去る3月1日に、愛知県田原市に賢治の短歌を刻んだ銘板が設置されたと聞きましたので、3月20日の春分の日に、見学に行ってきました。
渥美半島を詠んだ賢治の短歌 東三河在住の女性が市に寄贈(東日新聞)
下記が、その短歌銘板です。
賢治の作品や生涯/ハイパーリンクされた詩草稿/賢治の歌曲/全国の文学碑…
去る3月1日に、愛知県田原市に賢治の短歌を刻んだ銘板が設置されたと聞きましたので、3月20日の春分の日に、見学に行ってきました。
渥美半島を詠んだ賢治の短歌 東三河在住の女性が市に寄贈(東日新聞)
下記が、その短歌銘板です。
今年ももうすぐ3月11日がやって来ます。
14年前のこの日の夜、私はただ呆然とテレビの映像を見ていたのですが、その際に図らずも感じたことについては、先週の講演でも少し述べさせていただきました。
私はこの夜、賢治の「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という言葉に彼が込めていた思いを、なぜかふと実感できたように思ったのです。
「神戸宮沢賢治の会」のお招きで、来週の日曜3月2日に、神戸市で賢治に関する講演をさせていただくことになりました。下のような美しいチラシができています。
私が「宮沢賢治の「ほんとうのさいわい」とは何か」という大それたテーマでお話をさせていただいた後、「影絵劇団 白つめくさ」と「劇団風斜」による、「土神ときつね」の影絵+演劇も上演されます。
開演は14時、場所はJR「六甲道」駅に接する「灘区文化センター」です。申込みは不要で、入場無料ということです。
先日ある方から、天江富弥という児童文化研究家・料理屋主人と、宮沢賢治との交友関係について、お問い合わせをいただきました。
実は先週までは、Wikipedia の「天江富弥」の項目に、「(天江富弥が)宮沢賢治との交流関係をもつ」と記されていて、どこかにその根拠となるような二人の関わりを示す資料が存在するのだろうか、というお話だったのですが、私自身は不勉強にして天江富弥という人の名前さえ知らず、当初は何もわかりませんでした。
その後、Wikipedia の変更履歴を参照すると、「宮沢賢治との交友関係は確認できない」として、賢治に関する記載は2月13日に削除されているのですが、私の方で少し調べてみると、斎藤庸一という詩人による天江富弥の聞き書きの中に、天江が石川善助・森佐一とともに、花巻に賢治を訪ねたという記載があったのです。
去る1月30日にニュージーランド議会において、山に人格権を認める法案が、全会一致で可決されたというニュースがありました。
ニュージーランドで山に人格権認める法案が可決、先住民マオリの世界観認める(BBC News Japan)
「山に人格を認める」などとは、いったいどういうことなのかと思いますが、この法律はニュージーランド北島のタラナキ山に対して、山自身の所有権は(人間や政府ではなく)この山そのものに属し、山が人間と同じ権利を有していて、法的保護を受けることを認めたのだということです。
タラナキ山(Wikimedia Commonsより)
賢治の比較的初期の童話「十力の金剛石」は、すでに様々な宝石を持っている王子が、「もっといゝ
王子の帽子に付けられた蜂雀に導かれて、二人が暗い森を抜け、草の丘の頂上にやって来ると、ダイアモンドやトパァスやサファイヤが雨や霰のように降り、地に咲くりんどうやうめばちそうや野ばらは、
「ね、このりんだうの花はお父さんの所の一等のコップよりも美しいんだね。トパァスが一杯に盛ってあるよ。」
「えゝ立派です。」
「うん。僕このトパァスを半けちへ一ぱい持ってかうか。けれど、トパァスよりはダイアモンドの方がいゝかなあ。」
王子ははんけちを出してひろげましたが、あまりいちめんきらきらしてゐるので、もう何だか拾ふのがばかげてゐるやうな気がしました。
その野原には、一々拾うのが馬鹿らしくなるほど大量の宝石が、満ちていたのです。
しかしそれなのに、宝石でできたりんどうもうめばちそうも野ばらも、なぜかかなしそうな様子で歌っています。
十力 の金剛石 はけふも来ず
めぐみの宝石 はけふも降 らず、十力 の宝石 の落ちざれば、
光の丘も まっくろのよる
野原のみんなは、「十力の金剛石」というものを待ち望んでいるようですが、それは今日も来ないというのです。
盛岡高等農林学校3年の1917年7月1日、賢治は学友とともに同人誌『アザリア』を創刊しました。その第一号に賢治が寄稿した短篇「「旅人のはなし」から」は、彼が生涯で初めて発表した散文作品です。
この作品は、語り手「私」が過去に読んだ「ある旅人の話」の内容を、思い出すままに綴ったという形式で書かれていて、旅人が経験したという様々な出来事が、走馬灯のように流れていきます。途中で旅人は、子供の身代わりになって死んだり、男や女や木に恋をしたりもします。
なかでも、この旅人が経験する出会いと別れには、深い孤独感が漂っています。
旅人は行く先々で友達を得ました。又それに、はなれました。それはそれは随分遠くへ離れてしまった人もありました。旅人は旅の忙しさに大抵は忘れてしまひましたが時々は朝の顔を洗ふときや、ぬかるみから足を引き上げる時などに、この人たちを思ひ出して泪ぐみました。
どうしたとてその友だちの居る所へ二度と行かれませうか、二つの抛物線とか云ふ様なものでせう。(「「旅人のはなし」から」)
お正月の休みに、藤村安芸子著『宮沢賢治 人と思想』という本を読みました。下のような赤い表紙でおなじみの、清水書院「人と思想」シリーズの一冊で、内外の偉人を取り上げたどの巻もコンパクトかつ適確にまとまっていて重宝なのですが、この「宮沢賢治」の巻は、おもに童話に表現された賢治の思想を、仏教的な観点から分析したもので、とても奧深く刺激的な内容でした。
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宮沢賢治 人と思想 藤村安芸子 (著) 清水書院 (2024/10/21) Amazonで詳しく見る |
あけましておめでとうございます。本年もどうかよろしくお願い申し上げます。
ところで、今日からちょうど百年前の1925年1月5日の夜、賢治は花巻から三陸地方へ向けて旅立ちました。この旅行中には、出発時の「異途への出発」をはじめ、多くの詩が書かれましたが、翌1月6日明け方の北三陸の海岸を「暁穹への嫉妬」に、1月7日に発動機船に乗って宮古まで航行する間の情景を「発動機船 一」「発動機船 第二」「発動機船 三」の連作として残しています。「暁穹への嫉妬」は、後に文語詩に改作されて「敗れし少年の歌へる」となりました。
その後2004年10月、賢治が発動機船に乗った場所の推定地の一つである普代村堀内に、「敗れし少年の歌へる」詩碑が建立され、私は賢治の旅から80周年となる2005年1月にこの地を訪れたのですが、図らずもその際に地元の合唱団の方から依頼を受けて、この詩に曲を付けた合唱曲「敗れし少年の歌へる」を作らせていただきました。
続いて、賢治の旅から90周年になる2015年には、普代村黒崎に「発動機船 一」詩碑が建立されました。私はお誘いを受けて、普代村やお隣の田野畑村の村長さんも出席されたこの詩碑の除幕式に、参加させていただきました。
相次ぐ詩碑の建立は、賢治と三陸地方の縁を大切にしようという、地元の方々の強い思いの表れかと思います。
そして、昨年10月のある日、また地元の合唱団の方から私に電話があって、詩碑となっている「発動機船 一」を合唱曲にしてくれないかと、依頼を受けたのです……。
国会図書館デジタルコレクションで『岩手県名士肖像録:御大典記念』という1930年刊行の本を見ていたら、若き日の宮沢清六氏の写真が載っていました。私自身は、まだ目にしたことがなかった肖像写真です。