大菩薩峠の歌

1.歌曲について

 中里介山の未完の小説「大菩薩峠」は、原稿用紙にすれば13,000枚にもなるかという記録的な長編で、「日本一長い小説」とも「世界一長い小説」とも言われます。

 その物語は、武蔵と甲斐の国境にある大菩薩峠の頂上で、机龍之助という一人の剣士が、通りかかった老巡礼を無惨に斬り捨てる場面から始まります。この「動機なき殺人」によって、龍之助は血と欲望にいろどられた終わりのない旅を彷徨う宿命を背負いました。
 時は幕末、その後の龍之助は京で新選組と大立ち回りを演じたり、天誅組の蜂起に加わって失明したりしますが、盲目になることで彼の「音無しの剣法」はますます冴えわたります。善や悪などという観念を超出していくヒーローの魔剣は、さらに多くの人々の血を浴びつづけていくのでした。
 長い物語を通して、その登場人物は数限りありません。老翁の顔で身体は子供という槍の天才「米友」、大酒飲みの赤ひげ医者「道庵先生」、市井に棲む洋学の俊才「駒井甚三郎」、巨体怪力の水車番「与八」、そしてそれぞれの因縁をかかえた多くの女性たちなど、癖のあるキャラクターがいっぱいで、物語はまさに大河のように、動乱を押し流していきます。(右上写真は、1960年大映映画「大菩薩峠」で市川雷蔵の扮する机龍之助。)

 ここに広がる情景は、私たちがイメージする宮澤賢治の作品世界とは、よほど異質で対極的なものに感じられますから、彼がこの「大菩薩峠」の愛読者であったと聞くと、かなり意外な感じもします。しかし、賢治の初期短篇の中には、何となくこれと相通ずるような劇画調のタッチの作もあり、彼もどこかには、このような世界への親和性を持っていたのだろうと思います。
 何よりも、作者の中里介山は、仏教とりわけ田中智学の主導する国柱会の日蓮主義に強く傾倒していたと言われています。また田中の方も、この小説が世に出た当初、各所でこれを賞賛し推奨していました。したがって、ひと頃の賢治――田中智学に心酔し、文学によって国柱会に貢献しようと決意していた――にとっては、当然この小説は必読の文献だったに違いありません。

 それにしても、読んだ小説をもとに自分で詞と曲を作り、歌曲にして唄っていたというのは、賢治としてもこの物語によほど何かの思い入れがあったのでしょう。
 その思い入れのありかを考えてみると、歌詞に二度出てくる「修羅」というキーワードに行き当たらざるをえません。これはもちろん、剣を頼りに無明の闇をさすらい、人を斬りつづける主人公=机龍之助を表わしていますが、ここに重ね合わされているのは、自らを「修羅」と規定した賢治自身の魂なのでしょう。
 宗教をよりどころに自己犠牲的な献身を旨とし、また一方で美を追い求めてやまなかった賢治の生涯は、小説の机龍之助とは正反対のものに思えます。しかしあえて彼は、これらを同じく「修羅」と呼ぶのです。
 「大菩薩峠」を読み、この歌を口ずさむ時、彼は自らの心の内部の闇をも見つめようとしていたのでしょうか。

  さて時は変わって、机龍之助の時代から100年後、また「大菩薩峠事件」と呼ばれる出来事が起こります。
 全共闘運動が敗北した1960年代終わり、最も暴力的な路線をとっていた共産同赤軍派は、「前段階武装蜂起」のための軍事訓練をこの大菩薩峠で行っていました。内偵を進めていた警視庁と山梨県警は、彼らの集結していた山荘を包囲して、最高幹部ら53名を逮捕します。
 この後、追いつめられた赤軍派はますます武器への固執を強めて連合赤軍を結成し、やはり中部の山岳地帯において、組織内部の連続リンチ殺人から「あさま山荘事件」を経て、崩壊へと進んでいったのです。
 机龍之助にしても連合赤軍にしても、暴力に魅入られた人間が歩もうとする道筋は、私たちに強い印象を与えます。また両者のその「修羅」のような行状が、「菩薩」という名を冠した地点で繰り広げられるアイロニーは、何か仏教的な「業」を連想させずにはおきません。
 中里介山がこの小説を形容した言葉で言えば、これはまさに「カルマ曼荼羅」です。

2.演奏

 さて、今回の「大菩薩峠の歌」の歌唱には、小林幸子さんの歌声をもとに制作された VOCALOID ライブラリー‘Sachiko’を使用してみました。これはまさに小林幸子さんを彷彿とさせるビブラートが特徴で、この歌の演歌調の雰囲気にも不思議とマッチしているのではないかと思います。
 伴奏は、琴・箏のアンサンブルをイメージして、Garritan World Instruments から、琴、古箏、鼓、中太鼓、虎杖笛、持鈴、ベースです。

3.歌詞

二十日月かざす刃は音無しの
          虚空も二つときりさぐる
                    その龍之助

風もなき修羅のさかひを行き惑ひ
          すすきすがるるいのじ原
                    その雲のいろ

日は沈み鳥はねぐらにかへれども
          ひとはかへらぬ修羅の旅
                    その龍之助

4.楽譜

(楽譜は『新校本宮澤賢治全集』第6巻本文篇p.375より)