「とし子」という呼びかけ

 賢治のすぐ下の妹の名前は、もちろん「宮澤トシ」ですが、賢治は作品の中では、いつも「とし子」と呼びかけています。

 「永訣の朝」では、

ああとし子
死ぬといふいまごろになつて
わたくしをいつしやうあかるくするために・・・

宮澤トシ(佐藤隆房著『宮沢賢治』より)風林」では、

とし子とし子
野原へ来れば
また風の中に立てば
きつとおまへをおもひだす

青森挽歌」では、

とし子はみんなが死ぬとなづける
そのやりかたを通つて行き
それからさきどこへ行つたかわからない

オホーツク挽歌」では、

それらの二つの青いいろは
どちらもとし子のもつてゐた特性だ

噴火湾(ノクターン)」では、

とし子は大きく眼をあいて
烈しい薔薇いろの火に燃されながら
  (あの七月の高い熱……)

宗谷挽歌」では、

けれどももしとし子が夜過ぎて
どこからか私を呼んだなら
私はもちろん落ちて行く。

という具合です。
 逆に、作品の中で、本名で「トシ」と表記している例はありません

 これには以前から、何となく不思議な感じはしていました。本名は「トシ」でも、宮澤家の日常生活においては、「とし子」という呼び方が「通称」のように使われていたのだろうか・・・、などと思ってみたこともありました。

 「トシ」に対して、「とし子、とし子」と呼びかける・・・。そんな賢治の様子をぼんやりと思い浮かべていたところ、東北地方の方言では、しばしば物の名前の後に「コ」という接尾辞を付けて、親しみやかわいらしさの感じを添えるということを、ふと連想しました。「馬コ」「鳥コ」などのことです。
 賢治自身も子供の頃は「石コ賢さん」と呼ばれていましたし、勤務先の農学校は、少し揶揄も込めて「桑ッコ大学」と言われていた時期もありました。
 名詞の後に付くこの「コ」のことを、文法学的には「指小辞(ししょうじ)」と呼ぶのだそうです。

 本名に「コ」を付けた「トシコ」も、それ自体がごく一般的な女性の名前になっていますから、私はこれがまるで「別称」であるかのような印象を受けていたのですが、これは本名に指小辞が付いた、一種の「愛称」だったと解釈することもできるわけです。
 賢治は、生前の妹のことを、きっといつも「とし子」と呼んでいたのだろうと思いますが、「親しみ」がこもったそのニュアンスを翻訳すると、たとえば「トシ坊」とか、今風に言えば「としリン」とかいうのに近かったのかもしれませんw。
 賢治の童話にも、男の子の呼称として、「嘉ッコ」とか「善コ」とかが出てきますし、また、二番目の妹「シゲ」のことを「おしげ子」と呼ぶところが、「青森挽歌」のなかに出てきます。

ほんたうにその夢の中のひとくさりは
 かん護とかなしみとにつかれて睡つてゐた
おしげ子たちのあけがたのなかに
ぼんやりとしてはいつてきた
《黄いろな花こ おらもとるべがな》

 「おしげ子」とはこれまた念の入った呼び方で、「…子」に加えて、江戸時代によく使われた「お…」まで一緒にくっつけていますが、これも「別称」ではなくて、「シゲ」の「愛称」というわけですね。最後の行には、夢の中のトシの言葉として、「花こ」も出てきます。

 ところで、この指小辞「コ」は、現在は東北地方の方言に典型的に残っていますが、古語においては標準的により広く使われていたものでした。
 大野晋編『古典基礎語辞典』の、「】」(接尾)の項には、

(1)その職業に従事する人の意。「船子」「狩子」「田子」など。
(2)人を表す語に付けて、親愛の情を表す。「背子」「吾妹子」「少女子」など。
(3)名前の下に付ける語。古くは男・女を問わず用いられたが、のち女性の名に多く用いられるようになった。「妹子」「馬子」「薬子」など。

と書いてあります。この(2)の用法が、方言周圏説的に辺縁の東北に残って、現代の「…コ」になっているのでしょう。また、(3)にあるように、これが、「…子」という女性の名前と同じ形になっているのは偶然ではなくて、語源をたどれば同じものだったわけです。

 以上、まあどうでもいいようなことかもしれませんが、私が言いたかったことは、賢治が妹を「とし子」と呼ぶ時、それは元々「とし子」という名前の女性を「とし子」と呼ぶのとは違って、とりわけ親愛の情を込めた愛称だったのではなかったか、ということです。それは大げさに言えば、万葉集において、「吾妹」に対して「吾妹子よ…」と呼びかける際に孕まれていた感情と、共通するものにも思えるのです。

 東北方言の指小辞「…コ」は、人間に付けられるだけではなくて、前述のように「馬コ」「鳥コ」など動物にも適用されますし、「お茶っこ飲み」というように無生物にまで付いて、親しみを添えます。人間とその他の森羅万象の区別なく、そこに生命を感じて交感する自然観は、おそらく日本の古層に由来し、今も東北には色濃く残っていますが、指小辞「コ」は、そのような「万物生命観」をまさに象徴するような語であると感じます。
 そしてこれこそ、賢治がとりわけ強く持っていた資質でした。

 ですから賢治が、

わびしい草穂やひかりのもや
緑青は水平線までうららかに延び
雲の累帯構造のつぎ目から
一きれのぞく天の青
強くもわたくしの胸は刺されてゐる
それらの二つの青いいろは
どちらもとし子のもつてゐた特性だ

とつぶやく時、あるいは、

とし子とし子
野原へ来れば
また風の中に立てば
きつとおまへをおもひだす

と歌う時、彼は、草穂や、水平線や、雲や、野原や、風にも生命の宿りを感じ、そこに亡きトシの魂を感じとっていたのだろうと、なおさら思うのです。