「経埋ムベキ山」の踏破や美しい草花の写真を楽しませていただいている「宮沢賢治の里より」というブログの、「賢治と大正末期の岩手山登山(その1)」という記事において、小原忠氏という賢治の農学校における教え子の方が、賢治と一緒に飯豊森や岩手山に登った体験を回想する文章を書いておられたことを知りました。
その「山と雪と柏林と」という文章が掲載されている『校本宮澤賢治全集』第13巻「月報」を、私もさっそく図書館でコピーしてきました。
ちょっと引用が長くなりますが、その前半は以下のようなものです。
山と雪と柏林と
「岩手山につれてってやろう。」と宮沢先生に云われたのは花巻農学校一年生のときである。それから暫くたった大正十三年の春、ある晴れた日の朝、これから飯豊森(この地方では「いでもり」と呼ぶ)に行こうと私の家に誘いに見えた。飯豊森は花巻南西約四キロ、平野部に佇立する一三一.六米の小さい山で、古い岩鐘である。
途中先生はその当時売出されたばかりのゼリービンズと干葡萄を箱ごと私にくれた。そして化学の先生らしく、ゼリーのなかにはゼラチンが入っていると云った。当時私は、或る先生から、骨は石灰と膠からできている。従ってこれらを摂取すれば骨が丈夫になり背も高くなると聞いて、薬店から買求めて摂っていた。それで先生に「ゼラチンを食えばほんとに大きくなるんですか。」と訊いたら、「誰がそんなことを教えたか。」と苦い顔をした。
そんなことを話しているうちにやがて山に着いて、いよいよ登り始めると、意外に高く路も険しかった。中腹まで登ったら、先生はどんどん頂上目がけて駆出した。私は懸命にその後を追掛けたが先生はなかなか早くて追いつけなかい。やっとのこと息を切らして頂上に辿りついた。先生は「小原君は案外丈夫なんだな。これなら岩手山に連れてゆける。」と云った。先生は私のことを身体も小さいし、極端に弱いと思っていたらしい。
今迄山登りといえば遠足で花巻東郊の胡四王山(一七六.六米)に登ったぐらいのもので、この飯豊森は平野部にあるだけに意外に遠望がきいて周囲の山々は美しく見えた。帰りは、詩の作り方を教えるからと云って、私に詩を作って見ないかと云われた。あたりは青い麦畑が点々とある。雲雀が鳴いている。北に一本の道が真直に通っている。その上の青空と白い雲、西と東にはまだ雪をのせた奥羽と北上の山脈――。それらの風景を私は出まかせに羅列したら先生は、詩というものは、最初にパッと感じた印象から書くものだと云って即興の詩を朗唱した。その詩は覚えていないが乱積雲という言葉があったから、全集でその頃のものを見ると春と修羅第二集に次のようなものがある。そのこっちではひばりの群が
いちめん漂ひ鳴いてゐる/
氷と藍との東橄欖山地から
つめたい風が吹いてきて/
乱積雲の群像は
いまゆるやかに北へながれる
(休息 大正一三・四・四)野路の傍の低地には、吹き溜まりの残雪がまだあった。先生は路から下りてその雪を掻きわけ、ザラメのような雪を両掌いっぱいに盛りあげたまま私にくれた。先生もいっぱいとって喰べながら「ああうまい。」と感に堪えないように云った。先生はこういうものをほんとうに好きだった。こんこんと湧出る清水をのむときも、さながらおしいただいて、味わうように飲む人であった。
水いろの天の下
高原の雪の反射のなかを
風がすきとほって吹いてゐる/
にもかかはらずあちこち雪の彫刻が
あんまりひっそりしすぎるのだひばりは漂い、残雪はあんまりひっそりしすぎる早春の野みち――この日はこのような景色だったのである。(後略)
賢治の詩の引用は、一つめは「休息」(1924.4.4)、二つめは「烏」(1924.4.6)です。
それにしても賢治から直々に「詩の作り方」を教えてもらえるとは、うらやましいかぎりですね。
さて、この小原氏の文章によって私が新たに知ったことの一つは、賢治が後に「経埋ムベキ山」に選ぶ「飯豊森」に、実際に登っていたということです。もちろん、賢治のことですから花巻近郊にあるこの山にも登っていた可能性は高いと思ってはいたのですが、元生徒の証言によって、それが確認できたわけです。さっそく、「経埋ムベキ山。」のコーナーの「飯豊森」の頁にも、この情報を書き加えました。
それから、私がこの文章から知ったことのもう一つは、当時まだ目新しかったであろう「ゼリービーンズ」と「干葡萄」を、賢治が持っていたということです。この時の「干葡萄」は、はたしてSUN-MAID 社のものだったのでしょうか?
賢治と「ゼリービーンズ」の結びつきは、私としては今回初めて目にしたことで、ハイカラ好きの賢治らしい感じですが、小原忠氏によれば、「当時売出されたばかり」ということですね。
日本におけるゼリービーンズの登場や普及ということについて、ちょっと調べてみようと思ったのですが、ネットの情報だけでは詳しいことはわかりませんでした。ただ、こちらのページの次の箇所によれば、明治時代から日本にも、ゼリービーンズを作る会社はあったようにも読めます。
当初手工業であった洋菓子の製造は「ビスケット」「ドロップ」の製造に刺激されて機械工業化され、「キャラメル」「チョコレート」「ウェファース」「ピース」「掛物」(ゼリービーンス、チャイナマーブル等)も次々製造されるようになりました。それでも明治末期で国内菓子生産総額の約1割に過ぎませんでした。
しかし、中央から離れた花巻においては、ゼリービーンズの登場は大正時代の終わり頃になったということでしょうか。
雲
お久しぶりです。
このゼリーなら、わたしも、食べたことがあります。
ゼリービーンズというのですか。
知りませんでした。
懐かしいです。
なんだか、うれしいな。