以前に かぐら川さんがコメントとして書き込んで下さったことで、その後、かぐら川さんのブログ記事にも書かれていますが、賢治が生まれた時点での生家の住所は、いくつかの伝記や年譜によって、それぞれ異なった記載がなされています。
具体的には、賢治生家が位置する行政区画を、(1)「里川口村」としているもの、(2)「里川口町」としているもの、(3)「花巻川口町」としているもの、(4)「花巻町」としているものがあります。
結論を先どりして言ってしまえば、これらの行政区画名は、下図のように変遷する中で登場したきたものでした。下記の村・町の他にも、途中で合併吸収した村はありますが、簡略化して骨子のみを図示します。
さて、まず賢治の生地を(1)「里川口村」としている例は、『新宮澤賢治語彙辞典』(東京書籍)の巻末の「宮澤賢治年譜」です。p.817の1896(明29)の項に、
八月二十七日 岩手県稗貫郡里川口村川口町三〇三番地(現花巻市豊沢町四丁目一一番地)に父宮沢政次郎、母イチの長男として出生(戸籍簿には八月一日出生となっている)。
と記されています。
また、(4)「花巻町」の例は、堀尾青史著『年譜 宮澤賢治伝』(中公文庫,1991)です。そのp.25には、
一八九六(明治二十九)年
八月二十七日 宮澤賢治生れる。所在地は岩手県稗貫郡花巻町大字里川第十二地割字川口町二九五番地(のちに花巻市豊沢町四の十一番地となる)。
と記されています。
また、松田甚次郎編『宮澤賢治名作選』(1943)の「略年譜」にも、
明治29年8月1日 岩手縣稗貫郡花巻町豊澤町ニ生ル。
と書いてあるようです。
さらに、本年に入ってから出版された澤口たまみ編『親子で読みたい「宮沢賢治」』(PHP文庫,2009)の「宮沢賢治・略年譜」にも、
八月二十七日、岩手県稗貫郡花巻町大字里川口字川口町(現花巻市豊沢町)に、質・古着商を営む宮沢家の長男として生まれる。
と書かれています。
(2)「里川口町」の例、というか、ぱっと見ると(1)にも見えてしまうのですが、『新校本宮澤賢治全集』および『校本宮澤賢治全集』の「年譜篇」が、結論的には正しいものでしょう。
『新校本』の年譜には、次のように書かれています。
八月一日(土) 戸籍簿によればこの日、岩手県稗貫郡里川口村川口町三〇三番地(戸籍謄本による。ただし、里川口村は明治二二年に里川口町となり、明治三〇年に花巻川口町となるので、賢治誕生の明治二十九年当時は岩手県稗貫郡里川口町である。(中略))に、戸主喜助の孫、父政次郎・母イチの長男として誕生。
「戸籍簿によれば」と但し書きがついて、最初に「里川口村」の名前が出てきますが、最初の図でも示したとおり、賢治が生まれた1896年の時点では、「里川口町」になっていました。
ただ「戸籍簿」には、一つの「戸」ができた時点での住所が記載されるので、この場合は賢治の祖父の宮澤喜助が分家をした時点の行政区画が「里川口村」だったというわけです。その後、1889年に「里川口村」が「里川口町」に変わっても、いちいち戸籍簿における各戸の住所を書き換えるわけではないので、賢治の戸籍簿における住所欄は、「里川口村」となっていたわけです。
しかし、賢治が誕生した時点で、その場所が「里川口町」であるのならば、やはり「賢治は里川口町に生まれた」と言うのが常識的には妥当でしょう。
(1)「里川口村」としている『新宮澤賢治語彙辞典』の年譜は、この戸籍の住所にもとづいたか、『校本全集』の年譜の冒頭の表示に由来しているのかと思います。
一方、(4)「花巻町」説の根拠が何だったのか、はっきりした根拠はわかりませんが、上で見るかぎりでは、1943年(昭和18年)の松田甚次郎編『宮澤賢治名作選』の存在が大きいように感じられます。
1943年の時点では、(1929年の合併によって)賢治生家の住所は「花巻町」になっていましたから、賢治出生の時点でどうだったかということまでは考慮せずに、「花巻町」としてしまったのではないかと推測します。あるいは、松田甚次郎編『宮澤賢治名作選』以前にも、出生地を「花巻町」としている文献があって、それによったのかもしれません。
(3)「花巻川口町」の例は、佐藤隆房著『宮沢賢治』(冨山房)の巻末に収められている、「宮沢清六編」の「宮沢賢治年譜」です。次のように書かれています。
明治二十九年(一八九六) 一歳
八月二十七日 岩手県稗貫郡花巻川口町に、父政次郎、母イチの長男
として生まれる。
そして実は、当サイトの「賢治 日めくり」においても、少し前までは「花巻川口町」と書いていたのです。
私としては、いろいろと年譜の記載が分かれている中で、とりあえず、Wikipediaの「花巻市」における「行政区域の変遷」を参照すると次のように書かれていたので、1896年の時点では「花巻川口町」だったのかと思ってしまったのです。
- 1889年(明治22年)4月1日
-
- 花巻村、北万丁目村、高木村の一部が合併し、稗貫郡花巻町が成立。
- 里川口村、南万丁目村が合併し、稗貫郡花巻川口町が成立。
ここには、1889年4月に「花巻川口町」が成立したことになっていて、「里川口町」という行政区画名は全く登場しないのです。
どうしてこういうことになったのだろうかと思い、先月花巻に行った際に花巻市立図書館で調べてみたのですが、何と、花巻市の公式刊行物にも、1889年の町村制施行とともに、「花巻町」と「花巻川口町」が成立したと書いてあるんですね。
まずは、花巻市が成立した3年後の1957年に、市が刊行した『市勢要覧』という冊子です(表紙は右写真)。写真の中央あたりに見えている橋は、朝日大橋のようですね。花巻市街も、今より格段に家が少ないです。
この本のp.4に、下のような年表が載っています。
この表の中ほど、1888年の欄に、
町村制施行。現在の花巻市区域は、花巻町、花巻川口町、根子村、湯口村、湯本村、矢沢村、宮野目村、太田村、笹間村となる。
と書かれています。この記事の冒頭に掲げた図で、「1889年」となっているのと1年ずれているのは、「町村制」が発布されたのは1888年4月、それをもとに実際に新たな町村が発足したのは1889年4月だからです。
ご覧のように、「里川口町」という名前は出てこずに、町村制施行によっていきなり「花巻川口町」ができたように書いてあります。
次は、花巻が「市」になって10周年を迎えた1964年に、花巻市が刊行した『10年のあゆみ』という冊子です(表紙は右写真)。鹿踊りですね。
この本のp.9の本文には、「町村制の施行」という見出しのもとに、次のように書かれています。
明治新政府の基礎が固まり、明治21年(1888)地方自治制が発布され、市町村制が確立。花巻町、花巻川口町、根子村、湯口村、湯本村、矢沢村、宮野目村、太田村、笹間村となった。
下が、その本文のコピーです。
上の「主要年表」の中にも、「町村制施行。現在の花巻市域は、花巻町、花巻川口町、根子村、湯口村、湯本村、矢沢村、宮野目村、太田村、笹間村となる。」と書かれています。
これほどまで公式文書に「里川口町」という名前が現れないと、本当に「里川口町」は存在したのだろうかとちょっと不安になってきますが、念のため『花巻市史』(花巻市教育委員会編)第一巻のp.678-679を、下に掲げておきます。
やはり、1889年に「里川口町」は発足しているようです。
となると、花巻市が公式の記録から「里川口町」を消去している理由が、やはりよくわからないのです。
かぐら川
この問題は、賢治のためにも、いや当時の彼の地で生まれた多くの人のためにも、歴史家――古い分類でいえば「法制史家」――の手による「史料批判」を経たうえでの、事実確認が必要だというのが、結論を出していない現時点での私なりの結論?です。
こうしたことがらについて頼りになる基礎資料である角川の『日本地名大辞典/3岩手県』(*)からスタートしたのですが、現在のところ管見にはいった「里川口町」という町名を明記する――私にとって唯一の公文書であり、hamagakiさんも『花巻市史』から引用されている――「新町村区域資力調」が、はたしていかなる歴史文書なのか、とても気になっています。資料の性格、作成時期などをふくめたこの資料の素性がよくわからないのです。
実はこの資料、私が図書館から借り出した『岩手県町村合併誌』(岩手県総務部地方課発行、昭和32年(1957))の「第二節 明治二十二年当時における村合併」には、「市町村区域資力調」という名で掲載されていて“本表は明治二十二年の大合併後における市町村の区域および資力に関する調書(新市町村区域資力調――岩手県所蔵)からの抜すいである。”とコメントが付されています。
私がこの資料を批判的に検討する必要があると考えるのは、次のような事情によります。「新市町村」「大合併後」という説明にもかかわらず、《合併を要する事由》という欄があり、ここにはほとんどの市町村には「・・・ヲ以テ合併ヲ要ス」という合併直前のコメントと思われる記述が並んでいるのです。この資料は合併「検討用」に用意された内部資料の孵化前の殻をそのままつけた不思議な史料なのです。
誤解しないでいただきたいのは、「里川口町」という合併後?の町名を明記するこの資料の史料価値に多くの付箋をつける必要があることが、そのまま「里川口町」の存在を否定するものではないということです。この資料が「里川口町」存在を証明する確固たる証拠になりえないということを、長々と書いただけなのです。
事実を知りたい私は、余力があればいくつかの別史料を二つの方向から探したいと思っています。一つは地方制度史を専攻されている方ならその調べどころをご存じのはずの国側の史料です。その点は措くとして、もう一つの方向は地元岩手側の資料(史料)です。「校本全集」を編纂された先生がそれは目にされているはずなので、その原典史料ないしそれが引用された文書の存在をご教示していただきたいものと思っています。端的にいうと「校本全集」(【新】校本全集でいえば第16巻の)「年譜篇」の「1897(明治30)年」の岩手関係事項欄に明記されている《10月30日 稗貫郡里川口町を花巻川口町と改称》という記載の出典が何なのか教えていただきたいということなのです。
(以上、途中までですが、思い付くまま書いたメモです。)
*『日本地名大辞典/3岩手県』には、合併時に「里川口町」が存在したことを示唆する記述はなく、他の多くの資料同様、「花巻川口町」で合併は幕を開けています。ただし注記しておきたいことがあるのですが、割愛します。
かぐら川
〔追記〕
上に、現在の私の仮説の結論部分だけを書こうと思ったのですが、確たる裏付けがないのでやはり見合わせました。
が、『日本地名大辞典/3岩手県』から得た情報だけは少し書き添えておきたいと思います。
この町名の謎を考える際、念頭においておかねばならないのが、「花巻町」地区と「里川口町」地区の激しい対抗意識です。それはこの市町村制実施直前の明治20年の小学校合併問題――両地区にそれぞれあった小学校を合併したところ、過半数生徒の不登校を対抗意識ゆえに招き、結局また分離されるにいたったという(*)――に鮮烈に表れています。少なくとも市町村制実施直前には確かに町名案としてあったであろう「里川口町」を、早い時点で“花巻”を冠した「花巻川口町」に変更させた根底には、『我らこそ「花巻」の本流なり』という里川口地区の意識があったのではないかと思われるのです。
(*)泉沢善雄氏の論考「賢治の小学校時代――資料に基づく校舎・校名の考証」(宮沢賢治学会・会報第29号)
http://www6.ocn.ne.jp/~iwt-izmi/kenji/syogakko.htm
hamagaki
かぐら川さま、詳細で綿密なコメントをありがとうございます。
ただ、「里川口町」という行政区域名は、「案」としてあっただけでなく、やはり現実にしばらくの間は存在していたようです。それを裏付ける公文書として、例えば次のようなものはどうでしょうか。
「内閣官報局」が毎年刊行していた「職員録」を、国会図書館のサイトの「近代デジタルライブラリー」で見ることができます。
近代デジタルライブラリーの検索欄に、例えば「職員録 印刷局」と入力して検索し、表示された結果のうち「職員録. 明19-45年現在,印刷局, 明19-45」というのをクリックすると、書誌情報が表示されます。各年ごとに、(甲)が中央官省、(乙)が地方庁の職員の名簿になっています。
そこで、「明治二十二年」の職員録は「一月十日現在」のものですが、岩手県の「稗貫、東和賀、西和賀郡役所」の項を見ると、下の図のように、その住所は「稗貫郡里川口村」となっています。
それが、「明治二十三年(一月三十一日現在)」の職員録では、同郡役所の住所は、「稗貫郡里川口町」になっています。
その後も毎年、同郡役所の住所は、「稗貫郡里川口町」です。
それが明治二十七年からは、なぜか同郡役所の住所は「稗貫郡花巻町」になります。町の境界が変わったのでしょうか? でも、明治三十年(十一月一日現在)の職員録を見ると、下図左端のように「町長」の欄に「里川口」という名前があり、この時点でもまだちゃんと「里川口町」が存在していたことがわかります。
明治三十一年の職員録はなぜか欠号ですが、三十二年(二月一日現在)のそれにおいては、ついに「稗貫郡役所」の住所は下図のように、「稗貫郡花巻川口町」となっています。
今は時間がないので調べられないのですが、「近代デジタルライブラリー」をもっと詳しく見ると、さらにもっと直接的な史料も出てくるのではないかと思います。
ということで、やはり私としては、花巻市の公式刊行物や、かぐら川さんが参照しておられる角川の『日本地名大辞典/3岩手県』などに、なぜ「里川口町」が載っていないのだろうかということが、不思議なのです。