Carbon di-oxide to sugar

 「小岩井農場」の下書稿の中に、次のような箇所があります。

口笛を吹け。光の軋り、
たよりもない光の顫ひ、
いゝや、誰かゞついて来る
ぞろぞろ誰かゞついて来る。
うしろ向きに歩けといふのだ。
たしかにたしかに透明な
光の子供らの一列だ。
いいとも、調子に合せて、
いゝか そら
足をそろえて。
 Carbon di-oxide to sugar
 Carbon di-oxide to sugar
 Carbon di-oxide to sugar
 Carbon di-oxide to sugar
みちがぐんぐんうしろから湧き
向ふの方にたゝんで行く
あのむら気の四本の桜が
だんだん遠くなって行く
いったいこれは幻想なのか
幻想ではないぞ。
透明なたましひの一列が
小岩井農場の日光の中を
調子をそろへてあるくといふこと
これがどうして偽だらう。

 推敲後の段階では「パート四」となる部分で、賢治は農場本部の建物を過ぎ、ひばりの鳴き声を聞いて、「むら気な四本の桜」も過ぎます。寂しさをまぎらすように口笛を吹きながら歩いていると、ふと後ろから「光の子供たち」がついて来るように感じます。その子供たちとともに、足をそろえて行進をしようと、'Carbon di-oxide to sugar'という掛け声でリズムをとったのです。
 'carbon dioxide'とは「二酸化炭素」で、すべての生命に密接に関わる物質ですが、最近はとみに悪者にされることが多い役まわりです。'sugar'は、もちろん「糖」ですね。

 ところでこの'Carbon di-oxide to sugar'という掛け声は、『春と修羅』の初版本のテキストには登場しません。その中間にある「詩集印刷用原稿」と呼ばれる草稿段階において、作者によって(Carbon di-oxide to sugar)という部分は消され、それぞれ(コロナは八十三万二百……)、(コロナは八十三万四百……)、(コロナは七十七万五千……)、と書き換えられるのです。この推敲後の、(コロナは…)というフレーズは、童話「イーハトーボ農学校の春」において、「太陽マヂックのうた」として登場するものですね。
 ここで、'Carbon di-oxide to sugar'が、「太陽マヂックのうた」によって置き換えられたという事実には、その意味を考える上で重要なポイントがあると思うのですが、そのことについてはまた後で触れます。
 今日考えてみたいのは、'Carbon di-oxide to sugar'という言葉は、いったい何のことを言っているのかということです。

 岡澤敏男氏は『賢治歩行詩考』(未知谷)において、これについて次のように述べておられます。

 この<Carbon di-oxide to sugar>とは「炭酸ガスでお砂糖に」とでもいうのでしょうか。やっぱり科学者らしいお囃子です。どこか英国童謡『マザー・グウス』風*のリフレーンは、賢治流の小粋でナンセンスなリズム感をうかがわせます。

 そして脚注では、「炭酸ガスでお砂糖に」について次にように説明されています。

* 盛岡高等農林学校の農学科第二部在学当時の賢治が、砂糖精製の技法として炭酸ガス飽充法を学ぶ機会があったと思われます。子供たちの行進を励ます囃子言葉としては唐突な感じもしますが、マザー・グウスのもつ機智や軽快性とはどこか通じ合うものを感じさせます。これは豊かな化学的知識から生まれた童謡でした。炭酸ガスと砂糖の取り合わせの機智と軽快なリフレーンをみれば、すばらしい本歌取りといってよいでしょう。

 「炭酸ガス飽充法」というのは、私もまったく知らなかったのですが、上にあるようにサトウキビや甜菜(サトウダイコン)などから直接搾った、糖分を含んだ液(粗製製糖液)を、精製するための方法だそうです。
 サトウキビの搾り汁に石灰を加えて不純物を除き、それをそのまま加熱濃縮したものを固めると「黒砂糖」ができますが、石灰を加えた搾り汁にさらに炭酸ガスを吹き込んで、炭酸カルシウムとともに不純物を沈殿させて除去し煮詰めると、白い砂糖ができるのだそうです。
 賢治がこのような砂糖精製法を知っていて、'Carbon di-oxide to sugar'と表現したというのが、岡澤氏の説です。

 これは奥深く、たしかに「豊かな化学的知識」を前提とした解釈ですが、しかし私は以前から、この'Carbon di-oxide to sugar'というのは、植物による「光合成」のことを言っているのではないかと思っていたのです。

 葉緑素を持った植物は、太陽光のエネルギーを利用して、二酸化炭素(と水)から、ブドウ糖・果糖・蔗糖などの糖を作ります。これが光合成です。得られた糖類は、植物自身によってさらにデンプンなどにまで重合される場合もありますが、まず得られるのは、ブドウ糖、果糖などの単糖(C6H12O6)です。化学式で書くと、下のような反応ですね。

6CO2 + 12H2O → C6H12O6 + 6H2O + 6O2

 つまり、二酸化炭素(carbon di-oxide)が、糖(sugar)になるわけで、これこそが'Carbon di-oxide to sugar'ということではないかと思うのです。日本語に訳せば、「二酸化炭素を糖に!」です。
 高度な岡澤説に比べると、中学校の理科で習うような簡単な解釈でお恥ずかしいのですが、私がこう考える理由としては、当時の賢治が抱いていたと思われる「太陽礼賛」とも言うような感情との関連もあります。

 上にも挙げた「イーハトーボ農学校の春」という作品は、「太陽マヂックのうたはもう青ぞらいっぱい、ひっきりなしにごうごうごうごう鳴ってゐます。」という書き出しで始まり、少し後には次のような箇所もあります。

  (コロナは六十三万二百
   あゝきれいだ、まるでまっ赤な花火のやうだよ。)
 それはリシウムの紅焔でせう。ほんたうに光炎菩薩太陽マヂックの歌はそらにも地面にもちからいっぱい、日光の小さな小さな菫や橙や赤の波といっしょに一生けん命に鳴ってゐます。カイロ男爵だって早く上等の絹のフロックを着て明るいとこへ飛びだすがいいでせう。
 楊の木の中でも樺の木でも、またかれくさの地下茎でも、月光いろの甘い樹液がちらちらゆれだし、早い萱草やつめくさの芽にはもう黄金いろの小さな澱粉の粒がつうつう浮いたり沈んだりしてゐます。

 賢治自身も高ぶった気持ちを抑えられないような筆致でつづく文章には、まさに太陽を讃え、春を歓ぶ気持ちがあふれています。上の文中で、太陽を浴びた植物の中に「甘い樹液がちらちらゆれだし」という箇所や、「もう黄金いろの小さな澱粉の粒がつうつう浮いたり沈んだり」という箇所などは、光合成によって植物の中に糖やデンプンが産生されていることを、科学者賢治が詩的に描いているところでしょう。
 先にも述べたように、「小岩井農場」の「詩集印刷用原稿」という段階において、(Carbon di-oxide to sugar)という掛け声は、(コロナは八十三万二百……)などの「太陽マヂックのうた」に置き換えられるのですが、このことも、すでに'Carbon di-oxide to sugar'という言葉が、じつは太陽への讃歌であったことを表しているのではないでしょうか。

 二酸化炭素に水という無機物が、太陽光のエネルギーによって、糖類や炭水化物などの尊い有機物に変化する・・・これこそまさに「太陽マヂック」と言わずして、何と言いましょう!


 あと最後に、'Carbon di-oxide to sugar'という掛け声が、いつしか「太陽マヂックのうた」に変容した……どちらにも作者の同じような思いがこめられていた……という由緒から、二つの歌を重ねてみるというお遊びをしてみました。変な音楽ですので、ほんの冗談のつもりでお聴き下さい。
 'Carbon di-oxide to sugar'は「巡音ルカ」の英語歌唱、「太陽マヂックのうた」は Kaito です。

「光合成と太陽マヂックの二重唱」(MP3: 1.62MB)