過渡期の風習

 賢治が晩年に記した「「文語詩篇」ノート」の、1924年(大正13年)の頁に、下のような部分があります。

「文語詩篇」ノートp.29

 「三月」と書いて、その横に「過渡期の風習」と書き、X印で消してあります。この「過渡期の風習」というのは、いったい何のことだろうと思って、「春と修羅 第二集」の1924年3月の作品を、順に見てみました。
 この月には、「五輪峠詩群」の諸作品、「塩水撰・浸種」、「痘瘡」、「早春独白」が書かれていますが、私としてはこの中で、「塩水撰・浸種」という作品に描かれている事柄を、賢治は「過渡期の風習」と呼んだのではないかと思うのです。

 「塩水撰・浸種」の冒頭は、「陸羽一三二号」の種籾を塩水撰した後に、水に浸ける作業から始まります。

塩水選が済んでもういちど水を張る
陸羽一三二号
これを最后に水を切れば
穎果の尖が赤褐色で
うるうるとして水にぬれ
一つぶづつが苔か何かの花のやう
かすかにりんごのにほひもする
笊に顔を寄せて見れば
もう水も切れ俵にうつす
日ざしのなかの一三二号

 その繊細な描写からは、賢治自身がこの作業を、大切に、種籾を愛おしむように行っている様子が、目に浮かぶようです。

 作品ではこの後、おそらく花巻農学校から眺めた郊外の早春の情景が、見事にスケッチされます。青ぞらは広がり、まだ冷たい氷も少々残ってはいるものの、「乾田の雪はたいてい消えて」、春があちらこちらで萌えはじめています。この作品の「下書稿(一)」や、「下書稿(二)」の第一形態は、はじめ「村道」と題されていましたが、それらの段階では、このような景色の生き生きとした描写が中心になっていました。

 そして、作品の最後は、次のように締めくくられます。

今日を彼岸の了りの日
雪消の水に種籾をひたし
玉麩を買って羹をつくる
こゝらの古い風習である

 すなわち、彼岸の終わりの日には雪消の水で「浸種」を行い、「玉麩を買って羮をつくる」というのが、花巻近辺の「古い風習」だというのです。
 「下書稿(一)」の最後に、「大きな作のトランプ札の/まづ一枚が/今日おだやかにめくられる」とあったように、いま作者の目の前では、まさに季節が移り変わろうとしています。そしてそのような不思議な瞬間も、昔から人々の「暮らし」の習慣の中には、ちゃんと織り込まれてきたのだということを、作者はここであらためて感じています。


 さて、これらの「古い風習」に対するものとして、冒頭に登場する「陸羽一三二号の塩水撰」は、まさに「新しい試み」にあたります。
 陸羽一三二号は、賢治がとりわけ推奨した稲の品種として有名ですが、秋田県大曲の農事試験場陸羽支場においてこの品種が育成されたのは、この作品が書かれたわずか3年前の、1921年のことでした。冷害や病虫害に強く、反当収穫高も多いことから、東北地方の農業の専門家にとって、当時これは新たな期待の星とも言うべき稲だったのです。
 それから、「塩水撰」というのも、実は意外に新しい方法だったんですね。これは福岡勧業試験場長をしていた横井時敬という人が考案し、1891年(明治24年)に『重要作物塩水撰種法』という著書で、発表しています。
 童話「或る農学生の日誌」には、「一千九百二十六年三月二十〔一字分空白〕日」の項に、主人公の農学生が塩水撰をやるところが出てきます。この箇所を読むと、当時の一般の農家では、まだ塩水撰を行う習慣はなかったようなのです。「みんなも(塩水撰が)ほんたうにいゝといふことが判るやうになったら、ぼくは同じ塩水で長根ぜんたいのをやるやうにしよう。」と出てきます。

 ということで、「古いもの」と「新しいもの」とが、農作業や人々の生活の中に共存している様子を、賢治はこの日まさに実感して、これを「過渡期の風習」と呼んだのではないかと、私は思うのです。ちょうどこの作品に描かれたように、冬から春に季節が移る時期には、過渡的に「冬」と「春」が目の前で共存しているように。


 最後に、「彼岸の了りの日」に、「玉麩を買って羮をつくる」という風習について、少し調べてみました。
 花巻や岩手に関しては、はっきりしたことはわからなかったのですが、宮城県地方の郷土料理の「おくずかけ」というのが、これと同じルーツの料理なのではないかと思われました。こちらのページでは、宮城県岩沼市におけるその調理例を写真で見ることができます(またこちらは学校給食(仙台のお彼岸料理)として、こちらでは詳しいレシピも見られます)。
 当時の花巻の農家で作られるとすれば、ここまでたくさんの野菜を入れたかどうかはわかりませんが、いずれにしてもこれは彼岸や盆に精進料理として作られる汁物で、必ず「麩」も入っていますし、葛または片栗粉でとろみをつけるところは、「羮(あつもの)」と呼ぶにふさわしい感じです。
 ところで、ある情報誌の「麩」特集号の3ページめを見ると、全国でいちばん麩の消費量が多い地域は、何と東北地方で、その東北の「麩」消費量を月別のグラフで見ると、最高がお盆のある8月で、次が春の彼岸の3月なんですね。

 花巻あたりでは、今も「彼岸の了りの日」には、「玉麩を買って羮をつくる」という習慣は残っているのでしょうか。それとも、賢治の時代の「過渡期の風習」として、今はすたれてしまっているのでしょうか。