東公園と西公園

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 先日、選抜高校野球大会で花巻東高校が見事に準優勝しましたが、花巻で方角名のついた高校としては、この他に、県立の花巻北高校と花巻南高校があります。それぞれ、地図の上にマーカーで示すと、下のようになります。

 (東)のマーカーが付けてあるのが花巻東高校の場所ですが、このように花巻の市街の北西部にあるのに、なぜ「花巻東」という名前なのかと、花巻に親しむようになってからまだ日が浅い私などは、疑問に思ったことがありました。
 しかし、これは花巻東高校の沿革を調べればわかることで、現在の花巻東高校の校舎は1996年に新築移転したもので、それ以前は、上の地図で(谷)のマーカーが付けてある場所にあったのです。場所が移っても校名はそのままなので、ちょっと不思議な感じになったわけですね。

 そもそも、花巻東高校は、1982年に谷村学院高校と富士短期大学附属花巻高校(1975年までの校名は花巻商業高校)という2つの高校が合併して誕生したもので、当初は旧谷村学院高校の校舎が本校舎とされました。これが、(谷)のマーカーの場所です。

 ちなみに、上の地図で見るように花巻南高校も、「南高校」というよりも「西高校」と名づけたくなってしまうような場所にありますが、これも1991年に今の場所に新築移転してきた歴史があり、それまでは花巻高等女学校の後身として、現在の花巻市役所の近くにありました。ただしそこは、花巻のまさに中心部と言える位置で、場所だけからすると「南」と名づけるにはやはり少し違和感があります。しかし、1953年の学校分離により花巻北高校と花巻南高校が誕生したという経緯を思えば、セットとして「北」と「南」とされたのでしょう。

 同じような軽い疑問は、旧谷村学院高校の校舎の場所に誕生した高校を、「東高校」と名づけたということにも、少しだけ付随します。この場所も、「花巻市城内」という住所に現れているように、それこそ花巻のど真ん中で、その昔は花巻城の跡地だった場所なのです。市役所よりは少し東にあるとは言え、むしろ「花巻中央高校」を名乗ってもよかったのではないかとか、私などは他人事のように考えたりしますが……。
 しかし、私がここでちょっと思い出したのは、戦前はこのあたり城跡は、「東公園」という公園地になっていたということです。高校の名付け親は、ひょっとして今はなくなった「東公園」を追憶する気持ちもあって、その一角に誕生する高校に、「東高校」の名前を付けたのではないか……、などと私は勝手に想像してみました。
 下の図は、昭和初期の花巻町の中心部で、赤枠で囲んだところに「東公園」とあります。

昭和初期の花巻町

 太平洋戦争末期、戦況の悪化に伴い企業整理による転廃業を余儀なくされた花巻周辺の人々は、東京の蒲田で「新興製作所」を経営していた石鳥谷出身の谷村貞治氏に、工場の花巻誘致を働きかけました。その後、疎開命令を受けた谷村氏は、花巻町から東公園を工場用地として提供され、1945年に工場の花巻移転を行ったのです(新興製作所と花巻の発展より)。
新興製作所 新興製作所は、終戦後の操業再開から3年で全国の仮名テレタイプのシェア40%を獲得し、1965年には従業員2000人を擁する岩手県内で最大規模の企業になったということです。
 そしてこの新興製作所が、テレプリンターの専門オペレーター養成のために設立したのが谷村学院で、これが後の谷村学院高校、さらに花巻東高校となるのです。
 新興製作所の移転によって「東公園」はなくなってしまったけれど、その跡地にできた高校の後身の名前に、「東」の一文字が残されている……、と私としては考えたくなってしまうのです。

 ところでこの「東公園」というのは、賢治の作品には登場しないようですが、関登久也著『宮澤賢治素描』の中に、次のように出てきます。

   祭礼

 町の鳥谷ヶ崎神社の祭典は秋九月十七日から三日間です。神輿は神社を出て一日町をねり歩き、其の夜から裏町のお旅屋といふ所へ御泊りになり、十九日に又町をねり歩いて二十日の未明に神社に帰られるのがしきたりになつてゐます。賢治三十四五歳の頃のその秋祭の夜、私は町なかで賢治に会つたら、これから御神輿様の御帰りを見に行かうといつて私を連れて行きました。夜半十二時頃、東公園の露台に寝ころんで、神輿の帰りを二人で待ちました。たしか夜明の三時頃、遠くでジヤラン、ジヤランと神輿の堵列の騒音が聴えて来た時、私達は公園の草道を走りぬけ、神社の門の前に参りましたら、まだ暗い夜明けの空に、幾千の提灯の灯は赤くとぼされ、笛太鼓が賑やかにこちらに向つて来ます。やがて神社の前には、炎々と赤い火が燃やされ、その時の風景はかつて私の見たことのない、如何にも神の庭といふ荘厳な感じに打たれるものでした。賢治はと見れば首からつるされたシャープペンシルを取出し、黒い皮の手帳を開いて、其の場の光景を感激と渾身の力を持つて描写しようと身構へてゐる様子、賢治の眼は細い眼でしたが横から見てゐると、何だか和やかに光つてゐるうちにも、真剣な光芒を放つてゐます。(後略)

 ここで、二人が深夜の東公園の露台に寝ころんで神輿を待ったのは、「賢治三十四五歳の頃」とありますが、34歳の9月20日はようやく病が小康状態になって、初めて東北砕石工場を訪ねた直後、35歳の9月20日は、東京で倒れる直前の夜行列車の車中ですから、賢治の年齢は関登久也氏の記憶違いなのではないかとも思われます。こんな風に野外で徹夜するのは、やはり賢治が病に倒れるよりも前のことではないでしょうか。

 一方これに対して、「西公園」の方は、賢治の作品ともいろいろ関連がありますね。
 「冬のスケッチ」第三十三葉には、

    ※
西公園の台の上にのぼったとき
大きな影が大股に歩いて行くのをおれは見た
    ※

という一節がありますし、初期短篇「ラジュウムの雁」において賢治と親友阿部孝が散策しているのも、西公園です。

停車場の灯が明滅する。ならんで光って何かの寄宿舎の窓のやうだ。あすこの舎監にならうかな。

と賢治がふと眺めた「停車場」は、花巻電鉄の「西公園」の停車場だったでしょう。