工藤哲夫『賢治考証』

 先月末に刊行された、工藤哲夫著『賢治考証』(和泉書院)という本を読んでみています。

賢治考証 (近代文学研究叢刊) 賢治考証 (近代文学研究叢刊)
工藤 哲夫 (著)
和泉書院 (2010/4/1)
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 「賢治考証」という、端的で虚飾のない題名のとおり、この本は、賢治が依拠した可能性のある大量な文献を非常に精密に渉猟し、堅実な考証を積み上げた論文集です。本の帯には、「恣意的な<読み>を排し、客観的に<論証>し得た(と考える)事だけを書くという態度を貫いた書」とありますが、まさにそれを実感します。章ごとに付された「注」も、詳細で厖大なものです。

 内容を見ると、たとえば、本書第二章の「<二人だけ>の世界―「黄いろのトマト」を手掛りに―」は、ある時期まで、賢治とトシ、あるいは賢治と嘉内という<二人だけ>の世界を求めた賢治が、いかにして変わっていこうとしたかという経過に、注目したものです。
 工藤哲夫氏は、次のように述べます(p.58)。

 賢治は紆余曲折を経て「すべてのいきもののほんたうの幸福をさがさなければいけない。それはナムサダルマプフンダリカサスートラといふものである」(「〔手紙 四〕」)という言葉に縮約できる命題の了悟(すべきであること)に到達した。「《みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない》」(「青森挽歌」)という言葉も、「黒い大きな帽子をかぶった青白い顔の瘠せた大人」の語りかけ(「銀河鉄道の夜」初期形三」)も同根・同趣のものであろう。
 しかし、かつての、親友保阪嘉内及び妹トシへの恋着は、このいささか公式的とも見えなくもない命題―最終的にそこに辿り着いたとしても―によって超克される程度のものであっただろうか。理念としてでなく、実際に賢治の思想・行動を方向づけた動機という観点からすれば、「すべてのいきもののほんたうの幸福をさがさなければいけない」という事から「けつしてひとりをいのつてはいけない」という結論に至る迄の間に飛躍があると思われる。

 この引用の最後で、工藤氏が「飛躍」と表現されたもののことが、私も以前から気になっていて、「悩みの果てに「いゝこと」と感じる」などという記事に書いたりもしました。
 それはさておき、工藤氏の考証は続きます。

 「どうか諸共に私共丈けでも、暫らくの間は静に深く無上の法を得る為に一心に旅をして行かうではありませんか」・「あなたと一諸に行かせて下さい」・「どうか一所に参らして下さい。わが一人の友よ」と保阪嘉内に呼びかけ、<二人だけ>の世界を求めた賢治にとって、嘉内との別離が深刻な打撃を与えたであろうことは想像に難くない。賢治は苦悶の内に、この別離の意味を仏法の中に探し求めたのではなかったか。

そしてついに、賢治蔵書の中から、工藤氏が探り当てた仏典の一節が提示されます。

 そして、見付けたのが、所蔵していた『國譯大蔵經』所収の「國譯大品 受戒篇第一」中の次の一節であった(と推測する)。

[前略]其の時世尊諸比丘に告げて宣へり、「[中略]比丘等、遊行を行へ、衆人の利益の爲に、衆人の安樂の爲に、世間の慈悲の爲に、人天の利益安樂の爲に。二人同一路を行くことなかれ。[後略]

 「二人同一路を行くことなかれ」―この言葉が、天来の叱咤として賢治を撃ったのではないだろうか。と同時に、別離という悲しむべき事態を、反省を含めて肯定的に受け止めようとする機縁となったと考えられる。

 あるいは工藤氏は[注]において、同じく賢治所蔵の『新譯佛教聖典』(大14刊)という本の中から、上と同一内容の記述も探し出しておられます。

 その時、世尊は比丘等に命じたもうよう。「[中略]比丘等よ。世間を憐みすべての人々の幸福のために世を巡れよ。二人して、一つの道を行かぬようにせよ。[後略]

 そして、上の引用の「すべての人々の幸福」という言葉が、「〔手紙 四〕」の、「すべてのいきもののほんたうの幸福」という言葉と通底している可能性も示唆しておられます。

 この、「二人同一路を行くことなかれ」「二人して、一つの道を行かぬようにせよ」という言葉は、何と賢治の核心を衝くものであったでしょう。
 保阪嘉内やトシとの別離を経験した後の賢治が読んでいたら、まさにその心の空隙に染みとおっていったのではないかと、私にも痛切に感じられます。


 その後、工藤哲夫氏は、トシを喪った後の賢治の心の推移を時系列的にたどり、まず「無声慟哭」「オホーツク挽歌」の時期には、トシが「ひとり」逝ったことにこだわり、「<仏法>を十分意識しながらなおその了悟に至らず、「いつしよに行」くことへの妄執との間で引き裂かれて苦闘」していたとします。
 次の「〔手紙 四〕」の段階では、「<仏法>の否応なき実線を経て辿り着いた一つの帰結点」を示しながらも、

この時点に於て賢治の動揺が収束していなかったことは、「チユンセはポーセをたづねることはむだだ」と言いながら「ポーセをたづねる手紙を出すがいい」と矛盾したことを述べているその混乱に徴憑を見出すことが可能であろう。

と、まだ混乱があることが指摘されます。この「〔手紙 四〕」の「矛盾」と工藤氏が指摘しておられる点は、私にとっても悩ましいものでしたので、以前に「「手紙四」の苦悩」という記事に書きました。

 その後、賢治の心が平安を得ていくのは・・・。

 「あゝ いとしくおもふものが/そのまゝどこへ行ってしまったかわからないことが/なんといふいゝことだらう」(「薤露青」)―ここに至って賢治の悲しみ・求道的動揺は漸く鎮静し、<仏法>も了悟の域に達しつつあったと言えようか。

 そして、最後に、

 そして、了悟の段階を経て賢治が最終的に得た明答が、実は<仏法>をその礎とするところの「みんながカムパネルラ」だから[中略]あらゆるひとのいちばんの幸福をさがしみんなと一しょに早くそこに行く」ことによってのみ、「ほんたうにカムパネルラといつまでもいっしょに行けるのだ」(「銀河鉄道の夜」初期形三)というものであった。

ということになります。このあたりの流れは、私が以前にたどった「悩みの果てに「いゝこと」と感じる」とも共通している部分も多くて、こんな専門家の論文と比較するのは素人としておこがましいかぎりですが、素直に嬉しいことです。
 そして、工藤氏は最後に、次のようにしめくくります。

 以上の流れの中に「黄いろのトマト」を置くならば、それは(時系列的に)トシとの別離と「〔手紙 四〕」の間に位置することになる。話は最初に戻る。「黄いろのトマト」は<二人だけ>の世界とその崩壊を描いたものであった。<二人だけ>の強調と悲劇的結末の意味するものは、未だ<仏法>の了悟に至らぬ賢治が、そこ「に近づく一あし」として、一度は自らの悲しみの体験をこそ徹底的に作品化することによって一種の自己治療を試みたということではないだろうか。

 この結語に付け加えることはありません。