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手塚治虫と賢治

  • 内容分類: 雑記

 先週、賢治の話題から波及して「手塚治虫とイソップ」について書きましたが、ちょうど今「江戸東京博物館」では、「生誕80周年記念特別展」として「手塚治虫展」が開催されているんですね(4月18日~6月21日)。
 そこで何となく、「手塚治虫と宮澤賢治」の関係?というのが、ふと頭に浮かんだのです。二人とも、もとは理系出身で、文学的奥深さも比類なく、非常に広範で多彩な作品群を残した天才的な創作者だったと言えますが、二人の間に何か「交叉」するものはあったのでしょうか。

 そう思って調べてみると、手塚治虫のエッセイの一つに、「『銀河鉄道の夜』を読む」というのがあるんですね。

ぜんぶ手塚治虫! (朝日文庫 て 3-5) (朝日文庫)  ぜんぶ手塚治虫! (朝日文庫)
 手塚 治虫

 
朝日新聞社 2007-10-10
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 上の『ぜんぶ手塚治虫!』という本は、手塚治虫のマンガやエッセイ、未発表シナリオ、対談などで構成された一冊ですが、この中にその「『銀河鉄道の夜』を読む」が収められています。初出は、朝日新聞の1985年7月7日紙面だったようです。
 書き出しは、次のように始まります。

 じつは今、この稿をパリから何百キロメートルもはなれたアルケスナンという村で書いている。日仏文化サミットという国際交流会議に出席するために、日本からとんできた。出発の前に、あの厄介な台風が通過した。飛行機の中で、さぞかし揺れるだろうと観念していたのに、雲の上の上天気の空間を、旅客機はゆうゆうと飛び続けた。あっという間に夜になり、満天の星が、静かに静かに後方へ動いていった。それを眺めながら、「ああ、また『銀河鉄道の夜』を機内で読みかえさにゃあな」と思った。乗客がみんなそなえつけの毛布にくるまって眠っている、しんとした機内で、ぼくは自分がジョバンニになったような気分にひたりながら、星を見つづけた。

 去る2月頃に、NHK特集の手塚治虫・創作の秘密」(1986)という番組の再放送があって、私はその中で上記の「日仏文化サミット」に出席する直前と会議中の手塚氏の姿を見たところだったので、とりわけ上の情景は親しみが湧きました。「銀河鉄道の夜」という作品を読む場所として、夜空を飛ぶ飛行機の中というのはまさにうってつけの感がありますが、手塚治虫がここまで賢治の作品に親しんでいたとは、初めて知りました。
 エッセイでは、「銀河鉄道の夜」という作品の性格に関して、創作者ならではの視点からのさまざまな感想が述べられます。終わり近くの次のところなどは、ちょっと興味深かったです。

 賢治の童話といえば、かつては「風の又三郎」に代表され、「セロ弾きのゴーシュ」がそれに続く知名度があった。「銀河鉄道の夜」は、それにくらべると宗教的な、あまりにも瞑想的な主題のために一般向きとはいえなかった。だが今日、この一篇は子どもでも夢中になって読みふけり、充分理解できる時代になったのだ。それは先にも言ったが、その映像と音の洪水を、視聴覚世代、ことにテレビやアニメの洗礼を受けた世代がなんの抵抗もなくイメージ化して娯しむ力を具えているからであろう。それ故にあきらかに賢治作品としては今や最もモダンな、時代を超越した、知的な魅力に溢れた、そして国際色豊かな作品として浮上してきたわけだ。


『宮澤賢治 漫画館』4 あとそれから、私にとっては驚きだったのですが、手塚治虫が賢治の作品を漫画化したものもあったんですね。残念ながら今は絶版となっていますが、潮出版社が1996年に出版した『宮澤賢治 漫画館』という全5巻シリーズの第4巻(右写真)に、その手塚作品は掲載されています。
 このシリーズは、有名なところでは水木しげるとか松本零士とか永島慎二とか、いろいろな漫画家が、それぞれの個性的なタッチで賢治の童話の漫画化したもののアンソロジーで、どれも楽しめます。

 手塚治虫が賢治の童話を漫画化する!となると、私などは上記の「銀河鉄道の夜」とか、「セロ弾きのゴーシュ」とか「ポラーノの広場」とか、ストーリー性の強い作品を期待してしまいますが(とくに「ポラーノの広場」に登場するロザーロの姿なら、手塚治虫が描いたであろう顔立ちまでが目に浮かぶほどなのですが)、実際に手塚治虫が選んだのは、ちょっと意外なことに、「やまなし」だったのです。
 ストーリーの展開ということよりも、賢治自身が「幻燈」と呼んだように、視覚的な映像に主眼が置かれたこの「やまなし」という作品を、白黒のペン画によっていかに表現しているのかということは、私にとっても興味深々でした。
 で、実際に作品を見てみると、さすがに手塚治虫……、童話で描写されている情景をそのまま漫画化するというような単純な手法はとらずに、とても凝った方法が用いられているのでした。

手塚治虫「やまなし」

 上がその最初のページですが、作品は、上半分と下半分が独立したストーリーとして並行しつつ進行する形とっています。
 上半分は、賢治の「やまなし」を、公民館で子供たちが劇として上演している様子をマンガとして描いています。台詞は、基本的に賢治の原作どおりです。
 下半分は、その公民館――「下根っ子公民館」という表札が出ています――の周辺で繰り広げられるドラマです。しかしこのドラマが、上段の「やまなし」の内容とシンクロナイズしているところが、非常に巧みな構成になっています。
 ドラマの設定は、太平洋戦争の末期と思われる東北地方の農村で、児童劇の公演を行うことまでも「時局に合わない」との理由で禁止されることになり、最後の公演の準備が行われています。(賢治が苦汁を飲んだ「学校劇禁止令」を連想させます。)
 そのような日常の情景の中で、突然、逃亡した思想犯を特高の刑事が追いかけてきて射殺するという事件が起きます。そして、その特高の刑事さえも…

手塚治虫「やまなし」

アメリカの戦闘機グラマンの突然の空襲によって殺されてしまうのです(上写真)。そしてこの場面が、上段の児童劇「やまなし」において、空中からカワセミが襲ってきて魚が連れ去られる場面と同期しているのです。

 作品の最後は、はじめて上段と下段が統合された縦長のコマになり、「下根っ子公民館」の前に「おしらせ 「やまなし」の公演は休演になりました」という掲示が出ているさびしい情景で締めくくられます。

 「やまなし」というシンプルな素材を用いながら、高度に構成的な、実験的な作品にしているところが、結局やはり手塚治虫らしくて、ちょっと感動しました。