その南の三日月形の村(2)

 「住居」(「春と修羅 第二集」)という作品を読むと、賢治が教師退職後の住み処として、一時は「三日月形の村」という謎の場所を考えていたように思えることについて、以前に書きました
 今度は、『【新】校本全集第16巻(下)補遺・資料篇』に掲載されている地図で、村の形をご覧ください。

岩手県市町村図

 前回書いたように、花巻の南方では、稗貫郡太田村と、和賀郡笹間村が、「三日月」の形をしているように見えます。笹間村にしても太田村にしても、あるいはその北の湯口村にしても、このあたりの行政区画が並んで似たような湾曲した形をしているのは、宇南川、瀬川、豊沢川などこの辺の川が、奥羽山脈の山間部では東南方向に流れ、平野部に出るとカーブして東方向に流れるというパターンをとっているからかもしれません。

 で、この「三日月形の村」というのがどこの村のことだったのかという問題ですが、ここで「住居」の「下書稿(二)」を見ると、冒頭部分には、「たくさんの青い泉と、/林の中に廃屋を持つ、/その南の三日月形の村では・・・」と書かれています。つまり、この三日月形の村には、「たくさんの泉」があるようなのです。
 ちなみに「林の中」というのは、「屋敷林」によって囲まれ、このあたりで「居久根(イグネ)」または「牆林(ヤグネ)」と呼ばれる住宅区域でしょうね。

 ということで、泉のことを気にしつつ旧・太田村のあたりを現代の地図で見てみると、なぜか下のように、「泉屋敷」「泉畑」という地名が目に飛びこんできます。緑色に塗られた部分は屋敷林によって囲まれた区画で、その一つである「泉屋敷」という呼称は、この居久根に昔は泉が湧き出ていたのではないかと想像させます。開けた場所にある「泉畑」も同様です。

旧・太田村地区

 清水寺の「慈眼水」また、「慈眼水」看板上図の左端の方には「清水寺」が見えますが、このお寺のルーツも、もともとこの場所に湧き水があって、それが地元で信仰を集めていたことに由来します。この水は、眼の病に対して霊験あらたかであるとして、「慈眼水」と呼ばれて現在も祠の中に祀られています(右写真)。

 寺伝によれば、坂上田村麻呂がこのあたりで蝦夷と戦った際、敵が投げた木片が田村麻呂の目に当たって傷ついたが、この湧き水で洗ったらたちまち平癒したことから、「慈眼水」と名づけられたということになっています。
 この辺の旧跡の多くに見られるように、坂上田村麻呂との由縁は後代の附会と思われますが、「清水寺」という名称そのものは、この湧き水への古くからの信仰に由来するのでしょう。
 いずれにしても、この由緒ある「水」は、たしかに旧太田村にある「たくさんの泉」の、一つであると言ってよいでしょう。

 20060504d[1].jpgもう一つ、旧太田村の「由緒ある水」として、より新しい時代のものもあります。上の地図よりもずっと西に進んだところ、山地が迫る一角の「高村山荘」の裏にある、「智恵子抄泉」です(右写真)。
 高村山荘は、高村光太郎が宮澤政次郎氏宅に疎開した後、さらに昭和20年から7年間を暮らした小さな庵です。ここで生活していた間、おそらく光太郎はこの泉から水を汲んでいたのでしょうし、毎年5月15日に行われる「高村祭」の時には、この泉の水が献茶に用いられます。
 「智恵子抄泉」という名前は、光太郎自身の命名ではありませんが、いつの間にか人々にそう呼ばれるようになったということです。右の写真にあるように、現在はその名を示す小さな碑も建てられています。

 現代の花巻市の観光スポットの一つとなっている「高村山荘」「高村記念館」の裏手にあって、この泉は訪れる人も少なくひっそりとしていますが、これもやはり旧太田村にある「たくさんの泉」のなかの一つに数えられます。

 さらにあと一つ、上の地図で「太田」という地名が書いてあるすぐ右に「」の印がありますが、これは花巻市立太田小学校です。そして、その校歌の三番の歌詞は、「きよらかな水が きよらかな水が/太田のあすをよんでいる・・・」と始まるのです。
 これも、旧太田村と湧き水とのゆかりを象徴するものに思えます。


 というようなわけで、私としては当時の「太田村」が、賢治の言う「その南の三日月形の村」なのではないかと思うのです。それは、上のような話によって「立証」できるというような事柄ではありませんが、形や場所や「たくさんの泉」の存在など、状況証拠の集積が、何となくそう思わせるのです。

 1925年9月、翌春に農学校を退職するとすでに心に決めていた賢治は、ひそかに太田村を訪れて、そこにある廃屋の一つを自分の住居として借りられないか、村人と交渉してみたのではないでしょうか。そしておそらく賢治は老人から冷たく断られ、結局は下根子にあった宮澤家別宅に移り住んで、「羅須地人協会」を始めることになったのです。
 それにしても、もしも賢治が太田村に家を借りられて「採種屋」を開いていたら、その後の活動や創作は、どんなものになっていたでしょうね。想像してみるのは愉快です。



 ところで、羅須地人協会時代の作品と推測される「境内」(=「〔みんな食事もすんだらしく〕」下書稿(一))は、上にも触れた太田村の清水寺が、作品舞台となっていると思われます。
 この作品の中で賢治は、「学校前の荒物店」(太田小学校前?)の老人から、冷たい皮肉を言われました。このエピソードはよほど賢治の印象に残ったのか、後に童話「グスコーブドリの伝記」における次の挿話に用いられます。

 ところがある日、ブドリがタチナという火山へ行つた帰り、とりいれの済んでがらんとした沼ばたけの中の小さな村を通りかゝりました。ちやうどひるごろなので、パンを買はうと思つて、一軒の雑貨や菓子を売つてゐる店へ寄つて、
「パンはありませんか。」とききました。すると、そこには三人のはだしの人たちが、眼をまつ赤にして酒を呑んで居りましたが、一人が立ち上がって、
「パンはあるが、どうも食はれないパンでな。石盤だもな。」とをかしなことを云ひますと、みんなは面白さうにどつと笑ひました。

 ただ、「境内」という作品に登場する「ぢいさん」は、「朝から酒をのんでゐた」とは書かれていますが、人数は一人であり、眼についての描写や「はだし」という記述はありません。
 一方、「住居」の方は、「ひるもはだしで酒を呑み/眼をうるませたとしよりたち」と結ばれていて、日中から酒を呑んでいた人は複数であり、「はだしで」「眼をうるませ」ていたところは、「グスコーブドリの伝記」の記述に合致します。
 すなわち、「グスコーブドリの伝記」の上記挿話は、賢治がどちらも太田村において体験した、つらい思いの残る二つのエピソード(「住居」+「境内」)を、混ぜ合わせて形づくられたものではないかと思うのです。

 賢治が羅須地人協会時代に、周囲の農民から感じた疎外感―それは「境内」では、「そのまっくらな巨きなもの」と呼ばれ、また「〔同心町の夜あけがた〕」では、「われわれ学校を出て来たもの/われわれ町に育ったもの/われわれ月給をとったことのあるもの/それ全体への疑ひ」と解釈されましたが、実は彼が月給とりをやめて「一人の百姓」になろうとする半年も前から、たとえば「教師あがりの採種屋など/置いてやりたくない・・・」という言葉によって、すでに先取りして感じていたものだったわけです。