「敗れし少年の歌へる」合唱曲コンサート

 去る9月14日の夜には、阪神タイガースのマジックナンバー点灯という喜びとともに、私にとって個人的にとても嬉しく光栄な知らせがありました。
 岩手県普代村の合唱団の代表の方から電話があって、賢治の「敗れし少年の歌へる」という詩に私が曲を付けた合唱曲を、こんどの10月8日のコンサートで歌っていただけることになったというのです!

 この間のいきさつについて、ご説明いたします。
「敗れし少年の歌へる」詩碑 今年の1月8日~10日、私は「80年目の異途への出発」と称して、賢治が1925年1月に旅した三陸の足跡をたどる旅をしました。これには、昨年10月に普代村に建てられた、「敗れし少年の歌へる」詩碑(右写真)を見学するという目的もありました。
 この旅行の時、花巻の阿部弥之さんや普代村の金子功さんの様々なお世話もあって、私は1月9日の晩に、賢治も泊まったと推測されている下安家の「小野旅館」において、普代村合唱団の3人のメンバーとお会いしていろいろとお話をする機会が持てたのです。
 お茶を飲みながら1時間あまりも話すうちに、いろいろと「奇遇」も明らかになりましたが、その中で、「村にできた詩碑に歌も付いていたら・・・」と合唱団の方が願いを述べられるうち、何を勘違いされたかこの私に対して、「作曲もできるでしょう」と言って、この詩に曲を付けることを依頼されてしまったのです。
 私は、「もしも公募されるなら、私も一つ応募させていただきます」などと言ってごまかそうとしましたが、許してもらえませんでした。

 一晩寝て、室内の冷気で翌朝の5時頃に目が覚めると、やはり「敗れし少年の歌へる」の曲のことが気になって、寝床の中で詩を思い出しながら、いくつかメロディーを口ずさんでみました。
 そのうちに部屋が薄明るくなってきたので、鞄の中にあった紙切れの裏にいびつな五線を引いて、曲の案を3つほど書きとめました。

 そして京都に帰ってから、書きとめたメモのうちの一つを女声2部合唱にしてピアノ伴奏を付け、VOCALOID の歌声で演奏ファイルを作成し、CD-R に入れて楽譜とともに普代村にお送りしたのが、1月の下旬のことです。
 それ以降一通りの文通の後、とくに音沙汰がなかったので私も忘れていた頃、はるばる普代村から今回の電話が鳴ったのでした。
 10月8日のコンサートは、詩碑が完成して1周年という記念の意味もこめられているようで、さらにモリーオ市からは岩手県知事も来聴されるとのことでした。

 こういったいきさつで、合唱団の方は「遠いので無理をしないで」と言ってくださったのですが、自分の曲を合唱団に歌っていただけるという機会など一生のうちにもう来ないでしょうから、私としては何とかして当日はビデオカメラを持って、普代村へ行ってみるつもりです。
 この曲の VOCALOID による演奏ファイルは、上述のようにすでに私の手元にはあるのですが、こんどの「本邦初演」を待ってから、ここで公開させていただきます。