文学に現れた「反復説」

 惜しくも2002年に悪性中皮腫で亡くなった古生物学者スティーヴン・ジェイ・グールドは、大著『個体発生と系統発生』の中で、「個体発生は系統発生を反復する」という「反復説」が、生物学の版図を越えていかに広汎な分野に影響を及ぼしていたかということを、多くの実例を挙げて検証しています。
 彼の博識ぶりにはいつも驚嘆させられますが、その中で文学の領域においては、次のような例が引用されています。

  • ウィリアム・ブレイク 『ユリゼンの書』(1794)より

数多の悲哀、数多の陰鬱な苦悶を示す
魚や、鳥や、獣たちの、数多の種族が
ここにまで幼児のかたちを押しすすめた
往古の虫ケラからここに至るまで

  • アルフレッド・テニソン 『イン・メモリアル』(1850)祝婚歌より(母の胎内にいる子供の描写)

下等な生命の相をすぎこして
あげくは人として生まれ、考えるものとなる。

  • セオドア・レトキ 「終末への讃歌!」(1950)より

蝸牛の連続、蛙蝦の跳躍をかさね、ここ、精神にいたる。
われに告げよ、皮膚なき身体に、魚は汗ばむか否かを?
われははや、かの血の流れを泳ぎ遡ることあたわざれば、
さらなる途をえらばんことをこそ希う。

  • J.G.バラード 「沈んだ世界」(1965)より

個々の生命は短い一生を送るものだという思いこみは間違いである。われわれの一人ひとりが生物界全体と同じように古く、われわれの血液の流れは全生命のあらゆる記憶の大いなる海から分かれ出た支流なのだ。胎内で育っている胎児の冒険の旅は、すぎ去った進化のすべてをくり返す。その中枢神経システムは、ニューロンの各ジャップ結合と脊髄の各レベルが象徴的な場、すなわちニューロンの時間を区分している。

  • W.H.オーデン: ストラビンスキーへの追悼の辞(1971)より

作曲家としてのストラビンスキーの一生は、一流と二流の芸術家の違いについて私が知っている範囲で、それをもっともよく証明するものである。・・・二流の芸術家とは、いわばひとたび円熟に達し自らを見出すと、自らの創造史にピリオドを打ってしまう。他方、一流の芸術家は、たえず自らを再発見し、自らの創造史を反復するか、芸術の歴史をそのまま映し出す。

  • ベンジャミン・スポック 『スポック博士の育児書』(1968)より

発育中の子供一人ひとりが、一歩ごとに、肉体的にも精神的にも人類の歴史を辿りなおしているのです。赤ん坊は、ちょうど大洋の中で最初の生物が現れたのと同じように、ちっぽけな単細胞として子宮のなかでスタートを切ります。数週間の後、子宮の羊水の中にいて、赤ん坊は魚のような鰓を持ちます。生まれてから1年近くなり、赤ん坊が二本の足でヨチヨチ歩きするときには、人間の祖先が四つん這いから立ちあがった何百万年も昔の時代をほめたたえているのです。

 これらの例は、「反復説」的な時間認識と生命観が、いかに人間の心の深いところまで浸透しているかということを、如実に示してくれていると思います。

 「青森挽歌」における「ヘッケル博士」も、はたしてこのような系列に加えられるような意味を帯びて登場しているのかどうか、ということが問題です。