夢枕獏『上弦の月を喰べる獅子』

 先日、竹田恵子さんを聴きに行くために東京へ往復する新幹線の車中で、夢枕獏『上弦の月を喰べる獅子』という小説を読みました。

『上弦の月を喰べる獅子』(上) 上弦の月を喰べる獅子〈上〉 (ハヤカワ文庫JA)
夢枕 獏 (著)
早川書房 1995-04
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『上弦の月を喰べる獅子』(下) 上弦の月を喰べる獅子〈下〉 (ハヤカワ文庫JA)
夢枕 獏 (著)
早川書房 1995-04
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 私がこの本のことを知ったのは去年の秋のことでした。ある大学の日本文学科でこの『上弦の月を喰べる獅子』について研究しているという学生さんからメールをいただき、この小説の中に賢治の「青森挽歌」が出てくるのだけれども、以前に私が「《ヘッケル博士!》への呼びかけに関する私見」という記事に書いていた内容を、その研究に引用してもよいかということを、問い合わせてこられたのでした。
 もちろん、無断で引用していただいても構わないものである旨をお答えするとともに、夢枕獏氏の小説に「青森挽歌」が出ているとは知らなかった、ということを返事に書きましたら、またお返事があり、この小説には「青森挽歌」だけでなく賢治の他の作品の引用も多くあること、さらに「主人公の一人として宮沢賢治が使われてい」て、「賢治ファンからは賛否両論あるようです」ということを教えて下さいました。
 私自身、いちおう「賢治ファン」の端くれであるつもりでいましたので、自分の無知を恥じるとともに、そのうちに時間を見つけてこの小説を読んでみようと、ひそかに思っていたのです。

 その心づもりを、今回「のぞみ号」に揺られつつ果たすことができたのですが、たしかに、この小説はその冒頭、扉の裏の「エピグラフ」からして、下のようになっているんですね。本を開いた瞬間から、これにはちょっと感動しました。

『上弦の月を喰べる獅子』エピグラフ

 そして先にメールで教えていただいていたとおり、宮澤賢治が「主人公の一人」として、実に重要な役割を担って活躍するのです。

 これは文庫版では上下巻ともにそれぞれ400ページを越える「大作」ですが、その分量に十分見合うほど、奥深さと重さを持った小説でした。
 その内容についてここに具体的に書くと「ネタバレ」になってしまいますので、興味を持たれた方は実物をお読みいただくとして、簡単に言えばこの小説は、「螺旋」という象徴を鍵として、「仏教的な輪廻転生観」と、「生物の進化」という自然科学的な認識を統合し、壮大な物語を構築したものと言えます。
 物語においては、宮澤賢治の「業」や「縁」やその仏教的背景が巧みに取り込まれ、「ナモサダルマプフンダリカサスートラ」という「南無妙法蓮華経」の「賢治読み」も、何度も繰り返されます。引用される作品も、「青森挽歌」以外に、『春と修羅』の「」、「春と修羅」、「永訣の朝」、「松の針」、「無声慟哭」、「銀河鉄道の夜」、絶筆短歌二首など、たくさんです。

 興味深かったことの一つは、まさに上に示した「エピグラフ」に引用されている箇所の意味について、私は「《ヘッケル博士!》への呼びかけに関する私見」という記事に自分の解釈を書いていたのですが、この物語において夢枕獏氏が想定しておられるのも、その私の考えに通じるものがあるように感じられたことでした。
 この箇所については、上の記事にも書いたとおり賢治研究者の間でも様々な説があり、しかし大半が「そのありがたい証明」というのはヘッケルの唱えた「霊魂死滅説」の証明であるという前提に立っているのに対して、私は、これはヘッケルが唱えた「反復説」の証明のことではないかと考えたのでした。
 夢枕獏氏は、物語の中でそういった解釈を明示的に述べておられるわけではありませんが、上巻のp.234-235にかけて、次のような記載があります。

 イェーナ大学の動物学の教授であった、E.ヘッケル博士(1834-1919)は、1874年に “law of recapitulation”という説―ひとつの法則を発表した。それは、
“個体発生は系統発生を繰り返す”という説である。
 たとえば、人間でいうなら、人間の胎児は、母の子宮の内部で、胚の状態からそれまで人間がたどってきた進化の歴史をたどり、その後に生まれてくる、というものである。

 私はこれまで、多くの賢治研究者が、ヘッケルの代名詞と言えるほど有名な「反復説=個体発生は系統発生を反復する」は無視して、「霊魂死滅説」ばかりを問題にするのはなぜなのか、不思議でならなかったのですが、ここにすでに1980年代後半に、ちゃんと反復説に注目している人がいたわけですね。上記の私のブログ記事などは、その十数年遅れです。
 そして、実際に読んでいただいたらわかることですが、この『上弦の月を喰べる獅子』という物語の構造は、「反復説」なしには成立しないほど、それを重要な骨格としているのです。以前にスティーヴン・ジェイ・グールドを引用して、「文学に現れた「反復説」」をご紹介しましたが、間違いなくこのリストに堂々と並べられるべき大作です。

 あと、物語における宮澤賢治の描かれ方に関しては、たしかに賢治ファンにとっては「賛否両論」が出てくるものでしょう。(というか、かなりの人が「否」かな?)
 ただ作者もその辺は十分にわかった上で書いておられるようで、自らこの作品について、「彼の童話のファンのかたなどは違和感を持たれたのではないか」と述べているそうです(『SFマガジン』1989年12月号)。

 それにもかかわらず、この小説はたとえ賢治ファンであっても、各々の「賢治観」を超えたところで、十分に楽しめる読み物ではあると思います。

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