「春と修羅 第二集」に、「住居」という作品があります。短いので、全文を下に引用します。
三七八
住居
一九二五、九、一〇、青い泉と
たくさんの廃屋をもつ
その南の三日月形の村では
教師あがりの採種者(たねや)など
置いてやりたくないといふ
……風のあかりと
草の実の雨……
ひるもはだしで酒を呑み
眼をうるませたとしよりたち
青い泉、廃屋、三日月形の村・・・。絵のようにどこか幻想的な雰囲気の漂う言葉の連なりで始まりますが、最後は、さびしい農村の人々を描いて終わります。
ただこれだけを読むと、全体としてどういう意味がある作品なのかよくわかりません。しかし日付として記されている1925年9月とは、賢治が農学校教師を辞職する半年前であること、「教師あがりの採種者」というのが(想像上の)賢治自身を指しているように思えること、そして題名が「住居」となってていることを考え合わせると、次のように推測してみることができるでしょう。
すなわち、この頃すでに賢治は、翌年春に教師を辞めることを決めていて、その後の仕事としては、採種業のようなものを考えていた。ある日、賢治は退職後の住居を探すために「三日月形の村」を訪れ、そこにたくさんある「廃屋」の一つを借りられないかと地元の人と交渉してみたが、本文4~5行目のような返事によって、すげなく断られた・・・。
実際には賢治は1926年春に、下根子桜にあった宮澤家の別邸に移り住んで独居自炊生活に入り、自ら農業に携わるとともに「羅須地人協会」の活動を始めます。
しかしこの作品を見ると、そのわずか半年前には、これとはまた別の生活をする可能性についても、考えていたのかもしれません。
そうすると、ここに出てくる「その南の三日月形の村」というのが、実際にははたしてどこの村のことだったのだろうか、ということが気になります。
で、下の図は、「岩姫の里」というサイトに掲載されている「岩手旧地図」の、一部抜粋です。「平成の大合併」ほど短期間にではありませんが、大正から昭和にもたくさんの市町村合併が行われ、賢治がこの作品を書いた頃には、最近の地図では見られない小さな村々がたくさんありました。
地図には、花巻川口町の南に「根子」と記されていますが、根子村は1923年6月1日に花巻川口町に編入されましたので、作品「住居」が書かれた時点ではここは花巻川口町の一部となっています。
さて、この地図を見て、「その南の三日月形の村」とはどこだったのか考えてみますが、「花巻よりは南方で、さほど遠くない場所」というような条件で探してみると、「太田村」「笹間村」という2つの村が、場所といいその細長く湾曲した形といい、ちょうど当てはまる感じがします。
この2つの村ならば、賢治は農事講演のために訪れてもいますし、農学校在職中からなじみの深い場所だったとも思われるのです。(『【新】校本全集第16巻(下)年譜篇』の1924年「3月末の日曜」の項には、「稗貫農学校第二回卒業の照井謹二郎をさそい、飯豊、笹間、太田の役場をまわる。農事講演の打合せのためであった。」との記載あり。)
それでは、太田村・笹間村の2つのうち、賢治が実際に「住居」を求めて訪れたのは、はたしてどちらの村だったのでしょうか。
これに関して私はある理由で、太田村の方だったのではないかと、今のところ思っています。
太田村は1954年4月に、笹間村は1955年7月に、いずれも花巻市に合併編入されて、現在はこの「三日月形の」行政区画はなくなってしまったのですが、もし5月の連休にでもこのあたりに行けたら、またこの記事の続報―「その南の三日月形の村(2)」―を書いてみたいと思っています。
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