「【新】校本全集」の「補遺詩篇 I 」に、「展勝地」という口語詩の断片が収められています。先日ここに書いた「〔大きな西洋料理店のやうに思はれる〕」と同様に、この作品も「丸善特製 二」原稿用紙に、「青っぽいインクで」、「きれいに」書かれている、「清書稿」です。
用紙の裏面には、童話「毒もみの好きな署長さん」の草稿が書かれているところも同じですが、「〔大きな・・・〕」が頭を欠いて終わりの6行だけが残存しているのと対照的に、こちらは題名を含めて初めの方だけが残されて、途中で切れてしまっています。
内容を見てみると、まず題名の「展勝地」というのは、現在は北上市立公園として北上川東岸に広がる、桜の名所のことですね(右写真)。ここは、青森の弘前城、秋田の角館とともに、「みちのく三大桜名所」と並び称されているそうです。こちらのページからは、展勝地公園のライブ映像を、Webカメラで見ることもできますので、お試しください。
本文では、「落葉松」が「青い」というのですから、季節は春からせいぜい初秋までの間と思われます。しかし「そらはいよいよ白くつめたく」という描写は、夏の盛りという雰囲気でもありません。
全体を通読すると、これは賢治が農学校の教師として、生徒を引率して「展勝地」の公園まで、遠足か何かで来た時の様子なのではないかと思われます。
残されたテキスト中、最も重要な手がかりになるのは、15行目の「桜羽場君、」という呼びかけです。このちょっと珍しい名字は、花巻農学校三回生名簿の中に、「桜羽場 寛」として見つけられます。
桜羽場寛は、1922年4月に花巻農学校に入学して、1924年3月に卒業した生徒でした。つまり、1921年12月に着任した賢治にとっては、初めて新入生として迎えた学年ということになります。
桜羽場君は、これ以外の賢治作品にもけっこう登場していて、まず短篇「台川」では、「桜羽場が又凝灰岩を拾ったな。頬がまっ赤で髪も赭いその小さな子供。」として描かれています。また、「春と修羅 第二集」の「〔地蔵堂の五本の巨杉が〕(下書稿(二)」には、「かしこくむら気な桜場寛の生れた家だ」という一節があります。後者でわかるように、彼は、地蔵堂で名高い「延命寺」という寺の息子だったのです(「巨杉」詩碑参照)。
さらに、桜羽場が卒業してまもない1924年の5月には、前月に刊行した『春と修羅』を、賢治は署名入りで贈呈しています(右写真)。
このような様子を見ると、賢治はこの桜羽場寛という小柄で利発な生徒を、かなり可愛がっていたのだろうということが推測されます。
さて、ここからが本論なのですが、この「展勝地」という断片も、「〔大きな西洋料理店のやうに思はれる〕」が『春と修羅』の時期に属しながら結局は詩集に収められなかったと推測されるように、やはりいったんは詩集用に清書されながら、最終的には割愛された作品の断片なのではないでしょうか。
その一つの根拠は、やはりこれも「丸善特製 二」原稿用紙に「青っぽいインクで」「きれいに」書かれているという原稿の状態が、『春と修羅』の清書稿と同じであること、それからもう一つの根拠は、桜羽場寛が在学した期間が、『春と修羅』の時期と一致しているということです。
『春と修羅』に収められている作品が書かれたのは、1922年1月から1923年12月まで、「春と修羅 第二集」が始まるのは、1924年2月の「空明と傷痍」からでした。
一方、「展勝地」が書かれたのは、上記の事実から桜羽場寛が在学中、すなわち1922年4月から1924年3月までの間のことと推定され、これはほとんどが上記『春と修羅』の期間に相当します。1924年の2月と3月だけは「春と修羅 第二集」と重なりますが、この時期は落葉松が「青い」というには、まだ少し早いですね。
そうすると、やはりこの作品は『春と修羅』の時期のものと考えるのが自然だと思います。
また前述のように、「〔大きな西洋料理店のやうに思はれる〕」の用紙と同じく、この作品の原稿用紙の裏面にも、童話「毒もみの好きな村長さん」が書かれています。このことは、賢治がこの童話の草稿を書きつけようとした時に、これら二作品の用紙が一緒に保存されていた可能性を強く示唆します。もしも前者が『春と修羅』に収録を検討されたことがあったのなら、後者も同じような立場だったことがあるのではないでしょうか。
このようなことは、おそらく研究者の方々にとっては周知のことなのだろうと思うのですが、たまたま「牧馬地方の春の歌」を見るために全集第五巻を繙いている時に気づいたので、とりあえず自らの覚え書きのために記しておきます。
ちなみに、展勝地公園が開園したのは1921年5月、すなわち賢治たちが遠足に行ったであろう頃は、まだ誕生してから1~2年という時期だったことになりますね。
展勝地周辺案内図(北上市ホームページより)
ネリ
「展勝地」が、『春と修羅』にまとめられることになる一連のスケッチの一つかも知れないということ。かなり可能性が高いと思います。
1924年4月29日には、花巻農学校の「職員生徒一同和賀郡六原軍馬補充部方面遠足」が行われたりして、生徒といっしょに展勝池の近辺へも行っています。このような機会は、ほかにもあったと思われます。
「展勝地」が、1921年以降の、桜羽場君の在学中のある日を題材にしているのは間違いないにしても、それが、1922年か23年かは、決定的な何かがなくて、決めがたいのです。連が「※」で区切られていることや文体の硬さは、「小岩井農場」の下書稿に近いように感じられます。それなら、22年の春ということになるのですが。
いずれにしても、とても面白い事を教えてもらいました。ありがとうございます。
hamagaki
ネリ様、コメントありがとうございます。
ご指摘のとおり、実は私もこの「展勝地」が『春と修羅』の時期に属するとすれば、1922年の春から初夏ぐらいの出来事だったのではないかと、ばくぜんと思っていました。
はっきりと根拠をもって示しにくいので本文では書かなかったのですが、一つは、ネリ様の言われる「文体の硬さ」と申しましょうか、何か雰囲気として『春と修羅』の前半の方の作品の印象に近く感じたのです。少なくとも、詩集中で一つの分水嶺を成す「無声慟哭」「オホーツク挽歌」以後の作品の感じではないように思いました。
それで、1922年11月の「無声慟哭」よりも前とすれば、「落葉松」が「青い」ことからこの年の春か夏、また「そらはいよいよ白くつめたく」という描写から盛夏の様子ではないので、まあせいぜい春から初夏、などと考えたりしていました。
短篇で言えば、「台川」や「イーハトーボ農学校の春」の頃の雰囲気でしょうか。
六原軍馬補充部への遠足のご教示も、ありがとうございます。確かにここなら展勝地もすぐ近く、途中で立ち寄ることも可能ですね。
今後とも、よろしくお願い申し上げます。