそれますが、高橋ミネさんは、この7~8年後の1929年(昭和4年)に、宮古町助役の伊藤正氏と結婚します。ミネさんが一関病院で上の記念写真を撮影した1921~1922年頃には、未来の夫・伊藤正氏は、実は同じ一関町内で、西磐井郡の書記をしていたのです(下写真は、大正11年の『職員録』より)。
看護婦の高橋ミネさんと郡役所書記の伊藤正氏が、この時期に何かのきっかけで出会う機会があったのでしょうか。今となってはそれはわかりませんが、実際に二人が結婚するのは、伊藤正氏が一関町を去り、釜石町財務課長等を経て宮古町助役になってからのことです。ここ一関は、二人の接点となった可能性のある場所だと思います。
さて、あと残るのは、最初に掲げた写真の台紙に書かれていた「陸中一関/三浦本店」です。
実は、現在も一関市内には「三浦写真館」というお店が存在していて、もしかしたらこの写真館と「陸中一関/三浦本店」が関係あるのではないかと私は思い、一関病院を丁重に後にすると、足を伸ばしてみました。
「三浦写真館」は、下のような建物です。
ここでもやはり、冒頭に載せた写真のプリントアウトが頼りです。台紙に書いてある「陸中一関/三浦本店」というのは、この写真館のことでしょうか?と店のご主人に尋ねてみました。すると、「三浦本店」というのは、ご主人の祖父のお兄さんが創業した写真館で、今あるこの「三浦写真館」とは別の場所にあったが、今はもう廃業しているということでした。現在の「三浦写真館」は、ご主人の祖父が、当初は「三浦支店」として開いたお店だそうです。
ここでは、意外にも賢治に関する話で少し盛り上がったのですが、残念ながら私の時間に限りがあったので、ご主人にお礼を言って店を辞すと、「三浦本店」のあった場所を訪ねてみました。下のビルは「三浦第一ビル」という名前で、ここに昔は写真館の「三浦本店」があったということです。
それにしてもこの場所は、一関病院からほんの目と鼻の先なんですね。実は高橋ミネさんが、「三浦本店」で看護婦仲間と一緒に写したと思われる写真が、もう1枚あります。
上写真でミネさんは左端です。この写真の右端の女性は、冒頭の記念写真で前列左端の人、左から二人目の女性は、最初の写真で後列左から三人目の人のように見えます。何かの折りに、同僚たちとおめかしをして写真を撮ったりしたのでしょうね。
最後に下の地図は、一関病院と三浦本店、現在の三浦写真館の位置関係を示したものです。(A)のマーカーが一関病院、(B)のマーカーが三浦本店のあった場所、(C)のマーカーが現在の「三浦写真館」(旧「三浦支店」です。
突然に押しかけたにもかかわらず、皆さんとても親切にお教え下さって、感激しました。ありがとうございました。
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ガハク
徐々に核心に迫って行く面白さ。きっと始めたらやめられないだろうな、と高見の見物人は思いました。それにあちこち突っ込みたくなるネタは次々と道に転がって来るようだし。
なるほどihatov_ccは遥々イーハトーボまで行ってこういうことをやっていたのか。途中ライブカメラやマイクの故障などというアクシデントに見舞われながらも。まちょっぴり?お酒も飲んだり羽を伸ばしたりもして(笑)
ミネさんへの恋は片思いだったんですね。実はこちらのブログで初めて(._.;) 知りましたです。でも憶えてたくらいならついでにミネさんの方も賢治の気持ちを知ってたりちょっとぐらいはそれらしき会話とかなかったんかなぁ・・
4人組の写真ですが冒頭の写真の中段左から二人目の人もいるみたいですね。
hamagaki
ガハク様、旅行中はいろいろとお世話になりました。(^^)
賢治のミネさんへの恋は、告白も何もせずに終わった、本当に純粋な「片思い」だったようですね。でも、患者と看護婦とは言え年齢の近い者同士として、賢治の入院中はそれなりに親しく会話していたのではないかと想像します。でもそれがきっとまた、賢治の一方的な思いをかき立てて・・・。
それから4人組の写真についてのご教示も、ありがとうございます。たしかにご指摘の女性のような感じですね。4人の「仲良しグループ」だったのかもしれませんが、何となくミネさんがいちばん姐御肌のような雰囲気に見えてしまいますw。
signaless
長旅お疲れ様でした。
遠く離れた私達にもイーハトーブの風と光を届けてくださり、ありがとうございました。下根子の詩碑では感涙しました。
なんとかミネさんが賢治の初恋の相手であるという確証が出てきて欲しいところですね。ミネさんの話題になると、心の片隅になんとなく落ち着かない感じがあったのはそこのところだったんだと、いろいろ考えていて気づきました(笑)
ここまで綿密な調査をされ、ミネさんの歩んだ軌跡を明らかにされたのです。
賢治と同時代に生き、少しでも賢治と接点があった方が、職業に誇りを持って歩んでこられた女性であるということは素晴らしいことだと思います。そのことだけでも彼女を知る意味はあるのだと感じました。ぜひおまとめになって、賢治学会などどこかに何らかの形で発表されては、と思います。
病気で弱気の若い賢治が、優しくててきぱきと仕事をする年上の女性に出会い恋をする、というのを想像すると微笑ましいですね。きっと脈をとられていてもよけい脈拍があがったことでせう。
かぐら川
“「あ、これは公彦先生だ」「公彦先生だな」と、事務長と専務理事は、この赤ちゃんを見て頷きあっています。”……こういう発見や出会いの連鎖はご本人もそうでしょうが、読む方でもどきどきしますね。
hamagakiさんの探訪には及びませんが、引っ込み思案な私も、最近は街歩きの折、出逢った人に――「いずれ」とか「(人に訊かずとも)本で」とかいう思いを捨てて、――少なくとも一声かけることにしています。
それにしても「写真」のもつ情報量と喚起力の豊富さには驚きますね。
hamagaki
> signaless 様
その節は、いろいろお声かけいただきまして、ありがとうございました。おかげさまで皆さんとご一緒に、イーハトーブを巡ることができました(^^)。
ところで、この問題の最大の難点は、やはりご指摘のとおり「ミネさんが賢治の初恋の相手であるという確証」が、まだ得られていないことですね。
いろいろと状況証拠的な事柄はあるのですが、どれも「確証」とまでは言えないのが現状です。でも一度は、間接的な証拠だけでもまとめて、整理する記事を作ろうかと思っています。
そしてまた一方で、いつかは「確証」と呼べるものが私たちの目の前に現れないかと夢想しています。
一般的には、年月が経てば経つほど、新しい事実が明らかになる可能性はだんだんと低くなっていくのでしょうが、この問題については、何か「鍵」が見つからないかと、つねづね考えています。
乞うご期待! と言いたいところですが・・・。
> かぐら川 様
お久しぶりです。コメントをありがとうございます。
“「あ、これは公彦先生だ」「公彦先生だな」と、事務長と専務理事は、この赤ちゃんを見て頷きあっています。”・・・というところは、私もその場に立ち会っていてワクワクしました。
私は、平素は人に道を訊くのも憚るような小心者なのですが、こと賢治のことになると、妙に図々しくなってしまうところがあります。上写真のような大病院にも、アポイントも取らずに突撃取材してきてしまいました(笑)。
ジョヴァンニ安東
素晴らしい取材ですね。
私は一関市出身の賢治ファンです。
ちなみに地主町角のカメラ店が実家です。
懐かしい写真の旧一関病院は地図で言うと
田島内科のちょっと上(北)にありました。
子供の頃、交通事故で入院してお世話になった病院です。
そこに賢さんの初恋の方がかつていらしたとは驚きです。
ちなみに広い岩手県は江戸時代、
花巻市から北が南部藩(盛岡)で
隣りの北上市から南が伊達藩(仙台)で
まったく国も人も違います。
一関市は伊達藩の支藩・田村藩でした。
ですから同じ岩手でも今も北と南はライバル同士ですよ(笑)。
先ほどヒストリア見て感動しました。
素晴らしい貴サイト楽しみにしてます。
hamagaki
ジョヴァンニ安東 様、こんばんは。コメントをありがとうございます。
旧一関病院は、今の場所ではなくて「田島内科の北」あたりにあったのですか。それは存じませんでした。貴重なご指摘をありがとうございました。
それにしても、岩手県の北部と南部は、もともと違う文化圏だったわけですね。日詰や盛岡にいたミネさんが、どうしてポンと一関にやってきたのか、あらためて不思議に感じます。
今後とも、よろしくお願い申し上げます。