経埋ムベキ山。
賢治が晩年に病床のなかでこつこつと書きためていた、通称 「雨ニモマケズ手帳」の143頁から144頁にかけて、下のようなメモが残されています。
これは、岩手県内の山の名前を列挙したもので、いくつかの山は書いてから線を引いて消したり、後から別の筆記具で新たに書き加えたり、賢治があれこれと選考した様子がうかがえます。
左端には、「経埋ムベキ山。」という全体の標題が付けられています。また同手帳の136頁(右画像)と151-152頁には、「経筒」の銘文や配置を検討した跡もみられます。
さらに151頁には、「此ノ筒法滅ノ后至心求法ノ人ノ手ニ開カレンコトヲ翼フ 此ノ経尚世間ニマシマサバ人コノ筒ヲトルコトナク再ビコノ地中ニ安置セラレタシ」という文章が書かれています。
これらの所見を総合すると、賢治は自らの死期も感じていたこの頃、岩手県内の山に「埋経」を行う計画をしきりに練っていたのだろうと推測されます。
「埋経」とは、保存性のある容器に仏教の経典を入れて、地中に埋納することです。なぜそのようなことをするのかというと、これは一種の「タイム・カプセル」の試みなのです。
仏教の歴史観では、釈迦入滅後500年(あるいは1000年)間を「正法」、その後1000年間を「像法」、さらにその後10000年間を「末法」と呼び、末法すらも過ぎてしまうと、いったんこの世から仏の教えは滅びてしまうと考えられています。それからさらに天文学的な時間が経てば、釈迦入滅後56億7000万年の時点で、弥勒菩薩が出世して新たな仏として説法を始めることになっていますが、それでは弥勒出現までの間に救われない人々が、あまりにも多すぎます。
そこで、幸いにしてまだ仏の教えに触れることのできる時代に生きる人は、仏法が滅びた後の世の人々のために、尊いお経を地中の奥深くに託してみるのです。ひょっとして未来の誰かが土の中から経典を再発見して、初めて仏の教えに触れる契機にならないかという期待をこめて。また、埋経という行為が、自分自身の「功徳」にもなるようにとの願いをこめて。
このようにして経典が埋められた場所は、一般に「経塚」と呼ばれますが、なぜか経塚というものはたいてい人里の中にはなくて、ほとんどが山の中に作られています。後世の人々の目に触れさせることが目的ならば、人の多い場所に埋めればよさそうなものですが、この「わざわざ山に埋める」というところに、埋経の思想の一端がのぞいているような気がします。
すなわち、人は経典を山という場所に埋めることによって、その安全な保護を、「山の霊威」に託そうとしたのではないでしょうか。仏教の伝来以前から、日本人はある種の山を聖域と見なし、そこには神が宿ると考えていました。日本古来の「山岳信仰」です。法滅の世において、無事に仏典を後世に伝え残すためには、山の持つこのような神聖な力に助けを請う必要があると、人々は考えたのではないでしょうか。
日本の土着の(≒神道の)神様に仏教の保護を願うなどというと、神仏分離以後の近代の宗教観からはおかしな発想に思えますが、じつは明治以前は、神様と仏様は、もっと渾然一体となって人々に信仰されていたのです。東大寺には八幡神が、興福寺には春日明神が、延暦寺には山王権現が、園城寺には新羅明神が守護神としてついているように、お寺を守るために鎮守の社があって、「神が仏を守護する」ということは、ごく当たり前のことと考えられていました。
たとえ仏教が滅びようとも、古くから山に住む神々は、ともに仏敵に対抗し人間に加護を与えてくれるはずだ……。経典を埋めようと山に登った人の心には、そのような思いがあったのではないでしょうか。
さて、賢治の「埋経計画」に戻ります。
賢治の場合、埋める経典はもちろん「法華経」です。 あとはこれをどこに埋めるのかということが問題ですが、上記のような埋経の思想と一致して、やはり賢治も「山」に埋めようと考えたようです。そして、どの山に埋めるべきかということを検討してみた跡が、冒頭の手帳の頁だったと思われます。
この手帳の頁では通常の縦書きとは逆に、左から右へと行が進む形になっていますが、これをわかりやすく横書きにすると、下記のようになります。紫の字にしてあるの、紫色鉛筆で後から補筆されたと思われる箇所です。
経埋ムベキ山。 |
最終的に、山は全部で32ありますが、いずれも岩手県内の山です。記されている順番は、全体として一定の規則に従っているわけではないようですが、位置的にある程度かたまって存在している山を、まとめて書いているようです。
すなわち、まず一行目は花巻の東から南近郊の小山、二行目は北上山地の中央部の山、三行目の姫神山までは盛岡以北の山、六角牛山および四行目は北上山地の南部の山、五行目と六行目は花巻の西近郊の山、七行目と八行目は花巻と盛岡の中間で西方にある山、九行目は盛岡の東近郊の小山、十行目と十一行目は盛岡の西方の山、という具合です。
このように、行ごとに地域が不規則に飛ぶ様子を見ると、賢治はこのメモを書きつけた時、地図を見ながら系統的に山を列挙していったのではなくて、自分の記憶の中をあれこれと探りながら、山を選び出していったのだろうという気がします。
彼は病床の中で、思いをはるかにイーハトーブの野山に馳せていたのでしょう。
よく議論のテーマになるのが、「賢治はいったいどのような基準で、この32の山を選んだのか」ということです。
世間で一般に「名山」と言われるような客観的な尺度で選んでいるのか、あるいは賢治が個人的に好きな山というような主観的な尺度で選んでいるのか、とりあえず二つの要素が考えられます。そしてこの二つの側面に関しては、賢治はそれなりにバランスを考えながら、選定を行っているようなのです。
岩手山や早池峰山などは、客観的にもまぎれもない名山ですし、なおかつ賢治も深く愛した山ですから、その「当選」に異論の余地はありません。
これに対して、小沢俊郎氏の言う「賢治三山」の残り一つである種山はどうでしょうか。賢治の個人的愛着は先の二つに劣らないでしょうが、こちらは一般的にはそれほど注目されていた山ではありません。それにもかかわらずこの種山もちゃんと「経埋ムベキ山」に選ばれているのは、賢治はここに自分の主観的な好みも十分反映させたということでしょう。
江釣子森山とか松倉山とか南昌山とか鬼越山とか沼森とか、賢治の作品に登場する比較的小さな山々が選ばれているのも、個人的心情によるところが大きいだろうと思います。
一方、束稲山や六角牛山などは、これと対照的です。束稲山は、平泉が栄えた藤原時代からの桜の名所で、西行の歌にも詠まれました。また六角牛山は、古くから「遠野富士」と呼ばれ、これも名山の一つです。
いずれも、岩手県内の山を挙げるとなれば外せないような重要な山なのですが、しかし花巻から離れているためか、賢治が個人的にこれらに親しんでいたという痕跡は見られません。それでも賢治がこれらの山を「経埋ムベキ山」に選んでいるのは、選出にあたって世間一般の客観的評価というものも、ある程度は取り入れた結果でしょう。
さて、それでは選択基準は、「客観的な名山」and/or「主観的な名山」と整理してしまってよいのかとなると、まだこの二要素だけに尽きるわけではないようです。たとえば、リストの一行目の山々をご覧ください。この5つの山(旧天王山、胡四王山、観音山、飯豊森、物見崎)は、いったいどこが評価されたというのでしょうか。
まだしも胡四王山は、岩手病院退院後の賢治の煩悶の時期にしばしば短歌の舞台となっていますし、旧天王山は、詩「〔何かをおれに云ってゐる〕」や童話「或る農学生の日誌」に登場します。だから、この2つは賢治の個人的愛着のために選ばれたのだと、言えなくもありません。
しかしあとの3つ、観音山、飯豊森、物見崎はどうでしょう。これらは賢治が登った記録もなく、作品中にも(ほぼ)登場しません。また客観的には、これらの山はごく平凡な小さな丘で、特に山容が立派だと言えるわけでもなく、失礼ながらとても「名山」などと呼べる代物ではありません。いったいどんな理由で、賢治はこれらの山を、よりによってリストの冒頭第一行目に選出したのでしょうか。
私がこの疑問について考えながら地図を見ていた時、ふと目についたのは、これらの山はいずれも小さいながら、その山頂には「鳥居」のマークが付いていて、何かの祠が祀られているようだということです。特別に立派な神社というほどではないのかもしれませんが、これらの山には、地元の人の尊崇を集める何かの神様が、昔から鎮座しているのでしょう。
第一行目に並んでいる山々には、このような共通性があったのです。
つまり、賢治が「経埋ムベキ山」を選ぶ時、もう一つの要素として考慮したのは、その山が古来から備えている「宗教的な由緒」というものだったのではないのでしょうか。
観音山も飯豊森も物見崎も、いずれも目立たない小さな山で、賢治にとっても個人的に強い思い入れはなかったかもしれません。しかし、それぞれの山の頂に古い祠があって、地域で信仰されているということは、賢治もちゃんと知っていたのだろうと思います。
そして前述のように、「埋経」という行為一般の背景には、山の固有の神への信託があったと考えられます。ですから、賢治が経典を埋める山を選ぶにあたって、個々の山に鎮座する神様の存否も勘案したとすると、それは埋経のためには至極正統的な選考基準だったということになります。
すなわち、賢治が「経埋ムベキ山」を選定するにあたって考慮したのは、(1)客観的な「名山」性、(2)賢治の個人的愛着、(3)宗教的霊威の存在、という三つの要素だったと思います。これを模式的に図示し、三要素の有無に従って個々の「経埋ムベキ山」を分類すると、下図のようになるかと思います。
(図) 「経埋ムベキ山」の三要素
個々の山の位置づけには検討の余地があるでしょうが、このような視点から「経埋ムベキ山」を見てみることもできるのではないでしょうか。
さて、このコーナーでは、これまでに私が訪ねた「経埋ムベキ山」の様子を、レポートしてみたいと思います。上に述べてきたような理由のために、それぞれの山の「宗教的由緒」というべきものについても、素人の私がわかる範囲で触れてみたいと思います。
私個人では、なかなかすべての「経埋ムベキ山」をめぐることはできないでしょうが、まずは花巻近郊の山から取り上げてみます。
下の画像または山名をクリックすると、それぞれの山の説明のページが表示されます。
江釣子森山 |
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大森山 |
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堂ヶ沢山 |
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松倉山 |