「永訣の朝」は、次のように始まります。
けふのうちに
とほくへいつてしまふわたくしのいもうとよ
みぞれがふつておもてはへんにあかるいのだ
(あめゆじゆとてちてけんじや)
うすあかくいつそう陰惨な雲から
みぞれはびちよびちよふつてくる
(あめゆじゆとてちてけんじや)
青い蓴菜のもやうのついた
これらふたつのかけた陶椀に
おまへがたべるあめゆきをとらうとして
わたくしはまがつたてつぽうだまのやうに
このくらいみぞれのなかに飛びだした
(あめゆじゆとてちてけんじや)
ここに出てくる「まがつたてつぽうだまのやうに」とはどういう意味か、という問題は、国語の教科書にこの詩が載っている場合には、しばしば授業で取り上げられるようで、「Yahoo!知恵袋」などネット上の質問サイトでも、定番の質問の一つのようです。
石黒秀昭氏による感動的な授業、『宮澤賢治「永訣の朝」の授業 トシへの約束』(幻冬舎)では、この部分については次のように教師と生徒の会話が進行します。
教師 家の構造を想像して。〈簡単な図を書く〉
生徒 賢治は急いではいるものの、まっすぐに飛び出すわけに
はいかない。廊下や部屋の角を曲がって飛び出して行っ
たはずだ。だから、「まがつた」と表現したんだ。教師 そうです。部屋や廊下には壁がありますから、直線で外
には飛び出せない。急ぎながらもぶつからないように曲が
って飛び出したのでしょう。軌道が曲がっている。そのよう
に読めます。
いかに賢治が急いでいたのか。それがこの比喩で表現
されています。
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つまり、「まがつたてつぽうだまのやうに」とは、発射された「鉄砲玉」の軌道が、「曲がっている」ということを表しているのだというわけですね。
しかし、落ち着いて考えてみると、これは結構わかりにくい比喩です。先入観を取り払って、虚心に思いをめぐらせれば、この表現の解釈としては、少なくとも次の三つがありえるでしょう。
(1) 鉄砲玉そのものが曲がっている
これは、図示すると、下のような状態ですね。
「まがつたてつぽうだま」とあるのですから、字句どおり最も素直に解釈すると、こうなるのではないでしょうか。
しかし、このように銃弾が曲がっていたら、それを鉄砲に込めることはできませんし、すると当然発射も無理ですから、この解釈は現実的ではありません。
(2) 発射後の銃弾の軌道が曲がっている
これも図示すると、下のようになります。
これも、現実にはなかなかありそうにもない状態です。ただ、銃弾の速度がいくら速いと言っても、重力の影響で軌道は非常に平坦に近い放物線を描きますから、厳密には「曲がって」いるのは事実です。
しかし、上記の「永訣の朝」の解釈で言われているように、賢治が「廊下や部屋の角を曲がって飛び出して行った」様子の比喩となるような、かくっかくっと折れ曲がるような軌道を銃弾が描くということは、やはり現実にはありえません。
ご存じのように、銃身の内側には「施条」あるいは「腔綫」と呼ばれる螺旋状の溝が刻まれていて、発射された弾丸は旋回運動をしながら進むため、ジャイロ効果のおかげで、軌道がカーブすることはほぼ皆無なのです。
しかし、「まがつたてつぽうだまのやうに」の国語授業的な解釈としては、これが「正解」ということになるのだろうと、長らく私は思っていました。
(3) 銃身が曲がっている
これは、最近になってある動画を見てから考えるようになったのですが、図示すると下のようになります。
つまり、「まがつたてつぽう」です(笑)。
実際にこんな銃があったら、発射した瞬間に銃身が破裂してしまいそうな気がして、これもまた現実的な解釈とは言えないと私は思っていたのですが、最近たまたま下のような動画を目にしました。
2か所で直角に曲がった鉄パイプの中に打ち込んだ弾丸が、ちゃんと反対の端から出てくるのかという実験をしているところです。2分10秒すぎから実際に発射されますが、弾丸はちゃんと鉄パイプの反対側から出てきて、牛乳の入った容器を貫くんですね。
これをきっかけに調べてみると、歴史的には「曲射銃」というものがあって、物陰などから敵を撃つために、銃身が最初から90度曲げられた銃などが作られていたのだそうです。たとえば、こちらのツイートをご参照下さい。ガスの制御が難しく、銃身の摩耗が激しいなどの難点があるため、現代ではもう作られなくなったそうですが、第二次大戦中にドイツ軍は実戦でも使用していたということです。
すなわち、上の三つの解釈のうちで、唯一現実的なのは、意外なことに (3) なのです。
そう思ってあらためて考えてみると、トシの言葉(あめゆじゆとてちてけんじや)を聞いた賢治が「廊下や部屋の角を曲がって飛び出して行った」際に、賢治という「鉄砲玉」が通った廊下も部屋も、実はまだ鉄砲の「銃身の中」であり、屋外に出た瞬間に、この弾は「発射」されたのだと想定することができます。
つまり、鉄砲の「銃身が曲がっていた」と考えるのが、最も現実的であり、また意味内容としても妥当に思えてくるのです。
とは言え、賢治自身もこう考えて「まがつたてつぽうだまのやうに」という比喩を用いたのだ、などと主張するつもりは、毛頭ありません(笑)。
年の瀬の慌ただしい時期に、恐縮でした。
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