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身熱の日々

 1926年(大正15年)春に農学校教師を辞めて、下根子桜の羅須地人協会で独居し農耕生活を始めてから、賢治は何度か体調を崩して発熱する時期があったようです。

 その一つは、1926年(大正15年)11月上旬で、この時は11月4日付けの「七四四 病院」(「詩ノート」)という作品も残しているところから、『新校本全集』年譜では、「四日以後数日間入院したと推察」と記しています。実際、11月15日付けで、その一つ後の作品番号を有している「七四五 〔霜と聖さで畑の砂はいっぱいだ〕」(「詩ノート」)には、次のように書かれています。

  七四五
                     一九二六、一一、一五、
霜と聖さで畑の砂はいっぱいだ
   影を落す影を落す
   エンタシスある氷の柱
そしてその向ふの滑らかな水は
おれの病気の間の幾つもの夜と昼とを
よくもあんなに光ってながれつゞけてゐたものだ
   砂つちと光の雨
けれどもおれはまだこの畑地に到着してから
一つの音をも聞いてゐない

 11月4日から15日の間に賢治が入院したという証拠はないのですが、4日に熱があって病院へ行ったこと、その後に「おれの病気の間の幾つもの夜と昼」があってこの間に作品は書いておらず、15日には久しぶりに畑に出てみたということ、少なくともはこれらの事柄は、二つの作品から読みとれます。

 またもう一つの時期は、1927年(昭和2年)6月中旬です。「詩ノート」には、6月13日付けで、次のテキストが記されています。

  一〇七五
                    六、一三
わたくしは今日死ぬのであるか
東にうかんだ黒と白との積雲製の冠を
わたくしはとっていゝのであるか

 この「わたくしは今日死ぬのであるか」という字句だけでは、病気になっていたと決めつけることはできませんが、さらに「詩ノート」には同じ日付で、次のテキストも記されています。

  一〇七六
   囈語
                   一九二七、六、一三、
罪はいま疾にかはり
わたくしはたよりなく
河谷のそらにねむってゐる

せめてもせめても
この身熱に
今年の青い槍の葉よ活着(つ)け
この湿気から
雨ようまれて
ひでりのつちをうるおほせ

 「囈語」とは、「うわごと」という意味ですね。一行目の「疾」は、下書稿(二)では「やまひ」と読ませており、さらに出てくる「身熱」という言葉を併せて考えると、賢治はこの6月13日に発熱してうなされながら、「わたくしは今日死ぬのであるか」とまで感じたのだろうと推測されます。

 「〔わたくしは今日死ぬのであるか〕」の方に出てくる「積雲製の冠」とは、おそらく実際に積雲が、冠のような形をして見えたのかと思います。そしてその雲の冠を「戴く」という空想からは、2ヵ月ほど前に「春の雲に関するあいまいなる議論」において、黒雲に対する「うらがなしくもなつかしいおもひ」を歌い、「あれこそ恋愛そのもなのだ」と言った、賢治の雲を恋い慕う気持ちがうかがわれます。
 ちなみに、さらにその2年ほど後には、「疾中」所収の「〔その恐ろしい黒雲が〕」において、やはり熱にうなされている賢治は、「雨雲と婚する」などと言った自分自身を責め、後悔しています。

その恐ろしい黒雲が
またわたくしをとらうと来れば
わたくしは切なく熱くひとりもだえる
北上の河谷を覆ふ
あの雨雲と婚すると云ひ
森と野原をこもごも載せた
その洪積の台地を恋ふと
なかばは戯れに人にも寄せ
なかばは気を負ってほんたうにさうも思ひ
青い山河をさながらに
じぶんじしんと考へた
あゝそのことは私を責める

 まだ1927年6月の賢治にとっては、上のような心境は知る由もありません。
 「一〇七六 囈語」においては、自分は「そらにねむっている」と感じていますが、自分の好きな雲の一つにでもなってしまったような心地なのでしょう。
 しかしこの作品において何よりも目を引くのは、病床に死を意識する一方で、自分の身の熱が「青い槍の葉(=稲)」の活着のために役立たないか、また汗による湿気から雨が生まれて「ひでりのつちをうるおほせ」られないかと、必死に願っているところです。
 このイメージこそ、この時期から徐々に自分の無力さを悟ることになる賢治が、それでも農業を救わなければと念じつつ、おのれに背負わせていくことになるものです。それは、「グスコーブドリの伝記」においては、人工的に雨を降らせたり火山の爆発で冷害を食い止めるという発想の契機となり、「〔雨ニモマケズ〕」においては、「ヒデリノトキハナミダヲナガシ/サムサノナツハオロオロアルキ」という一節に形象化しました。
 そして最後に絶筆短歌においては、

病(いたつき)のゆゑにもくちんいのちなり
   みのりに棄てばうれしからまし

と詠われたのです。

 羅須地人協会時代において、さらにもう一つ発熱した時の作品を挙げるならば、それは1928年(昭和3年)7月20日の、「停留所にてスヰトンを喫す」です。

わざわざここまで追ひかけて
せっかく君がもって来てくれた
帆立貝入りのスイトンではあるが
どうもぼくにはかなりな熱があるらしく
この玻璃製の停留所も
なんだか雲のなかのやう
そこでやっぱり雲でもたべてゐるやうなのだ

 教え子のところへ農業指導に行った帰りか何かなのでしょうが、「かなりの熱」を出してしまいます。これまで奔走を続けてきた賢治は、まさに倒れそうになりつつ、作品の最後の部分で、自分の運命を予感しています。

あとは電車が来る間
しづかにこゝへ倒れやう
ぼくたちの
何人も何人もの先輩がみんなしたやうに
しづかにこゝへ倒れて待たう

 自らを、「何人も何人もの先輩」に続く者の一人として、意識しているのです。

 「停留所にてスヰトンを喫す」の後は、直接農業に携わっていた時期の最後の輝きとも言える作品「穂孕期」が4日後にあって、8月に入るとついに病状が決定的に悪化して、羅須地人協会時代は終わります。

 ところで細菌の感染症には、ペストとかコレラとか赤痢のように、細菌が強い毒素を持つために、感染が一定以上進行すると短期間で致死的にもなるが、治る時はさっと治ってしまうという「短期決戦型」の病気と、細菌の毒性は強くないけれどもなかなか体内から駆逐できないために、長年にわたって進行して時に命を奪う「持久戦型」の病気があります。
 結核は、持久戦型の感染症の代表で、肺や腸などさまざまな場所に居着いた結核菌を、体の免疫機能は何とかしてやっつけようとして、長い戦いが続けられます。有効な抗生物質のなかった時代には、栄養を付けたり、気候のよい療養所に入ったりして、何とか体の抵抗力を強めた結果、結核菌に対して勝利を収められることもありましたが、それが叶わなかった場合には、最終的には肺炎などによって死に至ることも多かったのです。

 賢治は、若い頃に結核の初感染を経験していたと推測されますが、親元で生活しつつ教師をしていた間は健康で、徹夜で山歩きをするほどの体力もありました。親から離れて、羅須地人協会を始めてからは、「自炊」とは名ばかりで「ジャガイモだけ」とか「菊芋だけ」などという偏った食生活を続け、無理な農作業による体力の消耗もあって、体内に静かに潜んでいた結核菌が、再び活動を再開してしまったのだと思われます。
 この2年あまりの間に、少なくとも上に挙げた3回の病勢悪化があり、結核菌はそのたびごとに賢治の肺の中で、次第に支配領域を広げて行ったわけです。

 賢治の生涯のこのあたりをたどるといつも、「こんな無茶をせず、きちんとした食生活をしていたら・・・」と、思わずにはいられません。しかし、それもまた「賢治らしい」ことで、結局誰が止めても聞かなかったのでしょう。