7日乗船説と9日乗船説(1)

 1923年8月の「オホーツク挽歌」の旅における賢治の旅程については、かなりの部分が明らかになっているとは言え、まだ不明の部分も多く残っています。
 代表的な「謎」の一つは、賢治がサハリンからの帰途、稚泊連絡船でサハリンの大泊港から北海道の稚内港に向けて出港したのは、8月7日だったのか、8月9日だったのか、という問題です。これについては以前に「「宗谷〔二〕」の紳士は貴族院議員?」という記事でも触れました。

 今回私は、その議論にも少し関わる一つの記述を国会図書館で見つけたので、ここにご報告します。ただし、結論を先取りして言うと、真相はやはりまだ闇の中です。7日乗船説と9日乗船説のいずれが正しいかということについては、現在の私たちが確認できている証拠からは、どちらとも確定できません。

 まずは、問題点の復習から。当時の稚泊連絡船の上り便(大泊→稚内)は、2日に1便の運航で、奇数日の21:00に大泊港発、翌朝の5:00に稚内港着ということになっていました。
 「7日乗船説」の最大の根拠は、「一九二三、八、七」の日付のある作品「鈴谷平原」に、

こんやはもう標本をいつぱいもつて
わたくしは宗谷海峡をわたる

という一節があることです。正確には、当時の樺太には「鈴谷平原」という地名はなかったようですが、豊原市の東に「鈴谷岳」という山があり、市街の東の原野から鈴谷岳の山麓に至る一帯を、賢治は「鈴谷平原」と表現したと推測されています。この作品中の賢治の記載がそのまま事実とすれば、賢治は7日夜に、大泊港から乗船したことになるわけです。
 一方、「9日乗船説」が重要な根拠とするのは、森荘已池『宮沢賢治の肖像』に記載されている、賢治の元教え子・晴山亮一(大正14年卒)による次のような証言です。

 いろいろな話のなかに、カラフトに行った話がありました。夏休みにカラフトに行ってきたが、カラフトは、花の匂いがよくて、とてもよいところだったと言いました。二、三人の人たちの職場をさがしてくる旅行ということでした。
 先生は、この旅行で、生まれてはじめて、あとにも、さきにもないことに、出会ったんです。友人が料亭に先生を招待して、芸者を呼んで、さかんな宴会をしたのですね。大騒ぎで飲めや唄えやとやったのでしょう。ところが先生はそういう方面の芸はゼロといった情けない方です。そこで懐中にあった金を全部お祝儀に芸者にやってしまったのですね。
 汽車賃もなくなったので、青森までの切符は買ってもらい、青森では、何か身の回りのものを売ったりして盛岡まで汽車で帰り、盛岡からは、花巻まで徒歩旅行というわけです。

 記述内容からは、賢治が料亭で接待を受けたのはサハリンを去るのも近い日と思われますが、賢治のスケジュールや、接待者(盛岡中学および盛岡高等農林学校における同窓の細越健氏と推測されている)の都合から考えると、賢治が7日夜に大泊港を発っていてはこのような接待を受ける時間的余裕はなく、8日夜に宴会が行われ、9日夜に賢治は大泊港を発ったと考えるのが最も自然だということで、「9日乗船説」となるのです。

 両説は、いずれも決定的な証拠に基づいているわけではないので、どうしても双方の主張は「平行線」という状態でしたが、一度だけ議論が「交叉」したポイントがありました。
 それは、「8月7日の大泊発稚内行きの便(対馬丸)は悪天候のため欠航したのではないか」と松岡義和氏が提起し、これに対して萩原昌好氏が「8月7日の便は運航していたはずだ」と応じた一件です。

 まず、松岡義和氏の論は、次のようなものでした(萩原昌好『宮沢賢治「銀河鉄道」への旅』より引用)。

  • 当時の気象台の記録によると、1923年8月7日は宗谷海峡は風速11.3mの暴風で、4mの高波であった。
  • 当時「だるまはしけ」であり、風速11.3mで3mの高波の時は、欠航した。
  • だから、8月7日は対馬丸は当然欠航したと考えられる。賢治が対馬丸に乗って大泊を出航したのは、8月9日である。

 これに対して、萩原昌好氏は、「大正12年『樺太気象表』1923」を引用して、次のように述べます(上掲書)。

 これによると、8月7日は大泊で、14時頃、確かにWNW11.3mの風が吹いている。つまり、西北西の風毎秒11.3mということで、これでは艀は無理である。
 ところが賢治が乗る予定だった対馬丸出航の午後9時頃には、風速も大分弱まっており、風向も同10時には東風で2.4mとなっている。これなら艀に乗って乗船することは可能である。
 もう一つ、例の貴族院議員一行は岡野屋での歓送の宴のあと、帰船の途についているのである(記事参照)。貴族院の一行が乗れて賢治が乗れない筈はないので、もし意図的に賢治が日をずらさない限り、 7日の船便に乗船可能だったのである。

 上記に(記事参照)と出てくる樺太日日新聞の記事は、下のようなものです。萩原氏の著書では、記事の終わり一部が切れていたので、これは今回あらためて国会図書館でコピーしてきたものです。

「樺太日日新聞」1923年8月8日版(1面)

 つまり、大泊町では7日夜に貴族院議員の樺太視察団の一行を歓迎する宴を催し、「此宴終つて後一行は同夜出帆の連絡船に搭乗帰途につきたるが…」という記事の内容で、これを見るかぎりでは、8月7日の連絡船は欠航していなかったことになります。
 もちろん、これは「賢治が7日に乗船した」という証拠となるものではありませんが、「7日便が欠航していたから7日乗船説が成立しない」という主張を否定することにはなります。

 さて、ここで出てきた「貴族院議員一行」というのは、貴族院における「研究会」という院内会派の有志で、樺太の状況を視察するために、ちょうどたまたま賢治の来島と重なる時期に、サハリンを訪れていたのです。
「樺太日日新聞」1923年8月3日(第2面) そのメンバーは、右の記事のとおりです(「樺太日日新聞」8月3日付第二面)。すなわち、堀田正恒伯爵、青木信光子爵、牧野忠篤子爵、榎本武憲子爵、八條隆正子爵、本多實方子爵、小松謙次郎勅撰議員、そして蜂須賀侯爵家の小林幸太郎氏の8名です。最後の小林氏のみは、貴族院議員ではありません。

 私が貴族院議員視察団の名前を調べてみた理由は、宮澤賢治のサハリンにおける行動について、第三者が記録に残している可能性は非常に低いと思われるのに対して、貴族院議員団の動静は種々の記録に残されているので、ひょっとしたらその記録が何らかの形で、賢治の動きを間接的に知る参考になるかもしれないと思ったからです。現に、萩原昌好氏が上に示されたように、貴族院議員団が8月7日に大泊港から帰途についたという記事が、賢治も同じ日に動いた可能性を否定できなくしています。
 まず、「堀田正恒」「青木信光」…と、各議員の名前を含んだ書籍を国会図書館で検索して、その伝記などがないかということを調べてみましたが、見つかったのは、坂本辰之助等編『子爵牧野忠篤伝』(華堂子爵伝記刊行会1940年刊)という本のみで、その中には樺太視察のことは何も書かれていませんでした。また、帝国議会貴族院の会議録や、院内会派「研究会」の記録についても調べてみましたが、やはり樺太視察のことは書かれていませんでした。
 ちょっと壁にぶつかっている感じがしていたところ、上の記事では最後に名前が出ている「蜂須賀侯爵家小林幸太郎」という人について調べてみたら、賢治とは関係ない領域ながら、面白いことがいろいろありました。さらに、名島武治著『北海魔王小林幸太郎君』(伊坂出版部1927年刊)という半生記が国会図書館に所蔵されており、これによって、貴族院議員樺太視察団の趣旨や、その日程についても知ることができました。
 この本の137ページ、「(17) 上院議員本道視察」という章には、次のように書かれていました。

 京濱大震災の一箇月前、即ち大正十二年の八月であつた。小林君は、貴族院研究會の、最高幹部を、説きつけ、自ら東道役となり、北海道及樺太の、視察旅行を行つた。其時の一行は。
 子爵青木信光、子爵牧野忠篤、子爵八條隆正、子爵榎本武憲、
 伯爵堀田正恒、勅撰小松謙次郎。
の諸氏で、突然(さながら)大名行列 昔なら下へ下へと到るさきで、土下座をさせたことであらう。鐵道省よりは、特に事務官服部鶴五郎氏を附随せしめ、東京よりは、時の北海道庁長官宮尾瞬治、代議士東武の両氏が、同行したのであつた。函館に上陸したのは、炎熱灼くが如き、八月の一日で、かく云ふ著者も、北海タイムス社の、社命により、青森まで出迎へ、始終一行に随伴したのである。
(中略)
 小林君がこの視察団を企てた、主なる目的は、
(一)北海道自作農創成を一日も早く實現させたい。(二)北海道に於ける金融制度を改善しなければならぬ。(三)北海道を特別會計にしたい。(四)農務省を独立せしめなければならぬ。(五)北海道樺太を併合させたい。
と云ふのが、小林君平素の持論であつて、この五大問題を、解決せんとするには、先以て有力なる、貴族院の団体をして、北海道を理解せしむることが、最も肝要であると考へた為に、水野直子爵を通じて、極力諒解を求め、漸くにして、視察の實現を見たのである。

 これを読むと、貴族院議員視察団を企画したのが、そもそもこの小林幸太郎という人であったことがわかります。小林幸太郎氏とは、蜂須賀侯爵家が北海道の雨竜村に経営していた農場の顧問で、この1923年にも「時事新報」に、「華族富豪の小作地解放論」という論文を寄稿したりしている論客で、なおかつ法華経の熱烈な信者でもあったという人物です。また、視察団が函館に上陸したのが、偶然にも賢治と同じ8月1日であったこともわかります。
 さて、上記の引用部分に続いて、この本には視察団の日程が、139ページから143ページにわたって記されていますが、そのうち139ページから141ページを下に掲げます。

「北海魔王小林幸太郎君」p.139

貴族院議員団視察日程1

貴族院議員団視察日程2

 ここで注目すべき点は、貴族院議員団が大泊港から樺太を発ったのは、先に「樺太日日新聞」の記事をもとに萩原昌好氏が述べられた「8月7日」ではなく、「8月9日」とされていることです。(九日)の項の最後には「大泊發稚内に向ふ。」とあり、(十日)の項の最初には「稚内着、」と記されているのです。

 すなわち、「樺太日日新聞」の8月8日付記事と、この『北海魔王小林幸太郎君』の記述の間には矛盾が生じているわけですが、これはいったいどう考えたらよいのでしょう。
 「樺太日日新聞」も、現地における同時代的記録ですし、一方『北海魔王小林幸太郎君』も、視察団に同行した新聞記者が書いたもので、一定の信頼が置ける記録と考えられます。その(九日)(十日)の前後は、それぞれサハリンと北海道における詳細なスケジュールでびっしりと埋められており、乗船日だけが間違っていたとして訂正することは困難な状況です。

 ここで思うのは、「樺太日日新聞」の8月8日付記事は、おそらく8月7日のうちに書かれたものでしょうが、7日夜の歓迎宴を実際に取材して記事を書いていたら、おそらく翌日の朝刊に間に合わないでしょうから、少なくとも一部分は、あらかじめ発表されている「予定」をもとにして書かれているのではないか、ということです。そう思って記事を読むと、「当夜の出席者は主賓陪賓にて廿一名主人側十九名なりし筈なり」と、「筈」などという言葉が用いられていることから、やはり実際に記者が確認した事柄ではないことがわかります。
 ところで、「樺太日日新聞」の記事の方をもう一度見てみると、大泊町での一行の行動は、「一行はまづ大泊築港状態を視察し同事務所にて晝餐を喫したる上更に王子工場養狐場等要所を視察し後右歓迎会に臨めるが…」とあり、これは、『北海魔王小林幸太郎君』における(九日)の記載「大泊築港視察、大泊養狐場視察、岡野屋に於ける歓迎會に臨む。」と、ぴったりと一致していることがわかります。部分的な食い違いではなくて、このように日程を平行移動したようなズレが生じているのは、いったいなぜなのでしょうか。
 思い当たるのは、この議員団は、当初は8月3日に樺太に上陸する予定だったのが、北海道での予定変更のために、2日遅れて8月5日に樺太に入ったということです(下記事参照)。

「樺太日日新聞」1923年8月2日(第二面)

 これは、「樺太日日新聞」の8月2日付記事ですが、「貴族院銀研究會の一行は今三日大泊入港の聯絡船にて來島の予定なりしが北海道函館の湯の川及旭川市の二ヶ所にて各一泊の為日程遅れ明後五日の聯絡船にて來島の事となれり」とあります。つまり、一行のスケジュールは、当初の予定よりも2日遅れで進行したのです。
 ここで私が推測するには、先に挙げた「7日に大泊港を発った」という8月8日付記事は、日程変更の前に新聞社が入手していた議員団一行の旅程をもとにして、作成してしまったものではないか、ということです。『北海魔王小林幸太郎君』に記されている日程と、ちょうど平行移動したように2日ずれていたことの原因は、直前になっての日程変更を記者がうっかり忘れて記事を作ってしまったからと考えれば、説明がつきます。

 つまり、私としては貴族院議員団が大泊から稚内に渡ったのは、萩原昌好氏が推測された「8月7日」ではなくて、「8月9日」ではなかったかと、考えるのです。
 とは言え、私の推測が正しかったとしても、これは賢治の大泊からの乗船が、7日であったか9日であったかという問題に対して、何かの示唆を与えてくれるというほどのものではありません。単に、「8月7日に貴族院議員団が稚泊連絡船で大泊を発っていたから7日欠航説は成り立たない」という主張が、根拠を失うだけです。8月7日の連絡船が欠航していたか運航していたかも、不明のままです。

 それにしても、賢治だけではなく貴族院議員団の大泊港乗船日に関しても、「7日乗船説」と「9日乗船説」の二つがありうるというのは、偶然ながら面白いことです。