「春と修羅 第二集」の「序」と労農党

 結局は出版されなかったものの、賢治が一時は出版を想定して書いた「春と修羅 第二集」の「」の草稿が残されています。『春と修羅〔第一集〕」の「」が、新たな世界観を提示しようというほどの若々しい気概にあふれていたのに対して、こちらの『第二集』の「序」の方は、諧謔味をもって、自嘲を装うようでいながら、自身の生活や労働に対する「矜持」も感じさせるものです。

 さて、その『第二集』「」は、次のように始まります。

  序

この一巻は
わたくしが岩手県花巻の
農学校につとめて居りました四年のうちの
終りの二年の手記から集めたものでございます
この四ヶ年はわたくしにとって
じつに愉快な明るいものでありました
先輩たち無意識なサラリーマンスユニオンが
近代文明の勃興以来
或ひは多少ペテンもあったではありませうが
とにかく巨きな効果を示し
絶えざる努力と結束で
獲得しましたその結果
わたくしは毎日わづか二時間乃至四時間のあかるい授業と
二時間ぐらゐの軽い実習をもって
わたくしにとっては相当の量の俸給を保証されて居りまして
近距離の汽車にも自由に乗れ
ゴム靴や荒い縞のシャツなども可成に自由に撰択し
すきな子供らにはごちさうもやれる
さういふ安固な待遇を得て居りました

 賢治自身の、農学校教師時代の生活について述べているところです。この中で、私にとって何となく不思議な箇所がありました。
 教師時代の賢治は、確かに「わたくしにとっては相当の量の俸給を保証され」、上に書いてあるようにいろいろと経済的な自由を享受できる状況にあったのでしょうが、賢治によればそのような経済状態をもたらしてくれたのは、「先輩たち無意識なサラリーマンスユニオンが/近代文明の勃興以来/或ひは多少ペテンもあったではありませうが/とにかく巨きな効果を示し/絶えざる努力と結束で/獲得しましたその結果」である、というのです。
 私が疑問に思ったのは、当時の教師の俸給というのは、「サラリーマンスユニオン」の運動の成果と言えるものだったのだろうか、ということでした。

 まず、大正時代の教師の給料がどの程度のものだったのか、調べてみました。弓削耕「日本の教育の歩み(4)」によれば、「当時の教員の給与は勤め人平均の70%程度と低いものであった」ということです。伊ヶ崎暁生著『文学でつづる教育史』p.184によれば、「大正3年の物価指数を100とすると、大正7年には220に上昇する。しかし、教員の俸給は大正7年でやっと3割5分の上昇率であった」とのデータもあります。また、このような経済状態のために、「第一次世界大戦後、(中略)物価の上昇による教員生活の悪化にともなう教員の無気力な状況」があったことも、指摘されています(中野光著『教育改革者の群像』p.88)。
 すなわち、当時の教師の給与は、客観的にはあまり十分と言えるものではなかったようなのです。もちろん、農民や現業労働者に比べると、安定した収入は保証されていたのでしょうが、一家の大黒柱として家族を養うとなると、決して「安固な待遇」ではなかったと思われます。賢治の場合は、両親とともに暮らしていたので家賃や食費を払う必要がなく、自分が養うべき家族もなかったので、「わたくしにとっては相当の量の俸給」だったのでしょう。
 ちなみに賢治の俸給は、1921年(大正10年)の就職時で「八級俸(80円)」、退職前には「五級俸(110円)当分105円支給」となっています。これを現在の貨幣価値に換算するとどうなるか、様々な規準があって一概には言えませんが、たとえば金の価格を基準にすると、1925年には金1g=1円73銭、2008年には1g=2937円ですから(年次金価格推移)、賢治の初任給は現在の13万5815円、退職前には17万8257円、となります。

 次に、「サラリーマンスユニオン」と教師の俸給の関係です。いろいろ調べてみると、大正時代は、確かに労働組合運動がかなり盛り上がった時期でした。
 下に、明治-大正期の労働運動の流れを、簡単にまとめてみました。

1886(明19) 日本最初のストライキ(山梨県雨宮製糸工場)
1897(明30) 片山潜らが「労働組合期成会」結成
1900(明33) 治安警察法公布(団結権、団体交渉権、争議権を全面禁止)
1912(大元) 鈴木文治らが「友愛会」結成
1918(大 7) 各地で米騒動勃発 全国の労働組合数:107
1919(大 8) 下中弥三郎らが日本最初の教員組合「啓明会」を結成
1920(大 9) 日本最初のメーデー
1921(大10) 「日本労働総同盟」結成 全国の労働組合数:300
1925(大11) 「普通選挙法」「治安維持法」公布
1926(大15) 「労働農民党」「社会民衆党」「日本労農党」結成
1928(昭 3) 2月 第1回普通選挙施行 4月「労働農民党」に解散命令

 賢治が教師になったのは1921年(大正10年)の終わりですが、その直前3年間で、全国の労働組合数は3倍に増加し、この年に「日本労働総同盟」も結成されています。このような労働運動の高まりを、もちろん賢治も感じていたでしょう。
 教師による運動としては、1919年(大正8年)に日本初の教員組合と言われる「啓明会」という組織が埼玉を中心に結成され、翌年に行われた日本最初のメーデーにも、主催団体の一つとして参加します。この年、啓明会は「日本教員組合啓明会」と改称して全国組織としての体裁を整えるとともに、「教育改造の四綱領」を発表しました。
 四綱領の内容は、(1)「教育理想の民衆化」、(2)「教育の機会均等」、(3)「教育者を現代の隷属的地位より解放し、自由なる人格の主体として生気ある教育を行わんが為には教育者の教育管理=教育自治を実現せざるべからず」、(4)「教育の動的組織=教師による教育課程の自主編成権を認め、地域に立脚した教育の自由の原則を尊重すべき」、というものでした(中野光著『教育改革者の群像』p.91)。
 すなわち、この「日本教員組合啓明会」の活動は、メーデーへの参加に見られるように労働運動としての自覚は持っていたものの、その柱であった「四綱領」を見ると、教師自身の待遇(給与)を改善せよという主張は直接行わず、おもに教育そのものの改革を志向する団体だったと言えそうです。
 そもそも、当時の教員の大半は公務員(待遇官吏)でしたから、労働者として団結し、処遇改善を求める運動をするなどということ自体が認められていませんでした。例外的に、1930年(昭和5年)に非合法組織として「日本教育労働者組合」が結成されましたが、1933年(昭和8年)に各地で一斉検挙が行われ、壊滅しています(戦前における教育労働運動)。

 以上をまとめると、大正時代の教師の給与は、客観的には十分なものではなく、また、サラリーマンスユニオン=賃金労働者組合の運動によって待遇が改善されたという直接的な事実は、なかったようなのです。
 それなのに、賢治が自らの教師時代の「愉快な明るい」日々を回顧するにあたって、ことさら「サラリーマンスユニオン」が「獲得しましたその結果」と表現したのは、いったい何故なのでしょうか。

 その答えとして私が考えるのは、この「春と修羅 第二集」の「」を書いた頃の賢治が、とくに労働組合運動に対して、肯定的な評価および共感を抱いていたからなのではないか、ということです。


 それについて説明するためには、まず賢治がこの「春と修羅 第二集」の「」を、いつ書いたのかということが問題です。これに関しては、すでに入沢康夫氏が『新修 宮沢賢治全集』第三巻の「後記(解説)」において、詳細な考証を行っておられますので、以下、入沢氏の記述をご紹介しつつ述べてみます。

 この「序」では、冒頭に引用した部分に続いて、

まづは友人藤原嘉藤治
菊池武雄などの勧めるまゝに
この一巻をもいちどみなさまのお目通りまで捧げます
たしかに捧げはしまするが
今度もたぶんこの出版のお方は
多分のご損をなさるだらうと思ひます

という箇所があります。
 一方、森荘已池氏は学芸書林刊『「春と修羅」研究 I』に次のような文を書いています。

 『春と修羅』第二集の出なかったのは、詩集を作るために買った新しい謄写版を、無産政党の支部に、金二十円を添えて寄贈したためであった。
 また賢治の親友藤原嘉藤治氏の話によれば、『春と修羅』第二集を、短歌雑誌『ぬはり』社の菊池知勇氏が出版しようとした。そのときは賢治が出版部数の半分を買うようなことだったが、話だけで実現しなかったという。

 入沢氏は、この森荘已池氏の記述や堀尾青史氏の『年譜 宮沢賢治伝』をもとに、賢治が言う「出版のお方」とは、岩手師範における菊池武雄の4年先輩だった菊池知勇氏のことと推定します。
 また、「春と修羅 第三集」所収の作品「台地」に描かれているのは、「稲作指導、肥料設計についてきてくれたふたりの友、藤原嘉藤治、菊池武雄」であるという堀尾青史氏の指摘を踏まえ、東京在住の菊池武雄と花巻にいる賢治・藤原嘉藤治の3人が会う機会はそう度々はなかっただろうということから、この「」に述べられている「友人藤原嘉藤治/菊池武雄などの勧め」があったのは、「台地」の日付けである1928年(昭和3年)4月12日のことであろうと、入沢氏は推定します。
 ちなみに、「台地」の初期形には、「夏の休みのある日を約し」という一節がありますが、その言葉を裏付けるかのように、『新校本全集』年譜篇には、1928年(昭和3年)8月中旬に菊池武雄が藤原嘉藤治の案内で羅須地人協会を訪れたが賢治は不在で、その後、賢治が二、三日前に健康を害して実家へ帰ったことを知り、見舞いに行ったが病状よくなく面会できなかった、という記載があります。つまり、「賢治、藤原、菊池の三人が一緒に話したのは、賢治の発病前では例の4月12日が最後だったようだ」(入沢氏)というわけです。
 そこで結局、賢治が「」を書いたのは、1928年(昭和3年)4月中旬から、賢治が病気で倒れる同年8月上旬までの間、「それも6月7日からは東京方面への旅や帰郷後の多忙などがあるので、4月中旬から6月はじめまでの間である可能性が、最も大きい」と、入沢氏は推定しておられるのです。

 さて次に、この1928年(昭和3年)という年は、賢治が労農党に対して、陰ながら手厚い支援を行っていた時期でもあります。上に謄写版を寄贈した話が少し出ましたが、これは、労農党員であった煤孫利吉氏の話を、名須川溢男氏が紹介した文「宮沢賢治について」(「岩手史学研究」50号)に述べられていることで、『新校本全集』年譜篇では、1928年(昭和3年)2月初旬の項に、次のように書かれています。

 第一回普通選挙の投票日は2月20日であるが、労農党員だった煤孫利吉によるとこの選挙運動のとき「二月初め頃だったと思うが、労農党稗和支部の長屋の事務所は混雑していた、バケツにしようふ(のり)を入れハケを持って『泉国三郎』と新聞紙に大書したビラを街にはりに歩いたものだった、事務所に帰ってみたら謄写版一式と紙に包んだ二十円があった、『宮沢賢治さんが、これをタスにしてけろ』と言ってそっと置いていったものだ、と聞いた。」という。

 そもそも、この労農党稗和支部の事務所自体、賢治の支援によって開設されたものでした。『新校本全集』年譜篇の1926年(大正15年)10月31日の項には、

 この日花巻町朝日座に於いて労農党稗和支部が三十余名で結成された。高橋慶吾もそのひとりであった。後、党事務所が賢治の世話で仲小路(現仲町)にあった通称宮沢町の宮右の長屋にでき、肥料設計をたのむ農民たちは賢治が上町に開いた相談所が近かったので両方に出入りした、という。

とあります。
 1927年(昭和2年)3月26日の日付けを持つ「〔黒つちからたつ〕」(詩ノート)という作品には、

きみたちがみんな労農党になってから
それからほんとのおれの仕事がはじまるのだ

という一節がありますが、上記のように、農民たちが賢治の肥料事務所と労農党の事務所の両方に出入りした、というような状況が現実にあったからこそ、「きみたちがみんな労農党になってから…」という当時の賢治の将来への希望も生まれたのでしょう。
 さらに、労農党盛岡支部執行委員だった小館長右衛門の談話から。

 宮沢賢治さんは、事務所の保証人になったよ、さらに八重樫賢師君を通して毎月その運営費のようにして経済的な支援や激励をしてくれた。演説会などでソット私のポケットに激励のカンパをしてくれたのだった。なぜおもてにそれがいままでだされなかったかということは、当時のはげしい弾圧下のことでもあり、記録もできないことこだし他にそういう運動に尽したということがわかれば、都合のわるい事情があったからだろう。いずれにしろ労農党稗和支部を開設させて、その運営費を八重樫賢師を通して支援してくれるなど実質的な中心人物だった。おもてにでないだけであったが。(名須川溢男「賢治と労農党」,『新校本全集』年譜篇p.322より)

 「実質的な中心人物」とまで言えるかどうかはともかく、賢治が労農党の演説会にも通い、かなりの経済的支援を行っていたことが証言されています。賢治がそこまでのことをしたのは、思想や政策の上でも共感していたからでしょう。

 しかし、賢治の支援もむなしく、1928年(昭和3年)2月20日に行われた第一回普通選挙において、労農党候補の泉国三郎は惜しくも落選してしまいます。さらに追い打ちをかけるように、同年4月10日、労農党は「治安警察法第八条違反」として政府から解散を命じられてしまいます。
 これには、賢治も落胆したことでしょう。同年6月10日の日付けを持つ「高架線」という作品にも、

ひかりかゞやく青ぞらのした
労農党は解散される

という一節がひっそりと出てきます。


 さて、上に見てきたように、1926年~1928年頃の賢治が、労農党を強く支持していたのは事実でしょう。支持するようになった発端は、農民を救済する政策の実現というところにあったのかもしれませんが、上述のように何度も演説会に通ううちには、都市の労働者が置かれている窮境や、それに抗して労働組合運動を発展させていこうとする労農党の立場についても、いろいろと知り、賢治なりに考えることもあったのではないでしょうか。
 そして、当時の賢治がかなりの程度まで労働運動なるものに共感していたからこそ、1928年の春から初夏の頃に書いた「春と修羅 第二集」の「」において自らの教師時代を回顧する際に、わざわざ客観的事実を離れてまで、「サラリーマンスユニオン」が「絶えざる努力と結束で/獲得しましたその結果」として言及したのではないかと、私は思うのです。
 それ以外に、ここに不意に「サラリーマンスユニオン」などという言葉が登場する理由が、私には思いあたりません。


 それから、今日の記事の最後に。「春と修羅 第二集」の「」の終わりは、次のように結ばれています。

けだしわたくしはいかにもけちなものではありますが
自分の畑も耕せば
冬はあちこちに南京ぶくろをぶらさげた水稲肥料の設計事務所も出して居りまして
おれたちは大いにやらう約束しようなどいふことよりは
も少し下等な仕事で頭がいっぱいなのでございますから
さう申したとて別に何でもありませぬ
北上川が一ぺん汎濫しますると
百万疋の鼠が死ぬのでございますが
その鼠らがみんなやっぱりわたくしみたいな云ひ方を
生きてるうちは毎日いたして居りまするのでございます

 ここに出てくる、「おれたちは大いにやらう約束しよう」という言葉からは、私は当時の既成政党の政治家のことを連想します。
 このような輩の口約束に対照されることとして、賢治が「も少し下等な仕事」と反語的に述べているのは、畑を耕し、肥料の設計事務所を出し、というような、現場的な生産的な営みです。

 そして、最後に出てくる「北上川が一ぺん氾濫すると死ぬ百万疋の鼠」とは、いったい何のことなのだろうという気がしますが、私はこの「百万疋の鼠」とは、過酷な環境で「下等な仕事(=生産活動)」に従事し、そして命を削るようにして死んでいく、無産階級の人々の隠喩なのではないかと思うのです。
 1928年(昭和3年)2月の普通選挙の後、3月15日には共産党(非合法)や労農党などの関係者約1600人が一斉検挙されるという事件があり、さらに4月10日には、労農党、日本労働組合評議会、全日本無産青年同盟が、政府によって解散させられました。あるいは、このような無産政党や労働運動への大規模な弾圧も、「北上川が一ぺん汎濫しますると/百万疋の鼠が死ぬ」という表現の奥にはあるのかもしれません。
 しかし、北上川が汎濫したからといって、そしてその時にいくら大量の鼠が死んだからといって、鼠が絶滅してしまうわけではありません。同じように、いくら労農党が解散させられたからといって、農民や労働者の側に立つ運動が、社会から根絶されるものではないと、賢治はひそかに考え、無念さをこらえていたのではないでしょうか。

 入沢氏の推定によれば、「春と修羅 第二集」の「」が書かれたのは、おそらく労農党の解散(4月10日)から、賢治が「ひかりかゞやく青ぞらのした/労農党は解散される」と書く(6月10日)までの間に含まれる、いずれかの日だったことになります。
 この「」の表現の裏には、賢治の上のような思いも込められていたのではないかと、私はふと思ったわけです。