美しい医院のあるじ(1)

 「口語詩稿」に、「〔この医者はまだ若いので〕」という作品があります。

この医者はまだ若いので
夜もきさくにはね起きる、
薬価も負けてゐるらしいし、
注射や何かあんまり手の込むこともせず
いづれあんまり自然を冒涜してゐない
そこらが好意の原因だらう
そしてたうたうこのお医者が
すっかり村の人の気持ちになって
じつに渾然とはたらくときは
もう新らしい技術にも遅れ
郡医師会の講演などへ行っても
たゞ小さくなって聞いてゐるばかり
それがこの日光と水と
透明な空気の作用である
こゝを汽車で通れば、
主人はどういふ人かといつでも思ふ
この美しい医院のあるじ
カメレオンのやうな顔であるので
大へん気の毒な感じがする
誰か四五人おじぎをした
お医者もしづかにおじぎをかへす

 この医師は、若くして医院を開業し、患者のために尽くして、儲けを追求するわけでもなく、さりとて学問を究めようとしている風でもなく、同業者の間でも、村人に対しても、いつも控え目な態度でいるようです。村人からは好意を持って迎えられ、賢治もそれに共感している様がうかがわれます。
 若い医者が主人公となるテレビドラマには、高度な先進医療の前線で活躍するエリートとか、逆に大学医局に背を向けて地域医療に奮闘する熱血青年医師とかいうパターンがありますが、そのどちらでもなく、「大志」などというものからはほど遠い様子です。謙虚に、淡々と静かに自分のやるべきことをやる、という雰囲気ですね。
 こういうキャラクターは、ドラマになるような一般的ヒーロー像とはかけ離れていますが、この作品において賢治は、このような彼に、自分の理想の一つの型を投影しているのではないでしょうか。

 小さな医院の開業医が行う治療というのは、設備を要する手術などができるわけでもありませんので、病気の診立てにもとづいて、適切な薬剤を選びその適量を配合した「処方箋」を書き、それに従って調合された薬を患者に服用させるということに、ほとんど尽きます。「注射や何かあんまり手の込むこともせず」というのは、やはりこの医師が薬を処方するという治療に徹していることを、表しているのでしょう。

 ところで、医者がこういう風に診断し処方箋を書くという仕事は、ある時期の賢治が熱心に行っていた「肥料設計書を書く」という作業に、とてもよく似ています。
 どちらも、まずは相手の話をしっかりと聞き、次に直接その身体または土壌の状態を調べ、その所見を自らの知識と経験と照らし合わせて、その体または土の状況を改善するのに最も適した化学物質の配合を考え、それを紙上に表現するのです。
 この作品において賢治はおそらく、両者のアナロジーを感じつつ、この若い医者が「すっかり村の人の気持ちになって/じつに渾然とはたらく」ことを、賞賛しているのでしょう。

 ここで私が思うのは、この医者の人間像は、賢治が「〔雨ニモマケズ〕」に描いたものに、通ずるところがあるのではないか、ということです。
 「夜もきさくにはね起きる」ところは、「東ニ…」「西ニ…」の箇所の行動的な献身を思わせますし、「薬価も負けてゐる」ところは、「慾ハナク」に相当します。「お医者もしづかにおじぎをかへす」という態度は、「イツモシヅカニワラッテヰル」の感じですね。
 だからと言って偉い先生なのかというと、「郡医師会の講演などへ行っても/たゞ小さくなって聞いてゐるばかり」という有り様で、これはまさに「デクノボー」の生き方に一致するのではないでしょうか。
 行動的で、献身的で、抑制的で、そして人の前では謙虚さを通り越して卑屈さにも甘んじる・・・。後の賢治が、「サウイフモノニ/ワタシハナリタイ」と書いたような人の姿が、ここにあります。

 1926年(大正15年)、賢治は農学校を自ら退職し、地人協会の活動や肥料設計相談に精力を注ぎ込んでいきました。この際に、自らも一人の農民となることで彼が目ざしたのは、まさにこの作品の一節にあるような、「すっかり村の人の気持ちになって/じつに渾然とはたらく」ということだったろうと、私は思います。
 しかしながら、現実には賢治と村の人々との関係は、彼の理想のように「渾然と」とはいかず、彼我の間には越えがたい溝が横たわったままでした。賢治自身は、「すっかり村の人の気持ちに」なろうとしていたのでしょうが、現実の農民の考え方に対しては、事あるごとに様々な違和感を覚え、それを作品にも吐露しています。村人から賢治に対しても、例えば「金持ち息子の道楽」と見る視線は根強く、「同志」として受け容れるには至りませんでした。

 どうして賢治は、この若い医者のように、「すっかり村の人の気持ちになって/じつに渾然とはたらく」ことができなかったのか・・・。
 これは、羅須地人協会時代の賢治を考える上で、最も重たい問題の一つです。

 その要因は、賢治の側にも村人の側にもあったと言えるでしょう。しかし、この「若い医者」との対比で考えるならば、これを各々の「側」に内在する問題のためであるとするよりも、双方を包む「制度」の問題であると考える方が、現実的だと思います。
 賢治もこの若い医者も、高等農林学校や医学校で学んできた科学的知識をもとに、肥料設計書や処方箋を書く「専門家」として、村人と関わっています。その意味では、二人とも村人と「対等」な位置にいたわけではありません。
 しかし医者の方は、村人に専門知識を提供することで、「診察代」という対価を得られるという制度に自らを組み込んで、自分も生きています。たとえ時々「薬価も負けて」いたとしても、村人のおかげで医者は生活できているわけですから、村人は医者に対して何も引け目に感じる必要はありません。前回の記事でご紹介した言葉を使えば、両者の関係は「フラット」ではないけれども、社会制度によって「なめらか」につながっているのです。
 これに対して賢治は、無料で肥料設計書を書き、無料で若者たちを教えました。これは賢治の奉仕の精神の発現でもあったでしょうが、多くの人は、「純粋贈与」を心おきなく受け取ることには、慣れていません。こちらから依頼して無料の肥料設計書を書いてもらうばかりでは、だんだんと負債を背負っていくような気持ちにもなるでしょう。それで多くの村人が、賢治の活動を当初は遠巻きに眺めるという態度をとったのも、無理からぬことと思えます。
 村人と賢治との間は「なめらか」ではなく、「膜」が存在し続けたのです。

 これを言葉を換えれば、医学の場合には個人で専門知識を活用するビジネス・モデルがすでに存在したが、土壌学・肥料学に関しては、残念ながらそれがなかった、ということになるかと思います。現代になっても、医者が診療所を開くように、個人が「肥料設計事務所」を開業するというビジネスが存在していないのは、そこまで専門的に肥料の匙加減を行ったとしても、そのコストに見合っただけの収穫量増加が見込めないからなのかもしれません。

 ただ、賢治が後に東北砕石工場の嘱託技師として職に就いた時には、かねてから自分が求めていた仕事にめぐり会えたという思いが、多少ともあったのではないかと思います。
 単に工場長に対して専門的な助言をするという役割には自分をとどめず、病み上がりの体に鞭打ち、あえて一介の「セールスマン」となって東北の各地を歩いた理由は、そこにもあったはずです。自分の知識を活用しつつ販売した石灰肥料が、農民の生活を楽にする助けになり、同時に自らの生活をも支えてくれるという「持続可能な」モデルに、これはなったかもしれないのです。
 結局は、道半ばで病に倒れてしまったのですが・・・。

 賢治は、教師としては生徒との間に「なめらか」なつながりを築き、生き生きと仕事をしていたのだと思いますが、学校を辞めて農村に飛び込むと、そこでは困難に直面しました。そんな時に、医療という制度に守られながらではありますが、「すっかり村の人の気持ちになって/じつに渾然とはたらく」若い医者を見て、思わず心を寄せたのが、この作品なのかと思います。

◇          ◇

 さて一方で、賢治の創作の常として、こういう作品はたいてい実体験にもとづいていますから、いったいこの「若い医者」というのは誰なんだろうということにも、興味が湧いてきます。
 それを考えてみるために、まずこの作品が書かれた時期を推測しておくと、この草稿が「黄罫詩稿用紙」に書かれていることから、羅須地人協会時代、すなわち1926年から1928年の間に書かれた可能性が高いと思われます。内容的にも、医師と村人との関係に注目しているところなど、上記のように羅須地人協会時代の賢治の思いに通ずるところが大きいと感じます。
 屋外の出来事の描写ですので、1928年後半から1930年頃、および1931年9月以降の病臥期は除外できますが、東北砕石工場技師をしていた1931年2月~9月の可能性を否定する確実な根拠は、現時点の私にはありません。しかし、この時期のものであることが明確な作品は、すべて手帳にメモされた文語体の色彩が濃いもので、本作品の雰囲気とは、かなり異なっています。
 ということで、とりあえずは1926年~1928年の羅須地人協会時代のものではないかと考えつつ、考察を進めてみます。

 作品中には、この若い医者が所属する組織として「郡医師会」が登場しますが、これは、花巻町が含まれる「稗貫郡医師会」の可能性が高いでしょう。汽車で通るたびに医院の主人はどんな人かと思っていたというのは、よその土地ではなくて地元のことと考えるのが自然です。
 また、作品中の描写から、賢治はこの医師と面識がなかったことがわかります。
 さらに、汽車から医院が見えたということですから、東北本線または岩手軽便鉄道の沿線に、この医院はあったと思われます。
 あと、この作品の初期形には、「ベースボールなどもやりたさう」との一節があり、当時の常識的に考えると、男性医師であったと思われます。

 以上の予備的考察をもとに、国会図書館の「近代デジタルライブラリー」から、1933年(昭和8年)に日本医師会が発行した『健康保険医名簿』という文書を見てみました。これは、1932年(昭和7年)10月時点での、日本医師会に所属する全国の医師が、地区医師会ごとに掲載されているものです。
 上記のように、作品が1926年~1928年のものだとすると、「この間には開業していたが、1932年時点では転居・死亡などしていたため、この名簿の稗貫郡医師会の項には掲載されていない」という可能性も否定はできませんが、これは現実的には確率の低いことと思いますので、この資料を用います。

 さて、1933年刊『健康保険医名簿』の「稗貫郡医師会」のページは、次のようなものでした。(クリックすると別ウィンドウで拡大表示されます)

稗貫郡医師会(1932)

 上記のうちから、やはり賢治の地元のことだろうとの推測にもとづき、住所が「花巻町」である医師を選び、また開業医のことですから「花巻共立病院」に所属する7名の医師を除くと、候補者は以下の12名になります。(1929年に花巻町と花巻川口町は合併して、新たな花巻町となっています。)

平澤保之
中島米八
大橋秀治 
大平貞治
大橋珍太郎
星多聞
田村孝一郎
沼野春枝
藤井謙蔵 
小原隆造 
佐藤豊蔵 
工藤軍司

 これを順に検討してみますが、まず作品に登場するのは、郡医師会の講演会で「たゞ小さくなって聞いてゐるばかり」の若い医者だというのですから、郡医師会会長の平澤保之氏は除外してよいでしょう。
 3番目に出てくる大橋秀治氏は、小学校で賢治と同級生で、当時の八木先生から「秀才の三治」と並び称されたという人ですから、賢治とは面識があったわけで、やはり除外できます。
 5番目の大橋珍太郎氏は、賢治よりはるかに年上の地元の名士で、賢治との面識もありますから、もちろん除外できます。
 7番目の沼野春枝氏に関しては、名前からは女性であると思われ、そうであれば上記のように男性医師であろうとの推定から、除外できます。
 9番目の藤井謙蔵氏は、妹トシの元主治医であり、1922年11月27日のトシ臨終の日にも往診してくれたという人ですから、これも除外できます。
 10番目の小原隆造氏に関しては、泉沢善雄氏のWebサイト「オッホの森」の「戦前の吹張町界隈地図(1)」によれば、舘坂小路の税務署の向かいあたりに、「小原医院」があります。医師会の名簿では花巻町で他に小原姓の開業医はいないので、もしここが医院の場所であれば、東北本線や岩手軽便鉄道の汽車から見ることはできず、除外できることになります。
 11番目の佐藤豊蔵氏に関しても、やはり「戦前の吹張町界隈地図(1)」によれば、花巻警察署の一軒おいて北の末広町に、「佐藤医院」があります。医師会の名簿では花巻町で他に佐藤姓の開業医はいないので、もしここが医院の場所であれば、東北本線からは直線距離で180m以上あり、岩手軽便鉄道からはさらに遠いので、汽車から見ることは困難であり、除外できることになります。
 12番目の工藤軍司氏に関しては、現在花巻市一日市にある「医療法人工藤医院」のサイトの「施設案内」によれば、「医療法人工藤医院は1929年工藤軍司先生により花巻市に産婦人科・外科医院として開院しました」とあります。この作品が書かれたのが、1926年~1928年の羅須地人協会時代だとすると、工藤医院はまだ開業しておらず、除外できることになります。

 以上、100%確実とまでは言い切れない根拠も中にはありますが、「この美しい医院のあるじ」であった可能性が比較的高い医師の候補としては、現時点で次の4名が残っています。

中島米八
大平貞治
星多聞
田村孝一郎

 残念ながら今のところ私には、これ以上特定する情報はありません。また今後も気にかけつつ、資料があれば調べてみたいと思いますが、何か情報がありましたら、ご教示をいただければ幸いです。