「〔雨ニモマケズ〕」のなかで、以前から私がどうしても釈然としなかったのは、後半に出てくる、
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
という箇所でした。
「喧嘩」をやめろ、というのならば全く納得のできることなのですが、当事者間の実力行使としての「喧嘩」を回避するために生まれた制度が「訴訟」であるはずなのに、その「訴訟」までを止められてしまったら、人はどうやって利害の調整をしたらよいのでしょうか。
賢治自身は、何であれ「争いごと」は好まなかったでしょうし、どんなトラブルに巻き込まれたとしても、おそらく自分から「訴訟」を起こすようなことはしなかった人だろうと思います。しかし、社会全体として考えると、どんなものでしょうか。
「雨ニモマケズ論争」で有名な中村稔氏も、この箇所に対して、以前は批判的でした。
後年の「あらためて「雨ニモマケズ」について」という文章(思潮社『宮沢賢治ふたたび』所収)から引用させていただくと、中村氏はこれについて次のように述べておられます。
私は若いころ、「ケンクヮヤソショウガアレバ/ツマラナイカラヤメロトイヒ」という思想が嫌いでした。私たちの社会に必ずしも正義だけが行われているわけではありませんし、あるべき社会正義、社会秩序といわれるものも決してひとつではありえませんから、人間と社会との間、人間と人間との間の衝突は避けられないものです。私自身訴訟というものは避けられたら避けた方が、ことに、経済効率の面からみて、望ましいとは思いますが、近代の人間は、社会から義務を課せられている、と同時に、権利を与えられている、義務をはたすことが社会的な義務なら、その反面として権利を主張することも社会的な責任だと考えてきたのです。
みんなが訴訟や喧嘩をつまらないからといって止めてしまったらどうなるか、結局のところ、強欲な人々、我執を主張する人々の私利私欲がまかりとおるのを許すことになるだろう、病床にあった賢治はどんな世界を夢想したのだろうか、これは彼が気が弱くなっていたためだろう、などと考えました。
詩人であると同時に弁護士でもある中村氏の論理は、明晰です。しかし、上記のような氏の「若いころ」の考えは、その後すこし変化したのだそうで、上の文章の続きは、下のようになっています。
いま、これを読み返してみると、どうも人は人を審判すべきではない、いずれにしても、人間の生涯の賞罰は来世できまるのだ、と賢治が考えていたのではないか、と思うのです。つまり、ここでも彼は仏の言葉を語っているのだ、と私は考えるのです。
すなわち、賢治が「訴訟」までをも「ツマラナイカラヤメロ」と言ったのは、「人は人を審判すべきではない」という考えにもとづいていたのではないかというわけで、これはこれで、説得力のある「読み」だと思います。
ところで、上で中村氏が「彼は仏の言葉を語っている」と述べておられるのは、非常に示唆的です。
私は先日ちょっとネット検索している時に、『大集経』という経典の中で釈迦が、「(仏滅後二千年経った)次の五百年、我が法の中に於いて、闘諍言訟して白法隱没し損減せんこと堅固なり(人々が互いに争って訴訟を起こし、仏の正しい教えは隠れて見失われる)」と言った(と伝えられている)ことを知りました。
日蓮は、この部分をしばしば引用していて、いわゆる「末法」の時代の特徴が、「闘諍言訟・白法隱没(とうじょうごんしょう・びゃくほうおんもつ)」と表現されるようになったのも、ここからきています。日蓮遺文の中では、例えば「撰時抄」に、「今末法に入つて二百余歳大集経の於我法中闘諍言訟白法隠没の時にあたれり仏語まことならば定んで一閻浮提に闘諍起るべき時節なり」などとして出てきます。
そこで考えるに、賢治が「〔雨ニモマケズ〕」の中で「ケンクヮヤソシャウ」と書いているのは、まさに経典に云うこの「闘諍言訟」という言葉を、平易に言い換えたものなのではないでしょうか。すなわち、闘諍=ケンクヮ、言訟=ソショウ、として対応するのではないでしょうか。
このように理解すれば、「ケンクヮヤソシャウ」が世の中に起こるのは、仏教者から見ると仏の教えが失われた「末法」のしるしであって、それ自体がまことに嘆かわしいことだろうと了解できますし、「ツマラナイカラヤメロ」と言いたくなるのも、少しわかる気がします。
また、賢治が書いた「法華堂建立勧進文」の中には、
仏滅二千灯も淡く
劫の濁霧の深くして
権迹みちは繁ければ
衆生ゆくてを喪ひて
闘諍堅固いや著く
という一節があります。「闘諍堅固」というのは、「闘諍言訟して白法隱没し損減せんこと堅固」から来ていて、「末法」のことを、別名「闘諍堅固時」と呼ぶこともあるようです。
これらは、若いころから日蓮遺文(「御書」)に親しんできた賢治にとっては、血肉になっているような言葉だったのでしょう。
内山
私は40歳後半のサラリーマンです。内山と申します。このような場所に投稿するのは初めてで、作法も知りませんが、私の「雨ニモマケズ」観を書きたくなってしまいました。
私が「雨ニモマケズ」の詩に出会ったのは、小学校6年生の頃です。学校の国語の時間でした。詳しくは覚えていませんが、担任の先生は、「このように質素でつつましい生活をするのがよいことなのですよ。宮沢賢治はそうなりたかったのです。」と教えていただきました。
その後、無意識のうちにそれが30年も心に引っかかっていたのでした。つまり「そういう解釈ではないのではないか。」ということです。特にそれについて突き詰めて考えていた訳ではありません。ただ単に引っかかっていたのです。
私は特に宮沢賢治に興味があったわけではなく、風の又三郎や注文の多い料理店などを他の生徒と同様に読み、今思えばなんとなく荒涼とした原野の寒い風のようなものを感じていました。今でも宮沢賢治に詳しい訳でもなく、かつての読者に過ぎません。
40歳前くらいでしょうか。。自宅の向かいの家に済んでいた老夫婦の旦那さんの方が亡くなりました。私とその人との付合いは単なるご近所づきあいでした。ただ、おばあさんの方が、「家の周りが汚いが、腰が痛くて、、、」などとおっしゃるので、休みの時には掃除を手伝ったり、伸び放題になった木を切ったり、していました。お礼にとビールを持ってきてくれたり、お刺身をいただいたりしました。「来ても家に鍵がかかっている。どうして鍵なんかかけるの。」とおっしゃる素朴な方でした。
おじいさんはビリヤードが得意で、週に1度どこかに教えに行っていたそうです。そんなおじいさんを、おばあさんは「ほんとにもう、何にもしないんだから。。」と愚痴っていました。私は「おとうさんはもう沢山働いたんだから楽しんでもいいじゃないですか。もう十分しょう。」などと答えておりました。
おじいさんの突然の訃報をを聞いて、駆けつけるとおばあさんは腰を抜かしていて、近所のおばさんがひとりで世話を焼いていました。私は思わず悲しくて泣き出してしまいました。その近所のおばさんとも顔見知り程度で、涙を見せるような間柄ではありませんでした。思わず泣いて涙を見せてしまったことを少し後悔しました。
私は別段そのおじいさんが好きだった訳ではありません、あいさつ以外の言葉を交わしたことは稀でした。しかし、何故かとてつもなく悲しかったのです。希薄なお付合いが「死の悲しみ」そのものを、私の心の中でクローズアップさせていました。
人類史始まって以来、一体延べ何人の人が生きてきたでしょうか?そして、今生きて同じ船に乗っている人達は40億人もいるけれど、人類の歴史の中ではほんのわずかで、中でも顔を見知っている人は極々少数でしかありません。そのうちの一人が亡くなり、私はもう永遠にその人に会えないのです。
前置きが長くなりましたが、ここからが、私の「雨ニモマケズ」観です。これは私の独断で単に自分がそう感じたことです。
おじいさんの死に直面した時のことです。私は何故かこの詩を思い出し、「そういうことだったのか。」と思いました。
この詩は、小学校の先生がおっしゃったように、作者の道徳観を教え伝えたかったものではなく、ありのままの自分に戻りその心の動きを常に素直に表現し続ける生き方をしたい、あるいはしたかった、ということなのだと思いました。
宮沢賢治の生きた時代がどうだったのかよくわかりませんが、今の世の中は、人が亡くなっても大声を上げて泣くことすらできません。心配事があっても平然としていなければなりません。喧嘩を見ても見てみぬふり。同じ船に乗り合わせたんだから仲良くしようよ、などとは言えません。困った人を見ても手を差し出すのには状況判断と勇気が必要です。
自分の望む生き方に立ち戻り、素直に感情を表現することなど、したくても出来ないのです。ただし、必ずしもそれが良いことではありません。自分の感情に素直になればなるほど、人に悪い影響を与える場合もあるでしょうし、一番大切な人を守れなくなってしまう危険さえあります。「素朴な自己表現こそが人間の価値である」などと思ったところで、人との関わりがある限りそれは実践できないし実践すべきないと普通は考えますよね。
でも、宮沢賢治は本当はそうしたかったのだ、と思いました。つまり私がそのように生きたいと感じて、勝手にこの詩をそのように解釈したのです。
その後、私は努めてそのように生きてきました。喜ぶときは初めて立ち上がった子供のように喜び、悲しいときには人目もはばからず(大声でという訳にはいきませんでしたが)泣きました。節度はあれど怒りました。それが自分の望む生き方であると感じていました。しかし、時にそれが原因でカドが立つことがあったことも事実です。
この歳になって、社会の中でそのような生き方をすることはとてもエネルギーを要する生き方であり、その生き方に限界を感じました。つまり、理想を掲げることに降参しました。しかし、本当の本当に自然にそのような生き方が出来たらどうでしょう。「でくのぼう」だと言われようと、いや、むしろ「でくのぼう」のレッテルさえ貼られてしまえば、人を傷つけることもなく、どれだけ幸せに生きられることかと思います。私は、死ぬまでこのような生き方は出来ないと思いますが、そうしたい気持ちには変わりません。
ひょっとして、宮沢賢治もそんな風に生きたかったのかも、と思うと親しみがわきます。
長文を読んでいただき、誠にありがとうございました。
hamagaki
内山様、はじめまして。
すばらしい書き込みを、ありがとうございました。何度も読ませていただきました。
おじいさんがご健在の頃の、おばあさんと内山様との交流、おじいさんの突然の訃報に接して内山様がお向かいへ駆けつけた時の様子、腰を抜かしているおばあさんとの対面、そして内山様の号泣、それぞれの場面が目に浮かぶようでした。
生前の宮沢賢治が普段どんな人であったか、私も実際に会ったこともないのでわかりませんが、いろいろな人の書いた物を見ると、一方では控えめで穏やかで、「イツモシヅカニワラッテヰル」人のようでいて、しかし何かに感動した時には、「ホホホホーッ」と叫んで飛びまわったり、月夜の麦畑ので水泳のようなポーズを繰り返して「銀の波を泳いできました」と言ったり、ある時は激しく怒ったり、本当に素直に、自分の感情を表現する人でもあったようです。
当時でも一部からは「奇人変人」のように思われ、それは本人にとっても「とてもエネルギーを要する生き方」だったかもしれませんが、若いころの賢治は、そんなことはおかまいなしに、あふれるエネルギーを発散させつつ、生きていたような印象を受けます。しかし晩年に病気になって、臥床生活を余儀なくされてからは、そのようなエネルギーを外に向かって発露する機会もなくなってしまったようですが。
「雨ニモマケズ」という文章は、賢治の「祈り」のようなものだとよく言われ、私もまさにそのとおりだと思います。若い頃からの自分の人生に対していろいろなことを思い返しつつ、病床でこれを書いたのだろうと思います。内山様のおっしゃるとおり、「道徳観を教え伝えるため」に書いたものとは、私も思いません。
ところでこの詩(?)の中で、私がどうしても感動する箇所の一つは、
ヒデリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
というところです。
みんなの苦しみを本気で一人で背負おうとし、また自分の無力を責め、そしてそれらの総和としての悲痛を隠そうともしない、ありのままの賢治の姿が浮かび上がってくるように、私には感じられます。
このたびは、貴重な文章をお寄せいただき、重ね重ねありがとうございました。
私自身も内山様と同年代の人間ですが、まことにおこがましいことながら、内山様の今後の人生の幸いを、お祈り申し上げます。